神は真実な方

2021年5月9日
コリントの信徒への手紙二1章12節~2章4節

主の御名を賛美します。子どもであるとか若い人が、明らかに間違ったことをしている時に、場合によっては、例え相手を一時的には悲しませたとしても、時には厳しく対応をせざるを得ない時もあります。

それは相手がどうなっても良いと思っているのではなくて、本当に良い方向に進んで行って欲しいと心から願うからです。そしてその様な相手が良い方向に進んで行くのは本当に大きな喜びです。そのようなことを思いつつ御言を聴かせていただきましょう。

1、涙の手紙

先週から手紙二に入りまして、挨拶は手紙の決まり通りでしたが、3節の頌栄で「慰め」という言葉を使った途端に、慰めの話に入って少し横道に逸れた感じでした。横道に逸れたというより、パウロの心の中の思いが溢れた感じですが。今日の個所からまた本題に戻ります。

今日の個所の小見出しには「コリント訪問の取りやめ」とありますので、手紙一の16:5でマケドニア経由でコリントに行くとあったのを取りやめたのかと思ってしまいます。パウロがコリント教会宛てに書いた手紙の数とコリント教会への訪問の回数については、色々な説があります。

細かい説明は省かせていただきますが、一つの代表的な説に従ってお話します。第一の手紙の後にパウロは使徒言行録には書かれていないコリント教会への訪問をしたようです。その訪問の様子が2:1に書かれています。それはコリント教会を悲しませる訪問となりました。

なぜそのようになってしまったのでしょうか。パウロはコリント教会への訪問に先立って、第一の矢として手紙一を送って、第二の矢としてテモテを送りました。しかしコリント教会はテモテの言うことを全く聞かず、テモテは失意の内にコリントを去りました。

その後に第三の矢としてパウロも行きましたがそれでも変わりませんでした。パウロに対しても攻撃をしたために、パウロはコリント教会に対して厳しく対応しました。そのために、結果として、コリント教会を悲しませることとなって、パウロも短い期間でコリントを去ることとなりました。

コリント教会の頑なな不従順さが分かります。パウロはコリント教会を悲しませて、勿論、満足などしている訳ではありません。コリント教会を愛するパウロに取って、コリント教会の悲しみはパウロの悲しみです。パウロの悲しみを喜びに変えられるのは、パウロが悲しませたコリント教会以外にはいません。

初めにお話ししましたが、子どもであるとか若い人に対して、このようなことを私たちも経験します。そこでパウロは、苦悩と憂いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。このことからその手紙は「涙の手紙」と呼ばれていますが、現在は無くなっています。

この涙の手紙を書いた理由は、「あのような手紙を書いたのは、(再び)そちらに行ったときに、喜ばせてくれるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです」(2:3)。パウロはコリントへの訪問が上手く行かなかったからといって決して諦めた訳ではなくて、もう一度、体制を整えてコリントを訪問する計画でした。

そして涙の手紙は、「それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている溢れるばかりの愛を知ってもらうためでした。」

2、訪問のとりやめ

そして次の訪問は、まずコリントに行く計画を立てました。そしてコリントを経由してマケドニアに行き、マケドニアから再びコリントに戻って、ユダヤに送り出してもらおうと考えたのでした。当然、その計画はコリント教会に知らされていたはずですが、その計画が取りやめとなってしまいました。

コリント教会は、パウロは言ったことを実行しない、いい加減な人間だというような不信感を持っているかも知れません。そこでパウロは計画を変更した具体的な話の前に、決していい加減な気持ちで計画を変更したのではないことを示すために、自分の姿勢を示す丁寧な説明をしています。

私たちも結果として他の人に迷惑を掛けてしまった場合などに、決していい加減な気持ちで行った訳ではないのですがといった様な前置きを初めに話したりします。パウロは、「私たちはこの世で、とりわけあなたがたであるコリント教会に対して、神の純真と誠実によって、すなわち人間の知恵ではなく神の恵みによって、行動してきました。」

パウロは多くの苦難に遭って来ましたので、人間の知恵、自分を頼りにしなくなっていたというより、出来なくなっていました。そうではなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。それは、神の純真と誠実によって、すなわち、神の恵みによって、行動してきました。

私たちも多くの苦難を経験しますが、その苦難を生かして、神の純真と誠実である神の恵みによって行動する者と変えられて行きたいものです。

そのような中で、パウロは確信をもって、コリント教会がもう一度、つまり二度恵みを受けるようにと、先程のコリントへの訪問計画を立てました。果たしてそれは、軽はずみだったでしょうか、それともパウロの計画は人間的な考えによるものだったのでしょうか。

パウロは手紙一の16:7で、「主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと望んでいます」と言うように、自分の考えではなく、いつも主の御心を求めていました。

3、神は真実な方

パウロにとって「然り、然り」が同時に、「否、否」となるのでしょうかと問うている意味は、然りは肯定で、否は否定ですので、コリントに「行く、行く」と口では言っていながら、初めから心の中では「行かない、行かない」と思っていたとでも言うのですかという問いです。

社交辞令として心の底では思ってもいないことを口にすることはあるものです。ですから人間的な考えによるものであればそのようなこともあるかも知れません。しかしパウロは神の純真と誠実とによって行動してきました、と言っています。

パウロの行動は、神は真実な方であるという事実に基づきます。何度かお話していますが、真実と訳されている言葉、ピスティスは神が主語ですと真実と訳して、人間が主語ですと信仰と訳します。人間の信仰とは神の真実を信じることです。

