「人の偵察と神の偵察」

2022年1月9日説教  
申命記 1章19~33節

主の御名を賛美します。1月に入って受験の季節を迎えました。学校の受験や就職試験を受ける時に行うのが下見です。ぶっつけ本番で試験に臨む人もいますが、私は交通機関とか道順等が心配で当日に焦らないように下見をしていました。

自分がこれから行くことになるかも知れないところを見ると、とても素晴らしく眩しく見えて期待に胸が膨らむものです。しかし周りの人を見ると皆が自分よりも優秀そうに見えて、果たしてここに入ったとして、自分はやって行けるのだろうかと不安にもなるものです。いざ入ってみると、そんなに心配する必要はなかったと後になって思うものです。何か新しいことをする時には期待と不安があるものです。

1、人々の言葉

モーセは今、神が約束された地に入るのを目前にして、40年前にエジプトを脱出した時からのことを振り返っています。イスラエルはホレブ(シナイ山)に約1年とどまって、律法の授受等がありました。しかし7節の、向きを変えて出発しなさいという神の命令に従ってホレブを出発しました。

パランの荒れ野等の大きな恐ろしい荒れ野をすべて通って、アモリ人の山地への道を経て、カデシュ・バルネアまで来ました。カデシュは「聖別された」という意味で、バルネアの聖別された場所です。このカデシュ・バルネアで聖別される出来事が起こります。

モーセはイスラエルに、「あなたがたは、私たちの神、主が、私たちにお与えになるアモリ人の山地まで来た。見よ、あなたの神、主はこの地をあなたにお与えになる」と7、8節の言葉を繰り返します。「お与えになる」は完了形で書かれていますので、既に「お与えになった」の意味です。アモリ人の山地は7節で神が与えると言われているところです。

しかし神がいくら人にお与えになっていても、人が受け取らないと人の手には入りません。そこでモーセは、「あなたの先祖の神、主が仰せになったとおり、上って行って占領しなさい」、自分で実際に行って手に入れなさいと行動することを命じました。

今日の個所には「上って行く」という言葉が5回使われて強調されていますが、これは単なる地理的に、「上って行く」という意味だけではなくて、「秀でる、勝る」という意味があり、高い良い方向に行く意味です。坂道でも、下って行くのは楽ですが、上って行くのは大変なことです。

行動と共に霊的な命令も行いました。それは、「恐れてはならない。おののいてはならない。」です。神は私たちに様々な祝福を与えてくださいますが、祝福を実際に手にする新しいことを行う時に、私たちは未知のものに対して恐れ、おののいてしまうものです。

私たちが神の言に素直に従おうとすると周りからは、「何で、そんな綺麗ごとを言っているのかとか、そんな綺麗ごとをしていたらお金も時間も無駄とか」言われることもあります。神の言に従うと周りに自分は認められなくなってしまうのではないかと恐れ、おののくことがあります。また神の言に従って正義ですべてを占領しようとすることは、この世の巨大な悪に対して立ち向かうことになりますので、この世のことだけを見ていると、恐れ、おののいてしまいます。

人々はそろって(全員が)モーセに、「先に人を遣わして、その地を探らせ、私たちが上って行く道や入って行く町について報告させましょう」と下見の提案をしました。「報告させましょう」は直訳すると、「言葉を持ち帰らせましょう」です。申命記のヘブル語の題名は言葉です。偵察隊はどんな言葉を持ち帰るのでしょうか。

その提案は良いと思われました。「その提案は良いと思われました」は直訳すると、「その言葉は私の目に良かった」です。人の言葉は人の目に良く見えるものです。創世記3:6で、エバが食べてはいけないと言われた善悪の知識の実を見ると、目に美しかったという御言が思い浮かびます。

モーセは神が与えたと言われる素晴らしい約束の地を偵察隊が下見することによって、益々、人々が期待に胸が膨らんで前向きに進むことを期待したのでしょう。また下見をすれば色々な準備も出来るし、あの時は自分も良かれと思ったんだとモーセは回想をしているのでしょうか。今になって思えば自分の考えではなくて、神に伺いを立てなかった後悔の念も含まれているでしょう。

