苦難から感謝へ

2021年5月2日
コリントの信徒への手紙二1章1~11節

主の御名を賛美します。何週間か前の祈祷会で少しお話しましたが、私たちは比較的に若い時には、ある程度は自分を頼りにすることが出来ます。それは自分一人の努力次第で結果が付いて来ることはあるからです。例えば、勉強をすれば成績は上がりますし、練習をすれば習い事やスポーツ等は上手くなります。

しかし年齢を重ねる毎に、自分の力だけを頼りにしても力の及ばない範囲がどんどんと広がって行きます。例えば、他の人との人間関係等は、別の人格を持つ人との関りですので、自分の意思だけではどうにも出来ないことがあります。私たちはその様な時にどうすれば良いのでしょうか。御言を聴かせていただきましょう。

1、挨拶

今日からコリントの信徒への手紙の二に入ります。パウロは前の手紙一の後にコリントに行ったようですが、行く前に予定していた長期の滞在とは違って短い滞在でした。この手紙は手紙一から1年後位の前後に書かれたようです。

初めの挨拶は手紙の決まり通りに、一番目は差出人の名前でパウロです。パウロと名前だけ書けばコリント教会は分かりますが、コリント教会にはパウロが使徒であることに疑問を持つ者がいたり、偽の使徒もいることが後に書かれています。

そこで、パウロは自分の思いで自分は使徒と名乗っているのではなくて、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた」と説明します。テモテの名前も連名で書かれていますが、手紙の本文の多くは「私」と単数で書かれていまので、これはパウロが話していることをテモテが手紙として書いたのかも知れません。

二番目は宛先の名前で、「コリントにある神の教会、ならびに、コリントを州都とする、アカイア州全土にいるすべての聖なる者たちへ」ですので、この手紙は書き写されて他の地域の教会に伝えられたか、回覧されました。

三番目は祝祷で、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」です。恵みは神が無条件で与えてくださるご好意で幅広い意味がありますが、特に主イエスの十字架による救いです。そして平和は、恵みによる救いによって得られる、神が共におられることによる平和です。

四番目は、神を褒め称える頌栄です。神はどの様なお方であるのかを三つの表現を使って表します。一つ目は、私たちの主、救い主イエス・キリストの父なる神です。父なる神は、私たちの救いのためにイエス・キリストを遣わしてくださったお方です。

二つ目は、慈しみ深い父です。慈しみ深いを新改訳は、あわれみ深いと訳し、他には思いやり深いという意味です。三つ目は、慰めに満ちた神です。「慰め」とは、元々「強める、支える」(パラクレーシス)という意味で、聖霊は別名で「助け主」(パラクレートス)と呼ばれますが、同じ言葉に由来しています。

父なる神は創世記1章でこの世を造られた時に、ご自身で造られるのではなく、言である主イエスによって造られました。同じ様に、慰めは助け主である聖霊によって与えられます。神は三位一体のお方です。

2、苦難と慰め

パウロはここまで、①差出人、②宛先、③祝祷、④頌栄と、丸で礼拝のプログラムのように順序通りです。しかしパウロはとても情熱的な性格のようで、ローマの信徒への手紙でも初めの挨拶の1:1で福音という言葉を使うと、福音の説明に入って行って、横道に逸れた感じでした。

今回も「慰め」という言葉を使うと、3~7節で慰めを10回使って説明します。パウロは、「神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださる」と言いますが、どうしてその様に言い切ることが出来るのでしょうか。

パウロは多くの苦難に遭っていて、そのリストは11:23~28にありますが、投獄されたことも多く、鞭打たれたことは数えきれず、死ぬような目に遭ったことも度々でした。しかしどのようなときにも、慰めを実際に受けた自分の体験に基づいて、どのような苦難のときにも慰めてくださると言います。

そして苦難のときに慰めを受けることには目的があります。それは私たちが苦難のときに、神からいただく慰めによって、今度は、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができるようになることです。苦難の中にある人々の気持ちを理解して慰められるのは、自分自身が苦難の経験をして慰められた人です。

自分自身が経験したことのないようなことを理解するのは難しいことです。ヘンリーナウエンの書いた本に「傷ついた癒し人」というものがあります。傷ついた人の心を癒す癒し人というのは、自分自身が傷ついて神に癒された経験を持つ人です。そこには慰めというバトンのリレーが起こって行きます。

しかし私たちが苦難を経験するのは、慰めを受けて苦難の中にある人々を慰めることができるようになるためだけではありません。キリストの苦しみが私たちに満ち溢れるためです。私たちの経験する苦しみが必ずしもキリストのための苦しみとは限りません。

しかしキリストも通られた苦しみに与かるとき、そこにはキリストが共にいてくださいます。そしてそこで私たちが受ける聖霊による慰めもキリストによって満ち溢れています。

コロサイ3:10に、「新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ」とありますが、どのようにして新たにされるのでしょうか。それは苦しみをキリストと共に歩み、慰めもキリストによって満たされることによってです。

それはマタイ5:4で、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」とある通りです。パウロたちが苦難に遭うなら、それはコリント教会の慰めに繋がるものです。しかしパウロたちの苦難がコリント教会の救いのためというのは少し分かり辛い感じがします。パウロは救い主キリストではありませんから、パウロがいくら苦難に遭っても、それによってコリント教会が救われて永遠の命を得ることは出来ません。

