キリストのかぐわしい香り

2021年5月23日
コリントの信徒への手紙二2章12~17節

主の御名を賛美します。今は、コロナウィルスの影響で旅行をするのは難しく、特に海外に行くのは難しいですが、その分テレビで旅行の番組等が放送されています。海外に行くとそれぞれの国には、それぞれの香りがあると言われます。確かに外国の空港に着くと香りが何となく違います。

私は外国から日本に戻って来た時に特に香りを感じたことはなくて、日本は無臭のような気がしていましたがそれは私が日本人で日本の香りに慣れているからでしょうか。外国人は日本の空港に着くと醤油の香りがすると言います。

それは日本では色々なところで醤油を良く使うので心理的に醤油の香りがするのか、空港に入っている食べ物屋さんから実際に置いてある醤油を使った物からの香りなのかは良く分かりません。

1、トロアスからマケドニアへ

パウロは先週の箇所で、過ちを犯した人を赦すことを話しましたが、今日の個所では、4節迄のコリントへ行くと伝えていながら行かなかった話の続きに戻ります。パウロは前の手紙一を書いた時からエフェソにいましたが、その後にアジアの西の端のトロアスに行きました。

トロアスではキリストの福音を伝えるためという大切な目的がありましたが、もう一つ、テトスに会うという大きな目的がありました。テトスは、新約聖書の中にパウロがテトスに宛てた「テトスへの手紙」がある程に、パウロが信頼した同労者です。

パウロがトロアスに行ったときに、主はパウロのために扉を開いてくださいました。パウロのために扉を開くとはどういう意味なのでしょうか。手紙一の16:9ではエフェソでも大きな扉が開かれていました。「私、パウロのために扉を開いて」とありますので、宣教をする以前に、まずパウロの滞在のための環境が備えられたと考えられます。

贅沢ではないかも知れませんが、寝泊まりをして飲食が出来て、宣教を続けるための生活の基盤がまず用意されました。その上で、福音を伝える環境も整えられたのでしょう。大きなチャンスが備えられました。しかしパウロは心に不安を抱いていました。それは兄弟テトスに会えなかったからです。

テトスは、4節でパウロが苦悩と憂いに満ちた心で、涙ながらに書いた手紙である、通称、「涙の手紙」をコリント教会に持って行ったと考えられます。そしてパウロはトロアスでコリントから戻るテトスと会う約束をしていました。そして、涙の手紙を持って行ってコリント教会はどうなったのか、テトスからコリントでの報告を聞く予定でした。

しかし、テトスに会えなかったので、パウロはテトスとコリント教会はどうなったのか不安でした。パウロは主が扉を開いてくださったトロアスで福音を伝えながらテトスを待つか、マケドニアにテトスを迎えに行って、一刻も早くコリントの報告を聞くか悩んだことでしょう。パウロは祈って、聖霊の導きを求める中で、マケドニアに行くことが御心だと信じて出発しました。

しかしパウロにとってコリント教会が大切なのは分かりますが、トロアスの人々の救いはどうなるのでしょうか。マタイ5:23、24は「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、きょうだいが自分に恨みを抱いていることをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って、きょうだいと仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」と言います。

パウロは前回のコリントへの訪問ではコリント教会を悲しませることになって、今度は訪問すると伝えていながら行かなかったので、コリント教会との関係は良くありません。パウロにとってはコリント教会との不和を解消することが、まず行うべきことでした。

他の不安を抱いたままでは良い宣教は出来ません。また、コリント教会との不和はパウロでなければ解消することは出来ませんが、トロアスでの宣教はパウロではなくても出来ることです。しかしこの手紙によって、この辺りの経緯を知らされるコリント教会はどのように思うことでしょうか。

コリント教会に何も問題が無ければ、パウロは主が扉を開いてくださったトロアスで福音を伝えて、多くの人々が救われるはずでした。しかしそのことを止めて犠牲にしてまで、パウロはコリント教会のためにトロアスに別れを告げてマケドニアに向けて出発しました。自分たちのために申し訳ないという気持ちと、それほどまでのパウロの自分たちに対する愛を感じたでしょうか。

