「荒れ野への出発」

2022年1月16日説教  
申命記 1章34~46節

主の御名を賛美します。今年はどんな年になるかと思いますが、新年の始まりから不透明な出発であると思わされています。今日の説教題のとおりに、荒れ野への出発だと思います。そのような状況の中で、私たちはどのように考えて歩んで行ったら良いのでしょうか。神は夜は火、昼は雲によって、進むべき道を示されるとありましたが、それはどのような方向であるのか御言を聴かせていただきましょう。

1、言葉

主はイスラエルの人々の話す声を聞きました。「話す声を聞く」は直訳すると、「言葉の声を聞く」です。申命記のヘブル語の題名は「言葉」でキーワードです。主が聞かれた人々の言葉の声は、27,28節です。人々は主の人格を否定して、被害妄想を口にして、その被害妄想に基づいて主がイスラエルに与える約束の計画を否定しました。

主は人々の言葉の声を、聞いて、憤り、誓われました。主は今も私たちの言葉の声を聞かれていますが、私たちは普段、どのような言葉を口にしているでしょうか。マタイ12:34,35は、「およそ、心から溢れることを口は語るのである。善い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い人は悪い倉から悪い物を取り出す」と言います。

主は「この悪い世代の人々のうちには、私があなたがたの先祖に与えると誓った良い地を見る者はいない」と誓われました。その理由をマタイ12:37は、「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」と言います。その人が口にする言葉によって、神は裁かれます。

それに対して主は、「ただエフネの子カレブは例外である。彼だけはそれ、良い地を目にする。彼が足を踏み入れた地を、私は彼とその息子たちに与える。彼は主に従い通したからである」と言われました。カレブは25節の、「私たちの神、主が私たちにお与えになる地は良い地です」という真実の言葉によって、良い地を見ることになります。

それなら言葉使いだけは気を付けようかとも思いますがそれは難しいことです。もう47年前になりますが、トイレの消臭剤シャットのコマーシャルで、「臭いにおいは元から絶たなきゃダメ」というものがありました。言葉は心から溢れて出て来ますので、良い言葉を口にしようとするのならまず元である心を良くする必要があります。

2、言葉の影響

モーセは、「主は私にも、あなたがたゆえに怒りを発して言われました。あなたもそこに入ることはできない」と。この御言葉には違和感を覚えるのではないでしょうか。民数記20章によると、モーセが神の約束の地に入れないのは、メリバ(争い)の水のことで、主はモーセに岩に向かって水を出せと命じなさいと言われたのに、モーセは杖で岩を二度打って、人々の目の前に主を聖としなかったからと書かれてあります。

モーセがここで、「主は私にもあなたがたのゆえに怒られて約束の地に入れない」と言うのは、モーセは自分の失敗を人々へ責任転嫁しているのではないかという気がしてします。しかしモーセはここだけではなくて、申命記で3回(1:37,3:26,4:21)、「主はあなたがたのゆえに私に怒り」と言います。これはどういう意味なのでしょうか。

その説明は詩編106:32、33で、「彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせそれゆえにモーセに災いが起こった。それは彼らがモーセの霊に逆らったときモーセが唇で軽率に語ったからである」と言います。汚れた言葉は語る本人だけではなくて他の人をも汚します。そして双方に神の裁きを招くことになりますので、恐ろしいことです。

3、主の言葉

モーセの目の前に立っているヌンの子ヨシュアが、約束の良い地に入るので力づけなさいと主は言われます。なぜなら彼がイスラエルに相続地として継がせるからです。また人々は民数記14:3で、主の言葉通りにこのまま進んでいたら、妻も幼子も敵に奪われてしまうと言いました。

しかし人々の言葉とは全く逆に、20歳未満の子どもたちは未熟で、まだ善悪をわきまえていないということで責任は追及されません。そこで主はその子どもたちにその地を与えるので、子どもたちはそこに入り所有することになります。

しかし、「あなたがたは、向きを変え、葦の海の道を通って、荒れ野へ向けて出発しなさい」と言われました。「向きを変え、出発しなさい」は7節と同じ言葉ですが、意味はかなり違います。7節は約束の地へ向きを変えての出発ですので明るい前向きの良い方向です。しかしここは、約束の地へとは違う向きへ向かう、一見すると後ろ向きへ向きを変えての出発です。

4、人々の言葉

人々には大きなショックだったことでしょう。人々は何とか失敗を取り戻そうと思ったのかモーセに、「私たちは主に罪を犯しました。私たちは上って行って、私たちの神、主が命じられたとおりに戦います」と言いました。「私たちは主に罪を犯しました」というのは正しい言葉です。

しかしその後の、「私たちは上って行って、主が命じられたとおりに戦います」というのは間違った言葉です。人々は、「主が命じられたとおりに」と言いますが、主は今は、「向きを変え、荒れ野へ向けて出発しなさい」と命じられているのであって、「上って行って、戦う」ことは主が命じられたことに逆らうことです。

「上って行って、戦え」と言ったのは21節の時点です。和製英語ですがTPOというものがあります。元々は服装を使い分ける意味ですが、TはTime(時)、PはPlace(場所)、OはOccasion、Opportunity(場合)です。同じことをしても、時と場所と場合によって良いことになる場合悪いことになる場合があります。

