「慰めを用意された主イエス」

2021年9月26日説教
ヨハネによる福音書 2章1~12節                                  
野田栄美

➀ 耐えられないような試練に遭わせない

 聖書の中には、教会に行ったことがない方にも有名な言葉があります。辛いことがあった時に引用される言葉に、Ⅰコリント10:13があります。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えて下さいます。」という言葉です。

けれども、ニュースを見ているとこんなことには耐えられるはずがないと、思うようなことを耳にします。コロナウイルスのことでも、心がつぶれそうになるニュースを聞くことがあります。そのような中で、神はどのように耐えることのできるように備えてくださるのでしょうか。

② 最初の奇跡

 今日お読みした聖書は、主イエスが公に神の国を宣べ伝え始めてから、一番初めに行われた奇跡です。けれども、他の3つの福音書はこの奇跡を取りあげてはいません。ヨハネによる福音書は、福音書の中で最後に書かれたと言われています。時間が流れる中で主イエスが行われたことの意味が見えて来たのかも知れません。つまり、この奇跡は、その奥底に流れる意味を知るのに時間がかかるものでした。

 この奇跡には深い意味があります。この奇跡は宝箱のような奇跡です。あちらにもこちらにも、私たちの心が温まる意味が込められています。そのことを皆さんにお伝えするには1回では足りませんので、2回に分けて語らせていただきます。

③ 他の奇跡との違い

この奇跡は、他の奇跡と大きく違うことがあります。他の奇跡では、病気で苦しんでいたり、家族が亡くなる悲しみがあったり、嵐に見舞われて命の危険があったりする場面で行われています。けれども、この奇跡の場面は結婚式です。勿論、当時の結婚式でぶどう酒がなくなることは、非常に恥ずかしいことでした。けれども、それは、喜びの中での失敗であり、人の命に関わることでもありません。神のみ業を見ようと、人々が集まっているところではありませんでした。

けれども、主イエスはここで最初の奇跡を見せてくださいました。ここで、見せる必要がありました。

④ 親しい親子の会話

この奇跡は、親子の会話で始まります。母であるマリアはぶどう酒がなくなったのを知りました。当時の結婚式ではなくてはならないものです。この結婚式の新郎新婦はマリヤの近い親戚だったのではないかと言われています。マリアは裏方の事情を知っているからです。

動揺したマリヤは、長男である主イエスに「ぶどう酒がありません」と、居ても立ってもいられず伝えます。この時は、初めての奇跡ですので、マリアが奇跡を期待していたのではないでしょう。ただ単に、母親にとって心強い存在である息子に困ったことを話したのでしょう。特に、夫であるヨセフは、主イエスが幼い時の話以来、聖書には登場しません。亡くなっていたのではないかと言われています。女性が働くことができない時代です。夫を亡くした後、長男である主イエスは、母や弟や妹たちを養う頼りになる存在だったでしょう。息子ならば何かしてくれるのではないかという母親の期待が、「ぶどう酒がありません。」という言葉になりました。

⑤ イエスの返答の意味

母の気持ちをすぐに理解して、主イエスはこう答えました。

「女よ。私とどんな関りがあるのです。私の時はまだ来ていません。」

この返事は冷たいと感じませんか。この奇跡の中で一番分からない所です。

まず、この「女よ」という一見失礼に感じる呼び掛けです。自分の母親に対して言うには、大変失礼な言葉です。けれども、実は、この呼びかけは、ローマ皇帝アウグストがエジプトの女王クレオパトラを呼ぶ時に用いた言葉でもあるそうです。とても丁寧な呼び掛けの言葉なので、「ご婦人」とか「お母様」のような丁寧な呼び掛けだと思ってください。日本語に適する言葉がないだけで、決して失礼な言葉ではありません。

更に、「私とどんな関りがあるのです」は、冷たく聞こえる言葉ですね。原語の直訳では、「わたしとあなたにとって、何があるか」という意味です。それぞれの場面によってニュアンスが変わりますが、ここでは、「お母様が気にされていることと、私が考えていることは別のことですね」という意味です。「わたしたちは違うことを考えていますね。そんなにそのことを心配しなくていいですよ」というニュアンスです。

「私の時はまだ来ていません」これはどのような意味でしょうか。この返事を聞いたマリアの行動を見てみましょう。マリアは直ぐに召使たちに「この方が言い付けるとおりにしてください」と、言っています。この返事を聞いて、主イエスが助けてくれると考えたことが分かります。

ですから、「私の時はまだ来ていません」というのは、「助けが必要な時になったらやりますから」という意味がありました。

つまり、「お母様が気にされていることと、私が考えていることは別のことですね。あまり、心配しないでいてください、私は働くべき時がきたら、ちゃんとやりますから」という返答だったことが分かります。

そう考えると、この会話は本当に温かいやりとりです。マリアは心配になった時に主イエスを頼りにしています。主イエスの言葉があれっと思う部分を含んでいても、息子への信頼が損なわれません。マリアはすっかり安心しました。