ですからこの文章は、パウロたちの苦難がコリント教会の慰めに繋がって、救いに繋がるという意味です。また、パウロたちが慰められるなら、それによってコリント教会を慰めますから、それはコリント教会の慰めのためです。そしてこの慰めは、パウロたちの苦しみと同じ苦しみにコリント教会が耐える力となります。キリストを信じる者の苦難は苦難だけで終わるものではなくて、慰めをいただいて、苦しみに耐える力となります。

パウロは私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません、と言いますが、抱いている希望とはどのようなものなのでしょうか。その理由は、「なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは死っているからです」。

苦しみと慰めをパウロたちと神と共にしているということは、主に似た者へと変えられて行くということですので、7:1にあるように完全に聖なる者となる希望です。完全に聖なる者となると言っても、人が道徳的に完全に聖なる者になる訳ではありません。それは完全に聖なる神に倣う歩みを続ける希望と言えます。

ここまでの経緯を纏めると、苦難→慰め→忍耐→希望となります。ローマ5:3、4には、「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生む」とありました。途中のルートは違っても苦難は希望に繋がります。

3、苦難と救い

パウロが、「きょうだいたち」と呼び掛けてるのは特に大切なことを話す時です。「私たちがアジアで遭った苦難について、ぜひ知っておいてほしい。私たちは、耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失い、私たちとしては死の宣告を受けた思いでした」。

このアジアで遭った苦難とは何かと考えさせられます。手紙一の15:32のエフェソで獣と闘ったとあることとか、11:23~28の苦難のリストの中のことか、使徒言行録19章で、エフェソのアルテミス神殿の銀細工の模型を、「パウロが手で造ったものなど神などではないと言っている」と言われて暴動になったこと等が考えられます。

しかし「ぜひ知っておいてほしい」というのはコリント教会が知らないことだと考えられます。いずれにしても、苦難によって耐えられないほどひどく圧迫されるというのは、パウロたちだけが遭うことではなくて、ここにおられる誰もが通る道です。そのような時にはどうしたら良いのでしょうか。

一つ目は、「自分を頼りにすることなく」です。初めにお話ししましたように、自分の力だけを頼りにしても全く手に及ばない苦難がこの世の中には沢山あります。パウロが遭った苦難は自分を頼りにすることなど到底、不可能なことでした。

そこでパウロはどうしたかというと、「死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。パウロは真に頼るべきお方に頼りました。「死者を復活させてくださる神」というのは、一の手紙の15:3、4にあった福音の大切な4つの一つである死者を復活させてくださる力をもつ神です。

死者を復活させてくださる神というのは、この世の不可能を可能にされる力を持たれる神でもあります。大きな苦難の中で神を頼りにするのはパウロだけがすることではありません。

普段は信仰を持っていない人でも、明らかに自分の手には負えないお手上げの時には、「苦しい時の神頼み」をするものです。

「神を頼りにするようになりました」を新改訳は、「神に頼る者となるためだったのです」と苦難の目的として訳しています。大きな苦難に遭うことは、神に頼る者となるためのことであり、神に頼る者となる目的を果たさなければ、苦難はただ苦しいだけで何の意味も持ちません。

パウロは苦難に遭う時に神を頼って、その結果はどうだったでしょうか。神は、大きな死の危険からパウロたちを救ってくださいました。その様な救いの経験は、また救ってくださることでしょう、これからも救ってくださるに違いないと、神に望みを置くことが出来るようになります。

8節からの経緯を纏めると、苦難→神頼み→救い→希望となります。神は苦難のときに、慰め、救ってくださり、最終的に希望に導いてくださるお方です。

4、祈りにより感謝へ

8~10節は、神と本人との関係です。しかしパウロはコリント教会の祈りによる協力を求めます。それはコリント教会の祈りによる支えの力をパウロは知っているからです。コリント教会を含む多くの人々の祈りに応えてくださる父なる神はパウロたちに御業をなしてくださいます。

そしてパウロたちに与えられた恵みを耳にすれば、多くの人々が自分たちの祈りが応えられたことを知って、神に感謝を献げるようになります。パウロはどんな切っ掛けも用いて、コリント教会が神に祈り、感謝を献げるようになることを願っています。それがコリント教会の信仰の成長になるからです。

またパウロは苦難の中にある者のために祈ることが一致に導くことを知っています。ですから自分たちの苦難をも用いて自分たちとコリント教会との一致、また分裂が起こっているコリント教会の内部が一致するようにと願っています。

祈りによって一致が出来て、苦難の中にある者に恵みが与えられれば、今度は一致して感謝を献げるようになります。クリスチャンの交わり(コイノニア)とは本来、そういうものです。パウロは自分たちの苦難を用いて、多くの人々が一致して神に感謝を献げることを望んでいます。

皆さんは、今、どの様な苦難を抱えておられるでしょうか。苦難を苦難だけで終わらせてしまってはただ苦しいだけです。苦難を神の前に持って行けば、慰めが与えられ、救いに導かれ、最終的には希望に繋がります。そのために主イエスは十字架に付けられました。また私たちの苦難は、苦難に与えられる神の恵みによって、多くの人々が神に感謝を献げるようになるためです。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。パウロたちは多くの苦難に遭いましたが、苦難に遭うことは現代を生きる私たちも同じです。しかし聖書は苦難は苦難で終わるのではなくて、神にある者には、慰めと救いが与えられることが約束され、最終的には希望に導いていただけますから有難うございます。また苦難の中におられる人たちのために祈り、そこに与えられるあなたの恵みに感謝を献げる者とさせてください。そしてクリスチャンの真の交わりに生きる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。