「神の御心に適った悲しみ」 

2021年8月8日説教
コリントの信徒への手紙二 7章8~13a節

        

主の御名を賛美します。「覆水盆に返らず」という諺があります。一度こぼれた水は元に戻らないことから、一度起きてしまったことは元通りには戻らない、取り返しがつかないという意味です。確かにタイムマシーンが出来て過去に戻れない限りは、過去に起こってしまった出来事は変えようがありません。

しかしキリスト教は過去を変えることが出来ると思います。過去を変えることが出来る等というと何か胡散臭そうな気がしてしまいますが、どういうことでしょうか。御言葉を聴かせていただきましょう。

1、悲しみ

パウロは2:4でコリント教会宛てに、この手紙の前にもう一つの手紙を涙ながらに書いていまして、通称、涙の手紙と呼ばれています。その手紙は手紙一の後に書かれて、テトスがコリント教会に持って行ったと考えられています。パウロは苦悩と憂いに満ちた心で、涙ながらに書いたもので、それは愛するコリント教会のためを思って書きました。

本当に愛する人のことを真剣に考える時には、たとえ相手を悲しませたとしても厳しく言わざるを得ない時もありますので、パウロは今は後悔していません。涙の手紙が一時的にせよ、コリント教会を悲しませたことをパウロは知っています。これは実際に手紙を持って行ったテトスから「コリント教会は悲しんでいた」と聞いたのでしょう。

次に「たとえ後悔していたとしても」と言われると、「本当は、後悔してたんかーい」と突っ込みを入れたくなってしまいます。これは手紙を書きながら、コリント教会のことを親身に考えるパウロは悲しませることになるだろうと思って、やはり一度は後悔していたのでしょう。しかし、“今は”後悔をしていなくて、むしろ喜んでいます。

それは勿論コリント教会が悲しんだからではありません。コリント教会が悲しんで、それでパウロが喜んでいたらパウロはただのやばい人になってしまいます。そうではなくて、コリント教会が一時的には悲しんでも、その後に悔い改めたからです。

私たちは日々の生活の中で色々な悲しみに遭います。今日の聖書個所には、「悲しみ」という言葉が8回使われて強調されています。そして悲しみは大きく2つの種類に分けられて、一つは「神の御心に適った悲しみ」で、9~11節で3回言われています。

2、神の御心に適った悲しみ

神の御心に適った悲しみには3つの特徴があります。1つ目は、コリント教会は悲しみによってパウロたちからはなんの害も受けませんでした。神の御心に適った悲しみは、その悲しみをもたらす正しい人からは何の害も受けません。正しい人は正しいことをしますので害を及ぼしません。

では何の害も受けないとしたら、2つ目のこととして、神の御心に適った悲しみからは、一体、何が生じるのでしょうか。悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。悔いがないのに、悔い改めが生じるというのは、日本語的にどうなのかとも思いますが。ここは新改訳の、後悔の無い、救いに至る悔い改めの方が分かり易い感じもします。

「救いに至る悔い改め」というのは、神の御心に適った悲しみを切っ掛けにして、神を信じて、悔い改めて、救いに至ることを意味します。しかしこの手紙がコリント教会に宛てられていることを考えますと、既にクリスチャンですので、悔い改めることによって救いの完成に至る、1節の終わりにある、完全に聖なる者となって行くことを意味します。

神の御心に適った悲しみが、3つ目としてコリント教会では具体的に7つのことをもたらしました。これらは順番的に考えられます。パウロの書いた涙の手紙を読んで、テトスの説明を聞いたコリント教会は、偽使徒に騙されてパウロたちは不正を働いていると思って受け入れなかったことに3番目の不快を覚え、またそのような自分たちに不快を覚えました。

そして悔い改めたコリント教会はこれまで自分たちのして来た間違いについて4番目の神を恐れます。また神に遣わされたパウロに対して間違った態度を取って来たことを恐れます。次に2番目の弁明で、これは何か言い訳をするというのではなくて、自分たちの良くなかった部分は認めて必要な対応を取ることをはっきりと言い表しました。

そして7番目の処罰で、間違ったことはそのままにしないで処罰を行いました。1番目の熱い思い、5番目の慕う心、6番目の熱意は、コリント教会はパウロに対して冷たい思いになっていたのが、熱い思いに変わり、パウロを慕う心になり、パウロに対する熱意となりました。

パウロに対する熱い思い、慕う心、熱意というのは、広い意味では神、正義に対する、熱い思い、慕う心、熱意と言えます。このように神の御心に適った悲しみの、悲しみは一時的なものであって、何の害も受けず、救いに至る悔い改めを生じさせ、7つの実をもたらします。

聖書の記事で具体的に神の御心に適った悲しみの例として思い浮かぶことがあるでしょうか。主イエスの12弟子の一人のペトロはマタイ26:35で、「たとえ、主イエスと一緒に死ななければならなくなっても、知らないなどとは決して申しません」と言っていましたが、三度知らないと言って裏切ったことを深く悲しんで、激しく泣きました。

しかしペトロは復活された主イエスとの再会によって、何の害も受けないで、救いに至る悔い改めをして、7つの実がもたらされてまた使徒の務めに戻りました。神の御心に適った悲しみは、悲しみを通して自分の無力さに気付かされます。

自分の無力さに気付かされたペトロは自己中心の考えから離れて、5:15にように自分に死にます。そして自分たちのために死んで復活してくださった主イエスのために生きる思いを与えられて悔い改めました。旧約聖書で自分の犯した罪を悲しんだダビデもそうです。