2、キリストのかぐわしい香り

色々なことがありますが、パウロは神に感謝します。ここでは特に感謝する具体的な理由があります。それはまず、神は、キリストにあって、いつも私たちを勝利の行進に連ならせてくださるからです。これはどのような意味でしょうか。「勝利の行進に連ならせ」を新改訳は、「凱旋の行列に加え」と訳しています。

これはローマ軍が戦争で勝った後に行う、凱旋の勝利の行進の光景に譬えています。オリンピック等でメダルを取った選手が、銀座等で凱旋パレードをするようなものでしょうか。そこには戦利品や捕虜となった人たちも連なっています。それはキリストの奴隷となったパウロ自身の姿を重ね合わせています。

そして道の至るところでは香がたかれますが勝利のかぐわしい香りです。同じように、キリストの勝利の行進に連なる私たちを通して、キリストを知る知識の香りを放ってくださいます。キリストを知る知識の香りというのは、一体どのような香りなのだろうかと思います。

キリストを知る知識は聖書に書かれているので、聖書の香りなのでしょうか。しかし知識は聖書に書かれている内容ですので、聖書の本の香りではありません。しかし聖書の内容と言われると、内容は良く分からないよう、となってしまいます。

そうすると、私にはキリストを知る知識の香りを放つことなどは出来ないと思ってしまいます。確かに自分でキリストを知る知識の香りを放つことなどは出来ません。しかしこの文章の「キリストを知る知識の香りを放つ」ことをする主語は人間ではありません。「神は」です。

神が「キリストを知る知識の香りを」私たちを通して放ってくださいます。益々、どんな香りか気になって来ます。今日の聖書個所に、「香り」という言葉が14節で1回、15節で1回、16節で2回の4回使われて強調されています。

日本語ですと全部、「香り」で同じですが、原語では15節の「神に献げられるキリストのかぐわしい香り」の「香り」だけ別の言葉です。英語の聖書では15節のキリストの香りだけアロマと訳して、他の3つの香りはフレグランスと訳しています。私には違いが良く分かりませんが、アロマの方がフレグランスより強い香りのニュアンスでしょうか。ただ私たちも、神に献げられるキリストのかぐわしい香り、アロマです。

神に献げられるキリストの香りはどんな香りでしょうか。それは自分を他の人のために献げる、自分の無い献身的な香りです。香りと言っても実際に臭いがある訳ではないと思います。ただ献身的に尽くす人にはかぐわしい香りを感じるものです。

かぐわしい香りの逆の意味の表現には、「鼻に付く」とか「胡散臭い」等ありますが、実際に、鼻に付くとか、胡散臭い臭いがある訳ではないでしょう。そしてクリスチャンは、神に献げられるキリストのかぐわしい香りです。なぜクリスチャンはそのようなかぐわしい香りなのでしょうか。

今日はペンテコステで、主イエスが天に帰られて、聖霊が降られた日です。その聖霊がクリスチャンを満たして導かれます。ですからクリスチャンが放つキリストの香りは、キリストの香りであると共に聖霊の香りです。

3、務めにふさわしい者

クリスチャンの香りは、救われる人々の中でも滅びる人々の中でも、全ての人々の中で放たれます。ただその香りの意味は人によって違って来ます。滅びる者には、死から死に至らせる香りです。ローマ軍に負けて、勝利の行進に捕虜として連なる兵士にとっては、これから自分がどの様な目に遭うのか分かりませんので、たかれている香は死の香りです。

同じように、福音を信じないで滅びる者にはクリスチャンの放つ聖霊の香りは死の香りとなります。しかし福音を信じて救われる者には、永遠の命が与えられますので、聖霊の香りは命に至らせるかぐわしい香りです。

