「 衰えも喜びに 」

2022年10月2日説教
ヨハネによる福音書3章22~30節                                                野田栄美

  • 命を繋ぐ

 以前、ある方から生物の本をお借りしました。その本には、生き物たちが、晩年をどの様に生きて、どのようにこの世を去るのかが書かれていました(「生き物の死にざま」稲垣栄洋著)。どの生物たちも「命のバトン」を繋ぐために、自分の命を捧げていきます。その姿は、勇ましかったり、痛々しかったり、残酷に見えるものもあります。

私たちのこの地上での人生は、やがて終わりを迎えます。地球上のどの生物を見ても、永遠に生き続けるものはありません。そのため、生き物は、子孫を残すことに人生の大半を費やします。私たち人間もそうです。他の生物に比べて、人間の子育ては、非常に長くかかります。子育ては、自分が衰えて、子どもが栄えることです。自分の身を次の世代に与えていくことです。

それは、自分自身にとっては、嬉しいことであっても、辛いことであったり、悲しみを伴ったりすることもあります。そのことを、主イエスを信じる人は、どのように受け止めるのでしょうか。今日は、衰えていくことを感じとった人の言葉から、そのことを聴いていきましょう。

  • 憤慨した弟子たち

 バプテスマのヨハネが、まだ、領主ヘロデに投獄されていなかった時のことです。主イエスは、エルサレムの郊外へ行かれました。バプテスマのヨハネも、そこに近い水が豊かにあるアイノンで洗礼を授けていました。主イエスの公の活動は、共観福音書を読むと、バプテスマのヨハネが牢に入れられてから始まっていますので、この時は、主イエスが本格的な活動を始められる前のことになります。

バプテスマのヨハネには弟子たちがいましたが、その弟子のある者たちが、ユダヤ人と清めのことで論争を始めました。この論争のために、弟子たちは相当腹を立てていました。その怒りの矛先が、近くでバプテスマを授けている主イエスに向かったようです。

26節で弟子たちは、師であるヨハネに、主イエスのことを報告します。「先生、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」この報告の中で、彼らは、主イエスの名前を一切呼びません。「ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人」とか、「あなたが証しされたあの人」とか、「みんながあの人の方へ行っています」と、説明で通しています。ましてや、神から送られた救い主という意味の「神の小羊」や「キリスト」「メシヤ」とは絶対に言わないぞというのが、ありありとみて取れます。

また、「みんながあの人の方へ行っています」という言葉から子どもの頃のことを思い出しました。母親におねだりする時に「だって、みんな持っているから、私も欲しい」と言ったことです。実際には、クラスのみんなが持っていたことはありません。「みんな」と言いつつ、仲のいい子が持っているだけだったりします。弟子たちの「みんな」という言葉もそうです。この時、主イエスの活動は、まだ、公になっていなかったと考えると、「みんな」というのは大袈裟です。

ただ、明らかなのは、バプテスマのヨハネの弟子たちの中にも、1章37節にあるように主イエスの弟子になっていく人がいたことです。ある時期には、バプテスマのヨハネのところに「エルサレムとユダヤの全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から」人々が集まっていました(マタイ3:5)。しかし、主イエスが活動を始めるにつれ、バプテスマのヨハネの影響力は、少しずつ陰りを見せていました。だからこそ、弟子たちは、敏感になっていたのでしょう。

  • 天から与えられる

かっかしている弟子たちに、ヨハネは、清めの議論について何が正しいのかを話したりはしませんでした。また、清めの考え方を説明したりもしませんでした。では、何を言ったのでしょうか。

27節でヨハネは、「人は天から与えられなければ、何も受けることはできない」と言いました。主イエスのところへ人が行っているのは、天から与えられたことだよと彼は言いました。8節にあるように、聖霊の風は、思いのままに吹きます。今、人々が主イエスのところへ行っているのは、聖霊の風が吹いているのだ。全ては、神が与えておられるのだと、ヨハネは言いました。彼は全てのできごとを支配し、導いておられるのは神であることを思い出しなさいと、弟子たちに語り掛けます。

  • ヨハネの使命

更に、28節では、「『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』と私が言ったことを、正にあなたがたが証ししてくれる。」と、ヨハネは続けました。ヨハネは、何のために生きているのかをはっきりと神から受け取っている人でした。ヨハネが、自分が何者かを告白する場面は、ヨハネによる福音書1章にも書かれています。

・20節「私はメシヤではない」※「メシヤ」とはヘブライ語で油注がれた者の意味。ギリシャ語の「キリスト」と

同じ意味。神から遣わされた救い主、解放する者のこと。

・23節「私は預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ者の声である。」

・27節「その人(救い主)は私の後から来られる方で、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない」

彼が人生を捧げて、成し遂げようとしていたことは、人々を罪から救いだす「メシヤ」と呼ばれる救い主のために、人々の心を準備することでした。植物を育てたことのある方はご存じだと思いますが、畑に種を蒔く前に土地をしっかりと耕すと、良い野菜が育ちます。そのように、ヨハネは、主イエスが良い働きができるように、また、人々が主イエスを受け入れることができるようにと、土地を耕し続けている人でした。それは、人々を神の前に悔改めるように導くことでした。彼の願いは、主イエスが人々の中で受け入れられて、そして、その人々が罪からの救いを受け取り、永遠の命を得ることでした。それが、彼の夢でした。