しかし民数記を覚えている方は、「何を言っているのか。カナンの地の偵察はそもそも民数記13:2で、主の方からモーセに命じられたことではないか。この箇所は民数記の言っていることと矛盾しているのではないか」と思われるでしょう。

果たしてカナンの地の偵察は民数記にあるように主がモーセに命じたことなのでしょうか。それとも申命記にあるように人々がモーセに提案したことなのでしょうか。どちらかが間違っているのでしょうか。そうではありません。

参考になるのが、民数記22章でモアブの王バラクに呼ばれた預言者バラムが主に伺いを立てたところです。主はバラムに、「行ってはならない」と言われましたが、報酬に目がくらんだバラムが再度、主に伺いを立てたところ、「行くがよい」と主が命じられたことです。

例え御心に適わないことでも主に訴え続ける時に、それならそうしなさいと主は命じられることもあります。しかしその結果は自分で刈り取ることになります。全能の神は人々が偵察に行くとどうなるのかをご存じでしたが、モーセを含めた全員が求めるならそうしなさいということだったのでしょう。

申命記はモーセが120歳で1か月後に天に召される時に、ここは過去を振り返って書いているものです。約束の地に入って行くイスラエルに、実はあの時には本当はこんなことがあったということを教訓として伝えるために書いているのでしょう。

2、人の偵察

各部族から一人ずつ選び出した12人の偵察隊は山に向かって上って行って、エシュコルの谷(ヘブロンの北西5キロ辺り)まで偵察しました。そしてその地の果実である、ぶどう、ざくろ、いちじくを手に入れて、下って来ました。「上って行く」に対して「下って来る」というのは、果実だけに気(木)になる表現です。

偵察隊は、「私たちの神、主が私たちにお与えになる地は良い地です」と報告しました。「報告した」は直訳では、「言葉を持って帰った」です。この言葉は偵察隊12人の内、ヨシュアとカレブだけが語った真実の言葉です。

しかしイスラエルは上って行こうとせず、イスラエルの神、主の命令に逆らいました。今日の話は明らかに8節の後に直接に続く話です。モーセはなぜ9~18節の組織編成の話を間に挟んだのでしょうか。組織編成が整えられてそれぞれに権限が与えられていますが、イスラエルの人々にカナンの地に上って行くかどうかを決定する権限は与えられていません。それを決められるのはトップである神だけです。

上って行くことは神が決められたことであり、人々はただ偵察をするだけで、上って行くかどうかを決める権限は与えられていません。イスラエルが上って行かないのは権限を与えられていないことを勝手に行う越権行為です。「主の命令に逆らった」は直訳では、「主の口に逆らった」です。

それは主の言に逆らっただけではなくて、主が言を発せられる口を含む体、主の人格に対して逆らうことです。不信仰な者は支離滅裂なことを言いますが、まずは主の人格を否定して、「主は私たちを憎んで、エジプトの地から導き出し、アモリ人の手に渡し、私たちを滅ぼそうとしているのだ」と妄想をつぶやきます。

そして「私たちはどこへ上って行こうとしているのか」と問います。「どこへ行こうとしているのか」を考える時には、創世記16:8の、主の使いがサラの女奴隷ハガルに尋ねた、「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」を思い出して、「どこから来たのか」を考える必要がありますが、そのような思いには及びません。

そして人々は、「私たちの仲間は、『民は私たちよりも大きくて背が高い。町は大きく、城壁は天に届くほどだ。アナク人の子孫さえそこで見た』」と言います。アナク人は巨人の種族名です。不信仰な者は問題を大袈裟に言って人々の心を挫きます。問題に対して真剣に取組むことは大切ですが、深刻になっては悪い方向に考えるだけで何も良いことはありません。