 ➅ もう一つの意味

 ただ、この会話はマリアの中で、どこか引っ掛かる部分があったのでしょう。この会話をマリアはしっかり覚えていました。そして、この会話には、もう一つの大切な意味がありました。この時、主イエスの考えておられたことは何だったのでしょう。また、何の時のことを言われておられたのでしょうか。

 主イエスは、全ての人のために救いの道を開かれるために、この世に来られました。人々の前で、神の子として働かれるようになってからは、ただひたすら人々に救いを与えることを考えておられました。そして、そのために神の計画を忠実に行われました。

「女よ(お母様)」と言われたのは、母に対して話すのではなく、一人の大切な人に対してこれから語りますという思いが込められていました。

そして、主イエスが、「わたしたちは違うことを考えていますね。」と言ったのは、マリアは結婚式が無事に行われることを考えていましたが、主イエスは違うことを考えていることをあえて伝えるためでした。主イエスは、救いが成し遂げられることを考えておられたことを伝えようとされていました。

そして、「その時」とは、その救いが成就する時を意味しています。それは、十字架にかけられる時です。

「必要な時になったらやります」という言葉には、私は十字架にかからなければならない時がきたら、十字架にかかる決心をしていますということを表されていました。このことは、この会話の後に起こるぶどう酒の奇跡の中にはっきりと示されています。

⑦ 母の苦しみへの思い

では、なぜ主イエスは、この時に母であるマリヤを選んで語られたのでしょうか。ここには、母への深い労わりの思いが込められています。

マリアは、主イエスが生まれてまもない頃、ヨセフと共に規定の捧げものをするために、神殿へ行きました。そこで、シメオンという老人に会いました。シメオンはマリアに対して預言をしました。「剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう」と。恐ろしい預言です

そして、それは現実になりました。息子が十字架の上で苦しむ姿を、マリアは目にすることになりました。正に、魂を刺し貫かれました。主イエスは、その母に、「私は十字架にかかる決心が最初からついていたんです。」という思いを伝えようとされました。主イエスは、母が、何か引っかかる物言いをした息子の言葉をいつか思い出して、その意味を気付いてくれることを願われました。

自分から十字架へ向かっていった息子の姿と、人に痛めつけられ無念の死を遂げる息子の姿は違います。息子は自分から十字架に向かいますと言っていた。そう気が付いた時、マリアの心は慰められたでしょう。ですから、この会話は冷たい会話ではなく、母への愛が溢れた会話です。

⑧ 慰めを用意された体験

子育てをしている親にとって、辛い思いをしている子どもの姿を見るほど苦しいものはありません。私は生後2か月半で次男を亡くしました。そのこと思い出すと、体の力が抜けていくような感じがします。

私が次男を出産した時、次男は直ぐに大きな病院に搬送されました。産院の先生は、直ぐに赤ちゃんに会いたいだろうと、私の退院を早めてくださいました。そのお陰で、私は次男に会うこともできましたし、次の日曜日に教会の礼拝に出席することもできました。

その日は、特別集会で講師の先生がいらしていました。今でも忘れませんが、先生は、メッセージの中でお嬢さんが生れた時のことをお話しされました。生まれて直ぐに搬送されたこと、手術を受けたこと、先天性病気であったことをです。それを聞いて本当に驚きました。次男と同じだったからです。

私は40年以上教会に通っていますが、後にも先にも、そのようなメッセージを聞いたことはありません。主イエスがその時、私に慰めを用意されたのだと分かりました。私が次男を出産した次の日曜日に、同じような体験をされた牧師先生がいらしたこと、私が通っていた教会に来られたこと、お嬢さんのことを話してくださったこと、これら全てのことを何年も前から、主イエスが私のために、正にこの時用意して下さった、そう感じました。これは、マリアとの会話と同じように、前もって私に用意された主イエスからの慰めでした。

⑨ 気付いていない慰め

 今、コロナの感染が広がり、私たちは不安の中で生活をしています。そのような中で大きな慰めは、私たちのことを全て知っていてくださる主イエスがおられることです。そして、耐えることができるように予め慰めをに送ってくださっているということです。マリアは会話の時には、慰めをいただいたことに気が付いてはいませんでした。私たちも、気付いていないだけです。今この時を耐えることができるように、主イエスはもう既に慰めを送ってくださっています。

本当に自分に与えられているのか、疑問に思われるかもしれません。実は、今、このメッセージを聞いて下さっていること、それがあなたに慰めが送られている証拠です。主イエスの言葉は、聞いて信じた方の上に実現するからです。 

あなたのことを私は知っているよ、あなたに慰めを送ったよと、いつも、語りかけて頂けることは幸せなことです。その言葉が本当であると気付く時に幸せを感じます。そして、いつも大切にされていると感じながら、安心して進むことができます。

今週は、主イエスが私たちに用意して下さった慰めに気付かせていただきましょう。その慰めはあなただけでなく、周りの方々も幸せにしてくださいます。