3、この世の悲しみ

神の御心に適った悲しみに対してもう一つの悲しみは死をもたらすこの世の悲しみです。それはどのようなもののことでしょうか。それは神により頼むことをしないで、自分の力だけで全てを行おうとする自己中心の悲しみです。

具体的な例はペトロと同じ12弟子のイスカリオテのユダの悲しみで、マタイによる福音書ではペトロの記事に続く27章でペトロとユダを比べるように書かれています。主イエスを裏切って祭司長たちに売り渡したユダは、主イエスが有罪になったことを知って後悔しました。ユダはこの問題を自分の力で解決しようとして、代価として貰った銀貨30枚を祭司長たちに返そうとしましたが、拒否されたユダは悲しんで自分で命を絶ってしまいました。自分の無力さに気付かされたペトロは主イエスに完全に従いましたが、ユダは神に頼ることをしませんでした。

ペトロとユダの生き方は違ってはいましたが、自分の力により頼んでいて主イエスを裏切ったことは同じです。しかし主イエスを裏切った後にペトロは主イエスにより頼みましたが、ユダはそうはしませんでした。

4、過去を変える

私たちは信仰を持っていてもいなくても多くの悲しみを経験します。皆さんの経験された、また経験されている悲しみからは何が生じて、何をもたらされているでしょうか。初めにお話ししましたように、過去に起きた出来事そのものは変えようがありません。

しかし過去に起きた悲しみが、この世の悲しみのままですと心に死をもたらします。しかし心を主に向けて、悲しみを自分中心の思いから解き放して、自分の無力さを認めて、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるなら、何の害も受けず、救いに至る悔い改めが生じ、7つの実をもたらします。

自分の悲しみが死をもたらすか、7つの実をもたらすかはその人が何を中心に生きて行くかで決まります。ローマ8:28にある通り、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益と」なります。

全ての悲しみを神の御心に適った悲しみとするために、主イエスは十字架に付いてくださいました。ユダの悲しみは死をもたらすこの世の悲しみでした。しかしユダがもしも自分の力だけで解決しようとしないで、神の前に悔い改めていたなら違った道が開かれたのではないかと思うと残念です。

5、あの事件

パウロは、「あの事件に関しては、コリント教会はすべての点で自分が潔白であると主張しました」と言います。「あの事件」の内容は私たちには良く分かりませんが、2:5~11の事件のことのようです。「あの事件」と曖昧な表現にしているのは、パウロにも関わる事件でもう解決しているので、はっきりと言葉にするのはためらわれたのでしょう。

この事件の解決のためにパウロは悲しみの中で、コリント教会に涙の手紙を書きました。それは不正を働いた人のためでも、要するに正しくないことをした人のためでも、その被害者のためでもなく、コリント教会がパウロたちに抱いている熱い思いが、神の前に明らかになるためでした。

この説明からも、やはりあの事件とは偽使徒の口車に乗せられて、パウロは不正を働き、人を破滅させ、貪り取っていると(2節)、パウロを非難したことと思われます。そうすると被害者はパウロですので、被害者という言い方をしているのも分かります。

コリント教会とパウロの双方に取って、そのような非難をしたり、またされるのは大きな悲しみです。そのままではこの世の悲しみであり、コリント教会とパウロの関係は死んでしまいます。しかし神は悲しむ者、また先週の内容にありましたが、気落ちした者を慰めてくださいます。神はテトスを用いて、コリント教会を悔い改めへと導き、パウロの涙の手紙によって悲しんだ悲しみを神の御心に適った悲しみとされて、7つの実をもたらしました。

6、結論

人間関係は何も問題がなくて、スムーズなのが理想のようにも思われます。しかし箴言27:17は「鉄は鉄で研がれ、人はその友人の人格で研がれる」と言います。コリント教会の状況を手紙一の内容から通して考えると、問題が多く一足飛びに信仰的に成長するとは思えません。

失敗と悔い改めを繰り返して少しづつ成長して行くのではないでしょうか。コリント教会のパウロへの思いも、偽使徒の作り話で一度は疑って、しかしテトスの説明によって回復し、熱い思いが神の前に明らかになりました。

「雨降って地固まる」の諺通りに、あの事件を通して、コリント教会のパウロへの思いは以前より強くなったのではないでしょうか。こうして、パウロたちは慰めを受けました。私たちも色々な人間関係で色々なことが起こります。

近い人間関係では家族の親子の間、夫婦の間等で、また職場、地域、教会等でも色々なことがあります。その中で自分のしてしまうこととして失敗があり、それに対して必要なこととして悔い改め、相手に対しては赦しがあります。

これらのことを通して、何も問題が無かった時よりも、7つの実がもたらされることによって、その人との関係は深められます。いずれにしても、どんなことがあっても、悲しみを自己中心のこの世の悲しみで終わらせないことです。

神の前に持って来て、神を中心にした神の御心に適った悲しみとすることです。そこには救いに至る悔い改めが生じます。それが完全に聖なる者となることです。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは多くの悲しみを経験します。その中には本当に心が潰れてしまうようなこともあります。あなたは全てをご存じですので慰めをお与えください。また私たちが悲しむ時に自分だけで悲しみを抱えてしまうような、この世の悲しみとならないようにお守りください。

どんな悲しみもあなたの前に持って来て、御心を求めて、必要な悔い改めをさせてください。そして神の御心に適った悲しみとして7つの実をもたらしてください。またどうぞ教会に連なる方々の健康と信仰と生活をお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。