そこでモーセは21節に続いて再び、「おののいてはならない。恐れてはならない」と言います。しかし言葉だけで、「おののいてはならない。恐れてはならない」と言われても、「はい、そうします」とは言えません。おののきも恐れもしなくて良い具体的な心の支えが必要です。

そこでモーセは、「あなたがたの神、主があなたがたの前を歩まれる」と言います。そのようなことは過去にあったのでしょうか。創世記16:8の「あなたはどこから来たのか」を考えます。「神がエジプトであなたがたの目の前で行ったように、あなたがたのために戦われ」ます。

神はイスラエルがエジプトから脱出することが出来るようにエジプトと戦われ、また紅海の海底をイスラエルが歩けるようにし、エジプト軍には海水を戻して戦われました。過去に神が行われた御業を思い出すことが大切です。

「それに荒れ野では、この場所に来るまで、あなたがたが歩んだすべての道のりを、人がその子を背負うように、あなたの神、主があなたを背負ってくださったのを、あなたは見た。」 荒れ野の中でも神は人々に、水を与え、マナやうずらの肉等の食べ物も与えられました。私たちも神から与えられている沢山の恵みを見ています。「しかし、あなたがたは、あなたがたの神、主を信じなかった。」

イスラエルは沢山の神の御業を見て来て、沢山の恵みを得ていながら、人の心を挫く言葉を耳にすると簡単に恐れ、おののいて、神を信じないで不信仰に陥ってしまいます。これはイスラエルの人々だけのことではありません。

現代のクリスチャンも神の御業を多く見て来て、恵みを多くいただいて来ていながら、何か問題があると、簡単に恐れ、おののいて不信仰に陥ってしまうものです。

3、神の偵察

モーセは、40年前のこの時の出来事を理解していなくて、約束の地に入って行く人々に教訓を伝えようとしています。米国の哲学者のジョージ・サンタヤーナと言う人は、「過去に学ばない者は過ちを繰り返す」と言いましたが、創世記16:8の、「あなたはどこから来たのか」をいつも意識していることが大切です。

さらにモーセは、「あなたがたに先立って、道を歩まれる方は、あなたがたのために宿営の場所を偵察し、夜は火、昼は雲によって、進むべき道を示されたのだ」と言います。神は適当に人々を導いているのではありません。神ご自身が偵察をされた上で神が良いと思われる場所に導かれます。

全能の神が偵察をされて良しとされて導かれる場所を、人が偵察して否定することなど有り得ないことです。火と雲は神がそこにおられる臨在を示すものですが、夜は火、昼は雲というのはとても配慮がなされています。夜の火は暗くて寒い荒れ野の夜に光と温かさを与えてくれますし、野の獣が近付かないようにしてくれます。昼の雲は炎天下で灼熱の荒れ野の直射日光を遮ってくれます。

神は現代の私たちにも夜の火、昼の雲のようなもので私たちも守り導いてくださいますから感謝なことです。しかしそれでも私たちもこの時のイスラエルと同じように、直ぐに恐れ、おののいてしまう弱い者ですが、私たちはどうすれば良いのでしょうか。このままではこの時のイスラエルと同じようになってしまうかも知れません。

しかし私たちには、旧約の時代にはなかった「神の武具」(エフェソ6:11)が与えられています。主イエスの十字架による「救いの兜をかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取る」(エフェソ6:17)ことです。人の言葉は人の目には良いものです。

しかし「私たちの戦いは、人間に対するものではなく、悪の諸霊に対するものです」(エフェソ6:12)。私たちには旧約の時代には無かった、主イエスの十字架による救い、神の言葉である聖書、聖霊による力と強い武具が与えられています。与えられている武具を自分で手に取って身に着けて、神が偵察された道を恐れず歩ませていただきましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この世は荒れ野であり、私たちは人の言葉を聞いていると心を挫かれ、恐れ、おののいてしまう弱い者です。しかしあなたは、あなたご自身が偵察された祝福の道へと私たちを導いてくださいますから有難うございます。

私たちがあなたを信頼して神の武具を身に着けて、あなたに示される進むべき道を歩めますようにお守りお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。