真実という言葉は、純真の真と誠実の実とを合わせた言葉です。人間は不完全な罪人ですが、神は真実なお方です。神は私たちがより頼み、拠り所と出来る唯一のお方です。そしてコリント教会に向けたパウロたちの言葉は、この神の真実に基づくものですので、「然り」(肯定)であると同時に「否」(否定)であるというものではありません。

第二回宣教旅行で、パウロとシルワノとテモテがコリントで神の子イエス・キリストを宣べ伝えました。シルワノというのはシラスのラテン語の名前です。神の子イエス・キリストは、「然り」(肯定)と同時に「否」(否定)となったような方ではありません。

イエス・キリストは手紙一の15:3、4の福音の最も大切なこととして、旧約聖書に預言されていた通りに、私たちの罪のために死んで、葬られ、三日目に復活されました。この方においては、「然り」、聖書に書いてある通りのことが全て実現しました。

神の約束はすべて、この方において、「然り」となって成就して、「否」となって成就しなかったことは何一つありません。それで、私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え、栄光を帰します。私たちは、お祈りをする時に、イエス・キリストの御名によって、つまりイエス・キリストを通してお祈りして、アーメンと唱えます。アーメンというのは、その通りになりますように、「然り」という意味です。

私たちは日々の生活の中で、時に自分の思いとは異なることが起こることがあります。その様な時にも、神は真実な方であることを信じて、アーメン(然り)と唱えて、受け止めて、神に栄光を帰するのがクリスチャンの生き方です。

そしてその様な生き方が出来るように、パウロたちとコリント教会そして私たちを、キリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注いでくださったのは、神です。油は聖霊で、私たちは油である聖霊を注がれることによって、神にアーメンと唱えて、栄光を帰します。21節では、神、キリスト、聖霊の三位一体の神が働かれています。

神はまた、クリスチャンにご自分の民としての所属を表すために証印を押されますが、証印とは同じく聖霊による証印です。またクリスチャンは保証、保証とは救いの保証、天国に入る保証等の意味ですが、その保証として、私たちの心に霊、聖霊を与えてくださいました。

パウロは、油、証印、保証として心に霊と、3通りの言い方をして、クリスチャンには聖霊が与えられていることを強調します。クリスチャンに聖霊が与えられるのは、神の御心に従って正しい判断が出来るようにと助けてくださる助け手としてです。

4、訪問とりやめの理由

その様に与えられている聖霊によって、パウロはどの様に導かれたのでしょうか。パウロはここまで前置きの説明を丁寧にして、核心であるなぜコリントに行かなかったのかを説明します。それは、「私は、神を証人として、命にかけて誓いますが、私がコリントに行かなかったのは、あなたがたに情けをかけたからです。」

今、またコリントに行けば、非常に厳しい対応を取らざるを得なくなるからです。しかし、パウロたちは、コリント教会の信仰を支配しようとする者ではなく、コリント教会の喜びのために協力する者である同志です。パウロはコリント教会に対して、「あなたがたは信仰にしっかり立っているからです」と言います。

パウロのこの言葉は嫌味か皮肉かとも聞こえてしまいそうな台詞です。しかし決してその様なことではなくて本心からだと思います。これは信仰に限ったことではなくて色々な状況で見られることですが、私たちは、何かの初心者や未熟な人を見かけると何かと口出しをしたくなってしまうものです。子育て等でもそうです。

つい見かねて口出しをしたりしてしまいがちです。そして結果として相手を支配してしまって、自立出来なくさせてしまったりしてしまうものです。しかし信仰は神の真実に対して人が応答することですから、神と人との間に他の人が入って支配するものではなくて、全ての人が神との直接の関係を築くものです。

他の人はある人が神との直接の関係を築いて喜びを得られるようにと協力をする者です。これは幼い子どもが成長するのを見守ることと似ています。幼い子どもが一人で何かをしているのを見守っているのは、ある意味じれったい部分があります。

しかしだからと言って、直ぐに大人が手出しをしてしまったら、その子どもはいつまでも一人で何かをすることが出来なくなってしまいます。パウロはコリント教会に少し時間を与えて信仰的に成長するのを見守るのが御心に適うことと聖霊に示されたのでしょう。

そして何よりもの理由が、あなたがたであるコリント教会は信仰にしっかり立っているからです。コリント教会の信仰はお世辞にも良い状態とは言えません。しかしコリント教会はイエス・キリストを救い主と信じる信仰に立っています。まだそれに見合った行いは伴なっていません。

しかし、神は真実な方です。時間は掛かってもコリント教会を間違いに気付かせ、悔い改めへと導かれることでしょう。そのためにパウロは今、自分がコリントに行くよりも、このようなかたちで手紙を書くかたちでコリント教会に協力することが御心であると導かれたのでしょう。

私たちの周りにも、なぜこのようなことがあるのだろうと思わされることもあります。しかしその様なことも、それが正しいか正しくないかではなく、今、どうすることが御心に適うことであるのか、聖霊の導きを求めましょう。神は真実な方ですので、時間は掛かっても必ず御心へと導いてくださいます。その時を期待して神の時を待たせていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。問題を抱えて、なおも頑ななコリント教会の姿は、罪人である私たち一人一人の姿です。しかし私たち人間が如何に罪深くても、神は真実な方です。真実な神は私たち一人一人に聖霊を与えてくださり、導いてくださいますから有難う御座います。

私たちが聖霊の導きに従うことが出来ますようにお守りください。また私たちは他の人を支配しようとするのではなく、他の人が真実な神と正しい関係を築いて喜ぶことが出来ますように、協力する者としてお用いください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。