そのために、彼は、人里離れた所で「ラクダの毛衣を着、腰に革の帯を締め、ばったと野蜜を食べ物として」いました(マタイ3:4)。この生き方は、彼が、人間社会での成功や、自分の欲を満たすことを選ばなかったことを示してくれます。自分が高い地位をえることよりも、多くの財産を得ることよりも、「救い主」が来られる前の準備をすることに、人生を献げていました。そのために、人々に悔い改めるように教えて、バプテスマ(洗礼)を授けていました。

  • 花婿の介添え人

ヨハネは更に言いました。29節では、自分は花婿の介添え人だと言っています。その花婿とは主イエスです。「花婿の介添え人」とはどんな人でしょうか。「花婿の介添え人」は、結婚式の間、花婿をサポートし、全てが順調に進むように手助けをする人です。花婿の一番側にいて、支える人です。その人は、信頼に価すると花婿から選ばれたのですから、それは光栄なことでした。

ヨハネは花婿である主イエスの介添え人であることを誇りに思い、そのことを喜んでいました。29節にあるように、彼は「立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ」と言いました。彼は、この時、主イエスに人々が集まり始めていることを、心から喜んでいました。それは、花婿が近付いてきていることだからです。彼は、じっと耳を傾けながら、その時を待っていました。そして、いよいよ花婿が花嫁である人々を迎える時が来ているのを聞き、大いに喜んでいると言いました。

更に、「私は喜びで満たされている」と言いました。これは、喜びの最上級の表現です。心の大きさを100%とすると、10%位の喜びは、美味しいものを食べたとか、友だちと楽しい時を過ごしたということ位でしょうか。例えば、大事な通帳が無くなってそれを見つけたといったら、50%位でしょうか。また、先週も新しい命が誕生しましたが、赤ちゃんが生まれたというのは、どの位でしょう。100%に近い喜びでしょうか。この時のヨハネの喜びは、もう、喜びの入る余地がない位、喜びが心を満たしていました。人生の最高の喜びです。彼は、この時を待ち望んでいたことが良く分かります。

仮に、想像してみてください。もし、この介添え人が花嫁を奪ってしまったらどうでしょうか。これ程のスキャンダルはありません。花婿の一番信頼している介添え人が、彼を裏切ることです。また、喜んで花婿の所へ嫁ぐ花嫁を絶望させることです。この時のヨハネの弟子たちは、意図していなくても、それと同じことをしてしまっています。人が主イエスのところへ行くことを喜ばず、その人たちは自分たちの方へ来るはずだと思っています。弟子たちはそうとは知らずに、花嫁を花婿から奪おうとしてしまっていました。

  • 暖炉の薪

ある先生から、クリスチャンの生き方は、暖炉の薪に喩えられると聞いたことがあります。暖炉の火は、次から次へと薪が継ぎ足されることで燃え続けます。それと同じように、火にたとえられることのある聖霊の働きは、私たちが新しい霊の命をいただいた時に、広がり続けます。丁度、暖炉に薪がくべられたようにです。そして、その火がまた、次の薪に燃え移ります。いつかは、薪は、燃え尽きてしまいます。けれども、その薪は、次の世代に火を燃え移らせるという使命を果たしています。

この聖霊の火のために、薪をくべるとは、実際どのようなことでしょうか。それは、私たちが何かをすることではなく、聖霊によって新しい命をいただくことです。聖霊の火は時を経るにつれて、火が金を精錬するように、私たちの心を清めます。「自分が正しい、自分がこうしたい」と言う自己中心的な思いを燃やしていきます。その人は、へりくだって、悔改めながら人生を歩むように整えられていきます。自分をそぎ落としていく歩みです。

けれども、そこには悲しみではなく、喜びがあります。なぜなら、神が、私たちの中で生きてくださるからです。自分がすごいねと褒められることではなく、神は素晴らしいね、主イエスは本当に私たちを大切にしてくださるねということが、分かるようになっていきます。自己中心の心は衰え、主イエスに感謝する心が栄えることです。この喜びが、周りの方々に新たな命を灯していきます。

  • 終わりの先にあるもの

私たちの肉体は、いずれは弱っていきます。それは、悲しいことです。痛みを伴うことです。けれども、ヨハネは、その時に喜びに満たされていました。それは、自分が痛めつけられるのを喜ぶような、自虐的な喜びではありません。それは、永遠の命を与える方に、バトンを渡すことができた喜びです。この喜びは、肉体が死んだ後にも天国があると、信じているからこそ与えられました。そして、天国で自分だけでなく、多くの人たちが、神から素晴らしい報いを受けることができることを知っているからです。この地上での人生の終わりの先に、何があるかを知っていたからです。

この世の人生の先に何もないのであれば、自分がこの世で衰えていくのは、悲しみでしかありません。けれども、主イエスを信じる人は、この世は一時的なものであり、天国に本当の人生があると信じている人たちです。ですから、衰えることも喜ぶことができます。そして、自分が新しい霊の命、永遠の命おをいただいたことによって、いつか、新たな永遠の命にバトンが渡ると知っています。最後まで、主イエスを信じ続けた人々は、人生の役割をやり遂げることができたと、喜びで満たされることができます。永遠の命を繋いでいく人生を、主イエスと共に歩んでいきましょう。衰えも喜びになる人生をいただき、共に歩んでいきましょう。