イースターの目的

2021年4月4日
ヨハネによる福音書20章19~31節

ハッピーイースター、復活祭おめでとうございます。ディズニーランドでは前はイースターから2か月間位イースターフェアを行っていましたが、2か月は少し長すぎるかなと思っていました。それは参加企業の一つである山崎パンが頑張っていたからか、それとも他にイベントの無い季節であったからかは良く分かりません。

しかし今年は、ハッピーフェア・ウィズ・ベイマックスという、ディズニー映画のベイマックス関係となって、イースターとは関係なさそうで残念です。ディズニーランドで今後、イースターがどういう扱いになるのかは知りませんが、山崎パンにぜひ頑張って欲しいものです。

1、現れたこと

今日はイースターで、主イエスが一昨日の十字架の死から復活された日です。しかしそうであれば聖書個所がずれているのではないかと感じられるかも知れません。小見出しにあるように、復活のことは1~10節に書かれているからです。

福音の最も大切なことの4つがコリントの信徒への手紙一 15:3、4(p314)にありました。一つ目の死んだことは小見出しにあるように、ヨハネによる福音書では、先週の19:28~、二つ目の葬られたことは、19:38~に書かれてあります。この二つは一昨日の金曜日に起こったことです。

そして十字架の死から三日目の今日のイースターに起こったことは、三つ目の復活したことが20:1~、そして四つ目の現れたことは20:11~です。イースターは、復活したことと現れたことの2つの大切な出来事がありますが、今日は四つ目の現れたことに注目したいと思います。

どうしてかと言いますと、学校等の宿題で今日迄にこれをしなさいと言われて、はい、家でやりましたというのは屁理屈です。家でやった宿題はやった証拠として学校に持って来る必要があります。主イエスが復活されたことは大切なことですが、その証拠として人々の前に現れる必要があります。そこで福音の大切なことは、三つ目の復活迄ではなくて、四つ目の現れたこと迄となっています。

2、弟子たちの恐れ

その日、というのは微妙なところもありますが、ヨハネの書き方ですと、イースターの今日の夕方と考えられます。弟子たちはユダヤ人を恐れていました。なぜ恐れたのでしょうか。自分たちの師である主イエスが十字架で殺されたので、弟子である自分たちも同じように殺されるのではないかと恐れたようです。

弟子たちが恐れていたのはユダヤ人だけだったのでしょうか。前の18節で、「マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、『私は主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝え」ました。弟子たちは主イエスが復活されたことを聞いて知っていました。しかしユダヤ人を恐れていました。

なぜでしょうか。弟子たちは主イエスが捕らえられると、自分たちも同じ目に遭うのではないかと恐れて主イエスを見捨てて逃げました。主イエスから離れてしまいました。恐れは神から離れる罪の中から生まれてくるものです。神から目を離してこの世のものを恐れることは、更なる恐れを招きます。

弟子たちは主イエスから離れてしまっていたので、神の御業である主イエスの復活の話を聞いても信じられませんでした。

また本当に主イエスが復活されたのであれば、逆になぜ私を見捨てて逃げて、見殺しにしたのかと主イエスから責められることを恐れたのかも知れません。

神から離れてしまうと、全てを恐れて八方塞がりように思えてしまうものです。弟子たちは自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていました。私たちは神から離れるという罪の状態に陥ると、全てを恐れて、心の鍵を堅くかけて、自分の殻に閉じこもって、頑なに心を閉ざしてしまうものです。

3、平和

そこへ、主イエスが来て真ん中に立ちました。頑なに心の鍵をかけている者の心にも主イエスは訪れてくださいます。そして「あなたがたに平和があるように」と言われました。平和はギリシャ語で書かれていますが、主イエスたちが使っていたヘブル語に近いアラム語では、シャロームと言っていたと思われます。

シャローム、平和とは、「神が共におられる」ということです。それは私は十字架で死んだけれど、こうして復活してあなたがたと共にいるということです。そしてまた、あなたがたは私を見捨てたけれど、その罪も赦して、あなたがたと共にいるということです。

そう言って、手と脇腹とをお見せになりました。手は複数形ですので両手に釘の跡、脇腹には槍で刺された傷がありました。この時の主イエスのお体はどのようなお体だったのでしょうか。主イエスの体には生前の体にあった手と脇腹の傷が残っていますので、生前と同じ肉体と考えられます。

しかし鍵のかけてある家の戸を通り抜けていますので、普通の人間の肉体とは違うようにも思われます。コリントの信徒への手紙一 15:44は、復活の体は霊の体と言います。しかしルカ24:39で復活された主イエスは、「霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ」と言われて、焼いた魚を食べられました。

ということはこの時は体を持たれていたということです。家の戸を通り抜けたのは、湖の上を歩かれたような神の御業でしょうか。いずれにしても弟子たちは主を見て喜びました。それは確かに自分たちの師であって、十字架で死なれた主イエスが復活されたからです。そして自分たちが主イエスを裏切った罪も責められずに完全に赦されたからです。

4、トマス

12人、12弟子の一人でディディモと呼ばれるトマスがいます。ディディモはギリシャ語、トマスはアラム語で意味は両方とも双子です。トマスは主イエスが来られたとき、他の10人の弟子たちと一緒にいませんでした。なぜ一緒にいなかったのでしょうか。

なぜって、それはトマスだって何か用があったのだとも思われます。しかしここではそれ以上の意味があると思います。それは「教会」という言葉が、「人の集まり」を意味するように、信徒の交わりの中にいないと神の御業を見損なってしまうことがあるということです。