パウロは福音を伝える使徒です。パウロに働く聖霊の香りをどのように感じるかによって、コリント教会員がどのような状態にあるのかが分かります。パウロの語る神の言葉が死の裁きに聞こえて、鼻について鬱陶しいと感じるなら、滅びる者の状態にあるということです。

しかし神の言葉が命から命に至らせる、かぐわしい香りであると感じるなら救われる者です。そして、「このような務めに誰がふさわしいでしょうか」と問います。先週の5節で、パウロを悲しませた人は、パウロがこのような務めにふさわしい使徒ではないと言って攻撃をしました。

コリント教会員にもその影響が残っているかも知れませんので、パウロはここから6:10迄掛けてじっくりと自分は使徒であることを説明をします。パウロは初めは確かに、命に至らせる香りを放つ務めにふさわしい者ではありませんでした。むしろその逆でクリスチャンを迫害する者でした。

しかし使徒言行録の9章のダマスコに向かう途中で、キリストに捕らえられて使徒として立てられました。ですから、人間の目から見てふさわしいかふさわしくないかと言うよりは、神が立てられたか、立てられていないかです。誰がその務めに立てられたかです。

神が立てられたのであれば聖霊が働いてくださいますので、自分の力で行おうとはせずに、神に信頼して、事をなすことが出来ますので安心です。そしてもう一つは実際の働きです。まず、「多くの人々のように神の言葉を売り物にせず」ということは、多くの人々がコリントでも神の言葉を売り物にしていました。それは人々の救いのためではなくて、お金儲けのためや、自分の地位を得るために神の言葉を利用することです。

私は屁理屈が好きですので、「神の言葉を売り物にせず」というと、神の言葉である聖書を売り物にして販売するのはどうなのかと、思わず考えてしまいます。しかし神の言葉である聖書を作るのにも費用が掛かりますので、聖書の発行を続けるためにも適正な価格で売っているのは有難いことであると思います。

ここの「売り物にせず」を、新改訳は「混ぜ物をして売ったりせず」と訳していて両方の意味があります。「聖書に付け加えてはならない」とありますので、神の言葉に混ぜ物はして、何か自分に有利になるようなことを付け加える等はとんでもないことですが、コリントではあったようです。混ぜ物などしたらキリストのかぐわしい香りが変な臭いに変わってしまいます。

4、神の言葉を語る

そうではなくて、私たちが神の言葉を語る時には、真心から、また神によって、神の前でキリストにあって、と4つのことがあります。一つ目の「真心から」というのは、1:12の神の純真と同じ言葉です。私たちが語る時には、神が純真であられるように、神の言葉に何も混ぜ物をしないで純粋に正直に語ります。

二つ目の「神によって」は、直訳では「神からのように」、新改訳では「神から遣わされた者として」と訳しています。パウロも語っていることの中心はキリストが福音書で語られていることです。

そして三つ目は「神の前で」です。パウロは全知全能の神は全てをご存じで、ご覧になられていることを意識して語っていました。私たちも何をする時にも神の前です。

四つ目は「キリストにあって」です。パウロはキリストによって使徒として立てられましたので、キリストの代理人として、キリストの権威を持って、また私たちが祈る時のように、イエス・キリストの御名によって語ります。

この4つのことはパウロだけが語ることではありません。クリスチャンの全てが語ることです。これはペンテコステにこの世に降られた聖霊の働きによって初めて出来ることです。そのために聖霊はこの世に降られました。

そして聖霊によって、クリスチャンは神に献げられるキリストのかぐわしい香りになるのではありません。神によって既にかぐわしい香りです。神の恵みによってかぐわしい香りとされていることを感謝して、その香りを放させて頂きましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。パウロはクリスチャンは神に献げられるキリストのかぐわしい香りであると言われますが、畏れ多い言葉です。しかし神が聖霊を降され、クリスチャンをかぐわしい香りとされていますので、私たちはただアーメンと言うものです。キリストの香りを放ちつつ、神の勝利の行進に連なる者として歩ませてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。