「覆水盆に返らず」という諺がありますが、一度起きてしまってからは取り返しが付きません。人々は主が命じられたとおりにではなく、主が命じられたことに反して、おのおの武器を携え、軽々しく山に登ろうとしました。

人々が軽々しく山に登ろうとしたということは、向きを変え、荒れ野に向けて出発しなさいと命令された主の言葉を軽々しく考えたことです。それはその言葉を言われた主を軽々しく考えたことです。

5、人々の言葉

主はモーセに言われました。「彼らに言いなさい。あなたがたは上って行って、戦ってはならない。」 原語では、その後に理由を表す、「なぜなら」という言葉が入って二つの理由を言われます。一つ目は、「私はあなたがたの中にいない」です。

私たちにとって大切なことは何をするかではありません。大切なのは主が私たちの中におられるか、おられないかです。新しい年となりまして、皆さん、それぞれに今年にどのようなことをしようかと考えておられることと思います。

何をするかも大切なことかもしれませんが、もっと大切なことは主が共におられることです。主が共におられるなら何をしても上手く行きますが、主が共におられないなら何をしても上手くは行きません。

二つ目の理由は、「敵に打ち破られてはならない」からです。時には、失敗は成功の基ということもあります。しかし主があなた方の中にいないから行ってはいけないという主の命令に逆らって打ち破られることは無駄死になります。何の益にもなりません。反面教師にはなるかも知れませんが。

モーセはそう告げましたが、人々は耳を貸さず、主の命令に逆らいました。そして、傲慢にも山に登って行きました。結果は火を見るよりも明らかです。その山地に住むアモリ人が人々を迎え撃ち、蜂が襲うように人々を追い、人々をセイルからホルマ(聖絶されたものの意)まで敗走させました。

「泣きっ面に蜂」という諺がありますが、これが由来かどうかは分かりません。人々は戻って来て、主の前で泣きましたが、主は人々の声を聞かず、耳を傾けられませんでした。こうして、イスラエルがカデシュにとどまった日々は長期、38年に及びました。

カデシュにとどまったと言っても、ずっとカデシュにとどまっていた訳ではありません。ただカデシュにはオアシスがあったので、長くとどまっていたようです。

6、荒れ野への出発

今日の中心聖句である40節はこの時のイスラエルへの命令であると共に、現代を生きる私たちへの命令でもあります。しかし前向きな明るい内容の聖句であれば兎も角、この聖句は35節で悪い世代の人々と言われる人たちが滅びるための荒れ野への出発です。

滅びのための出発命令の聖句はどうも明るい気持ちで受け取れ無いような気もしてしまいます。この聖句を私たちは霊的にどのように受け止めたら良いのでしょうか。この時のイスラエルは主の命令に逆らう罪を犯しました。それは現代を生きる私たちも同じです。

そこでまず私たちが行うことは、向きを変え、葦の海の道を通ることです。聖書で、海や川を渡り水を通ることは、水によるきよめである洗礼を象徴します。罪を象徴するエジプトを脱出したイスラエルが紅海を渡ったことが洗礼を象徴するのと同じです。

まず今までの生き方から向きを変えて、主イエスの十字架による救いを信じて洗礼に与りましょう。そして洗礼を既に受けている人は、さらに向きを変えて、きよめの聖化の恵みに与かりましょう。そして洗礼、聖化の恵みに与かる人はそれで終わりではありません。荒れ野へ向けて出発します。

現代を生きる私たちにとって、荒れ野はこの世の荒れ野です。人によって洗礼を受ける年齢は違いますので、洗礼を受けてからこの世の荒れ野を歩む年数は人によって違います。しかしその年数は象徴として40年です。40というのは試練を象徴する数字です。

主イエスもバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた後に荒れ野に行かれて、四十日四十夜、悪魔から試みを受けられました。私たちもこの世の荒れ野で様々な試練等に遭います。その時には主イエスが歩まれたように、一つ一つの試練に対して御言葉によって生きることを学んで行きます。

そしてこの40年の間に悪い世代が滅んで行きます。それは私たちの中にある悪い罪の性質が滅ぼされて行くことです。そして40年の荒れ野での生活の後には約束の地が待っています。ユダヤ人は毎年10月頃に行われる仮庵の祭りでは、荒れ野での生活を記念して思い起こすために、荒れ野に行って一週間、仮設の家である仮庵の家に住むそうです。

今年も新年の始まりから不透明な出発です。今年も色々な荒れ野を通るかも知れません。しかし私たちは荒れ野での生活を恐れる必要はありません。主が私たちの中におられるからです。そして夜は火、昼は雲によって、進むべき道を示してくださいます。安心して向きを変え、葦の海の道を通って、荒れ野へ向けて出発しましょう。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは荒れ野へ向けて出発しなさいと命じられます。私たちにとっては不安な言葉です。しかしあなたはいつも私たちの中におられ、夜は火、昼は雲によって、進むべき道を示してくださいますから有難うございます。

私たちがこの世の荒れ野での生活を通して、あなたに信頼して歩み、悪い罪の性質を一つ一つ滅ぼしてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。