それはいつも集まってただ屯していれば良いということではなくて、同じキリストの体である者として交わりを大切にすることです。トマスにはその部分が欠けていたのかも知れません。このことには私も思い出があります。ロンドンにある日本人教会に通っていた時に、礼拝の後に教会から離れた所にある牧師館で交わりがありましたが、初めの頃は私は参加していませんでした。

しかしある時に礼拝に出席した歌手の久保田早紀(久米小百合)さんが、礼拝の後で牧師館でミニコンサートをしたことを後から聞きましたが、後悔先に立たずです。

ロンドンという場所柄、有名人が時々、礼拝に出席します。それからはいつ誰が来て、何があっても良いようにという訳ではありませんが、礼拝の後の交わりにも参加するようになりましたが、久保田早紀さんは二度とは来ませんでした。しかしそこの交わりで親しくなった妻と結婚することになりました。

ただ、今は、コロナウィルスの感染拡大という特殊な状況にありますので、教会で集まることには拘らないで、YoutubeやCD、説教原稿等、色々な方法を通して教会という一つの体としての交わりを持ちたいと思います。

他の10人の弟子たちが、「私たちは主を見た」と言うと、トマスは言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」この箇所から良く、疑い深いトマスと言われます。

しかしトマスと似たような経験をした私としては何となくトマスの気持ちが分かるような気がします。主イエスが来られた時に、トマスは恐らく何か特別な用事があった訳ではないと思います。ただ他の弟子たちとの交わりをそれ程には重要視していなかったのではないでしょうか。

しかしそこに復活された主イエスが来られました。トマスには自分も弟子たちとの交わりに参加していれば良かったという後悔があったのではないでしょうか。そして自分も復活された主イエスに直に会って、両手と脇腹の傷跡を見たかったのではないでしょうか。

自分だけ仲間外れのようになってしまったことが、トマスの少しいじけて駄々を捏ねるような言い方になったのではないでしょうか。10人の仲間の弟子たちが復活の主イエスに会ったと言っているのですから、それを本当に疑っていた訳ではないような気もします。

八日の後というのは日曜日も含めて八日目という意味で、次の日曜日という意味のようです。弟子たちはまた家の中におり、トマスも今度は一緒にいました。今度こそはというトマスの気持ちが分かる気がします。すると同じように、戸にはみな鍵がかけてあったのに、主イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように(私はあなたと共にいる)」と言われました。

一番嬉しかったのはトマスだったのではないでしょうか。主イエスはトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。」トマスの願いを主イエスは全てご存じで、願い通りに応えてくださいました。

主イエスはトマスの一見、自分勝手と思えるような願いをも叶えてくださいました。それはなぜなのでしょうか。それはトマスの願いが主イエスを試みるためではなくて、本当に心の底から信じるためのものだったからです。求める者には与えられますので(マタイ7:7)、信じるための確信が欲しい方はぜひ求めて頂きたいと思います。

5、福音

福音の最も大切なことの4つの内の初めの2つは一昨日の金曜日のことで、後の2つは今日のイースターのことです。福音の最も大切なことの4つは主イエスと父なる神がされたことです。

その福音はこのヨハネによる福音書にも書かれていますが、この福音書が書かれた目的、また4つの内の特に後半の2つが起こったイースターの目的は何でしょうか。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」です。

ただ神を試すための願い、祈りは応えられません。しかしトマスのように、信じるための確信を求めての願いであるなら応えられます。なぜなら、主イエスは、私たちが信じない者ではなく、信じる者になることを求めておられるからです。

トマスは主イエスの「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」のお言葉に答えて、「私の主よ、私の神よ」と言って、主イエスを救い主と信じて告白しました。トマスは信じて、イエスの名によって命、永遠の命を得ました。

福音の大切な4つは主イエスがなされたことです。しかしその後に続く大切な2つは人間が関わることです。信じることと命を得ることです。人間が関わると言っても、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません(Ⅰコリント12:3)ので、これも神の働きです。

6、目的

福音には合計で6つの大切なことがあることが分かりましたが、ここには4つを理解されて6番目迄来られている方も多くおられます。しかし聖書の完全数は7ですので、7番目があります。それは21節で主イエスが、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」言われた通りに遣わされることです。

しかし、ただ遣わされるのではありません。飽くまでも、「父が主イエスをお遣わしになったように」です。それは自分の思い、考えで遣わされるのではありません。いつも父の御心に従ってです。そう言われてから、主イエスは弟子たちに息を吹きかけられました。

息という言葉には霊という意味もあります。これは創世記2:7で、神が人を創造された時に命の息を吹き込まれたことと同じです。神の霊である聖霊を受けることです。第一の創造で人間は息を吹き込まれて生きる者となりましたが、アダムとエバの罪によって神のかたちは毀損されてしまいました。

しかし主イエスを信じる信仰によって再び、神のかたちを回復する者とさせて頂けます。昨年度に引き続き今年度の茂原教会の御言です。しかし息は一度吸っても少し時間が経つと直ぐに苦しくなってしまいますので、息はいつもし続ける必要があります。

それは主イエスがいつも祈り続けて、神の御心を求め続けておられたように、私たちもいつも神との交わりを続けて、息をして聖霊を受け続ける必要があります。イースターを含めた福音の目的は、主イエスは神の子メシアと信じて命を得ることです。

聖霊を受けて、まず信じて命を得させて頂きましょう。そして命を得られた方は更に聖霊を受けて遣わせて頂きましょう。その目的ために主イエスは十字架につかれて、このイースターに復活されて現れてくださいました。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスはこのイースターに復活されて人々の前に現れました。その目的は主イエスを信じて命を得るためです。主イエスは全てを成し遂げられた上に、信じることが出来るように聖霊を送ってくださいます。

どうぞ全ての人が命を得ることが出来ますようにお導きください。そして命を得た者を更に聖霊で満たしてお遣わしください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。