霊が生かす契約

2021年5月30日
コリントの信徒への手紙二3章1~6節

主の御名を賛美します。私は牧師ということもあり時々、推薦状を書くことを頼まれることがあります。推薦状は聖書からの習慣か、現代でもキリスト教の国々では就職や進学の時にリファレンスと呼ばれて使われています。日本でもミッション系の学校や外資系の会社に就職する時に使われます。

推薦状はその人を推薦する優れている点を書いて、その人がその組織に入ったら、どのようなことが出来るか等を書きます。私が推薦状を書く時にいつも思わされることは、本当に神は一人一人を掛け替えの無い特別な存在として造られたのだということで、そのようなことを書いています。

そして自分が推薦状を書いた人が合格すると、推薦状を書いた者として自分も一緒に合格したようにとても嬉しいものです。推薦状を書く時は、教区長で良かったと思います。ここぞとばかりに推薦者の肩書に教区長と書いています。しかし不合格になると、若しかすると自分の推薦状の書き方が良くなかったからではなかったのかと反省させられています。

1、推薦状

前回の最後に、パウロは自分の伝道の特徴として4つのことを挙げて、真心から、また神によって、神の前でキリストにあって語っていると説明しました。2:5でパウロを悲しませた反対者は、11:13の偽使徒の影響を受けたと思われますが、パウロは自分で自分を推薦していると言って批判しました。

2:17の言葉は、正直な言葉かも知れませんが、自分を推薦する言葉として受け取られかねません。この当時も推薦状が習慣として使われていました。パウロ自身も手紙一の16:10、11でテモテを推薦する言葉を書いています。推薦状はこの当時から現代に至っています。

偽使徒はコリントに来る時に自分を推薦するために恐らくエルサレムからの推薦状を持参して来たようです。そしてコリントを出発する時にはコリントからの推薦状を貰って他の地域に移動したようです。偽使徒は推薦状を頼りにして絶対化していました。権威主義的なものでしょうか。

偽使徒はコリントではパウロに対する批判をして、恐らくパウロはどこからの推薦状を持って来たのかと聞いて、もしも持って来ていないのなら、次にパウロがコリントに来る時には推薦状を要求して良く確認した方が良いのではないのか等と入れ知恵をしたようです。

しかしパウロは、偽使徒が行っていた様に、コリント教会に来る時にはコリント教会宛ての推薦状、他の地域に移る時にはコリント教会からの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか、と問います。パウロは言います、「私たちの推薦状は、あなたがた自身です」と。

パウロの開拓伝道によって建て上げられた、コリント教会自身がパウロを推薦する推薦状です。コリント教会はパウロの心に記されている推薦状です。ですからパウロが推薦状を見せるように求められたらコリント教会を見てくださいということになります。

普通の推薦状は開封厳禁で、関係者以外が推薦状を開けて見ることは出来ません。しかしパウロの推薦状であるコリント教会は、すべての人に知られていて、また読まれている、誰にでもオープンな推薦状です。パウロがどのような人物であるかを知りたかったらコリント教会を見れば分かります。この表現にはコリント教会に対するパウロの愛が現れています。

コリント教会の現在の状態はお世辞にも良いと言えるものではありません。推薦状は普通は良いことだけを書いて、否定的なことは書きません。しかしパウロはコリント教会を開拓した責任者として、コリント教会の良い部分も悪い部分もひっくるめて全て自分の責任であり自分の推薦状だと言います。

そういう意味で言いますと、茂原教会の69年の歴史の中で私は9年しか関わっていませんが、私の推薦状は茂原教会であって、すべての人に知られ、また読まれています。私自身と比べて推薦状の方が良く書かれているのかなと思います。

茂原教会は私の推薦状であると共に、茂原教会に関わっておられる皆さん一人一人の推薦状でもあります。また推薦状は教会だけではなくて他にもありまして、それは自分が深く関わっている人です。例えば、結婚している人であれば、伴侶が自分の推薦状です。

前にもお話しましたが、ある人が本当にどういう人であるかは結婚相手を見ると一番良く分かります。結婚相手が平和に暮していれば、その人は穏やかな人であることが分かります。また子どもがいれば、その人の子どもを見てもその人のことが良く分かるもので、子は親の鏡です。それ以外にも家族などを見ても分かるものです。

平凡な家庭から秀でた子が出ると、諺で「鳶が鷹を生む」と言われたりします。しかし、例え鳶の様な平凡な家庭に生まれたとしても、愛情を注いで大切に育てられた子は鷹の様に立派な人になることは十分にあることだと思います。

さてコリント教会がパウロに推薦状を求めるということは、コリント教会自身に帰って来ることです。パウロがどんな推薦状を持っているのかということは、パウロの推薦状であるコリント教会がどのような状態かということですので、自分の在り方がどうなのかということが問われます。

しかしそのようなことを言われると、どきどきとして責任重大です。自分の推薦状である結婚相手、子ども、家族等が良くない状態であれば、それは全て自分の責任ということになってしまいます。逆に自分の推薦状である家族等が優秀であれば自分の手柄ということになります。

しかし私たちはキリストによって、このような確信を神に対して持っています。それは何事かを自分のしたことと考える資格は、私たちにはありません。それは私たちが何事かをして例え上手く行ったとしても、それは私たち自身の手柄ではありません。

ですから何か上手く行っても私たちは自分を誇ることは出来ません。少し残念な気もします。しかし逆に上手く行かなかったとしても、それは私たち自身の責任ではありません。これは何かと色々な問題を抱える私たちには大きな慰めです。

それでは私たちが何事かをする資格はどこから来るのでしょうか。それは神からのものです。昔、漫才芸人の人生幸朗師匠が「責任者出て来い」と良く叫んでいましたが、クリスチャンの責任者はいつでも神です。

パウロの推薦状であるコリント教会はパウロたちが書いたキリストの手紙です。パウロたちがコリント教会を開拓して指導したのですから確かに実際に書いたのはパウロたちです。ただパウロたちが書いたと言っても、自分たちが好き勝手な内容を書いたのではありません。手紙を書いた本当の筆者はあくまでもキリストです。キリストがパウロたちという筆記用具を使われて書いて、またパウロたちを用いて色々な御業を行なわれました。

2、旧い契約

そして神は二千年前に御子キリストをこの世にお遣わしになってくださり、私たちに新しい契約である新約に仕える資格を与えてくださいました。新しい契約と言うからには、その前の旧い契約である旧約もあります。旧約の中心は出エジプト記20章でモーセを通して与えられた十戒です。

十戒は石の板に文字で記されました。十戒自体は神を信じる者が、どの様な生き方をしたら良いかを示すものです。それはローマ7:12が言うように、十戒を含む「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです。」

ただ律法自体には人間が律法を守って実行する力を与えることが出来ません。それどころか、律法を守ることが出来ないという罪の意識を与えることになります。これはある特定の個人が悪いということではなくて、初めの人間であるアダムとエバが罪を犯してしまったために、人間は全て同じ罪の性質を持って生まれます。

律法は石の板が象徴するようにそこに命は無いので、人間に命を与えることが出来ません。しかしこのことは遥か昔から分かっていたことです。そこで紀元前6百年頃の預言者エレミヤは、エレミヤ書31:33で新しい契約が与えられることを預言しています。

しかし人によっては、初めから人間が実行することが不可能な律法を与えるとは、神は意地悪な方であると思われるかも知れません。しかし私自身もそうですが人間は自分勝手なもので、初めから自分は律法を守れない等と思っている人など殆どいなくて、逆に本気になれば守れると思っているものです。

実際に自分でやってみて律法を守ることがどうしても不可能であるということを何度も体験してみて、初めて神に頼らざるを得ないということが分かります。この手紙を書いているパウロ自身も元はパリサイ人で律法を詳しく学びました。

しかしその結果、ローマ7:15で、「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです」と言っています。人間の外側にある石の板に記された文字の律法は人間を生かすことが出来ません。

3、新しい契約

そこで新しい契約では、神の霊が人間の内側の心の板に律法を記されました。これは先週のペンテコステにこの世に降られた聖霊が、私たち人間の心の板に律法を記して導いてくださるということです。律法自体は聖なるもの、正しいもの、善いものであることに変わりはありません。

しかし律法を成就する方法が変わりました。旧約では下からの人間の努力で律法を目指して辿り着こうとしていましたが、それは無駄な努力で全く不可能なことです。

努力をすればするほど挫折感を味わって、自分の罪深さを知るだけでした。それはそれで正しいことです。なぜならガラテヤ3:24にある通りに、「律法は私たちをキリストに導く養育係」だからです。

そしてキリストに導かれた者には聖霊が与えられて、上からの神の力によって律法を成就する者へと変えられて行きます。キリストを救い主と信じる新しい契約に仕える者は文字である律法ではなくて聖霊に仕えて、聖霊の導きに従います。

4、文字は殺し、霊は生かす

文字は殺し、霊は生かします。ヨハネ8章に姦淫の女の記事があります。姦淫の罪はレビ20:10の律法によると死刑で、死刑にすることが正しいことです。しかし主イエスはこの女を悔い改めへと導いて、赦して生かしました。

これはこの女に限ったことではなく、主イエスはルカ7:36~の記事でも、主イエスの足に香油を塗った罪深い女を受け入れて赦して生かしました。それだけではありません。当時は罪人と呼ばれていた取税人のマタイを受け入れて弟子にしたりと多くの人を生かしました。このことは現代を生きる私たちも同じことです。

私たちが生活している至る所に文字で文章に書かれた決まりがあります。日本には法律がありますし、教会には教会規則があります。決まりを守ることは大切なことであり、決まりを有耶無耶にすることは良くないことです。

しかし決まりの目的はより良くすることであって、決まりに縛られてしまって逆に人を生かせなくなってしまったり、決まりを言い訳にして人を生かすことをしなかったら、それでは本末転倒です。主イエスが福音書で反対されたのは、律法の文字を形式的にだけ守って、律法の御心である神の愛に目を向けようとしない律法主義です。

ここでパウロに反対している者もパウロが教えている恵みの福音による救いに、律法主義の混ぜ物をした教えをする者たちのようです。福音を信じるだけではなくて、あれをしなければいけない、これもしなければいけないと、福音が教えていないことを追加して混ぜています。

神は私たちが恵みの新しい契約に仕えるために、御子主イエスを十字架に付けてくださいました。主イエスの十字架だけで十分であって、それに私たち人間の努力で付け加えることの出来ることは何一つありません。

主イエスの十字架の贖いによって、私たちは石の板ではなくて、私たちの心に聖霊が福音を記してくださり、聖霊に仕える者としてくださいます。文字の決まりによって縛られることの無いように、聖霊に仕えて聖霊によって解放されて生き生きと、生かさせていただきましょう。

そして同じように他の人を文字の決まりによって縛ることの無いように、聖霊に仕えて聖霊の導きによる神の愛によって人を生かす者とさせていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは聖なる律法を私たちに授けてくださいましたが、私たちには律法を守る力はありません。しかし主イエスの十字架を通して聖霊を与えてくださり、聖霊に仕える新しい契約に生き、聖霊によって生かされ、律法を成就する者へと変えてくださいますから有難うございます。

私たちが文字によって自分や他の人を縛ることなく、聖霊によって神の愛に生きる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。