「モーセの執り成し」

2022年10月23日説教  
申命記 9章8~21節

        

主の御名を賛美します。週報にも書きましたが、次週はいよいよ教会創立70周年の最後の集会となります。今は最後の大詰めで色々な方々が様々な準備を進めていますが、すべてが守られ祝福されて、テーマの副題にありますように、「これまでの歩みに感謝し、そして新たなあしたへ」思いを巡らす良いときとなりますようにお祈りしています。今日はその良き心備えの日でありたいと願います。

1、繰り返し

今日の聖書個所を読むときに、まず初めに感じることがあります。それはこの内容は出エジプト記32章に書かれていたことではないのかということです。そしてなぜモーセは同じことを繰り返して語り、書くのだろうかという疑問です。34:7にモーセはこのときに120歳であったとありますので、やはりモーセも高齢者なので同じことを繰り返して語るのでしょうか。

しかし同じ34:7で、「モーセは120歳であったが、目はかすまず、気力もうせていなかった」と言いますので、ただ同じことを繰り返している訳ではありません。モーセは同じようなことを繰り返して言いますが、少しずつ表現を変えて内容を深めて行きます。繰り返すことによって初めて深められて行くことがあります。

先週の個所ではイスラエルがこれから入って行くカナンの地で諸国民を追い出すときに、自分が正しいからと思ってはならないと3回繰り返して言いました。しかしただ同じことを繰り返すのではありません。諸国民を追い出すことについて、1回目の4節では諸国民が悪かったからであると言い、2回目の5節では、これは父祖に誓われた言葉を果たすことである、3回目は、あなたは実にかたくなな民なのだと、言いました。繰り返すことによって初めて言えること、伝えられることがあるのでしょう。

また今日の内容は40年前の出来事ですので、当時は幼くてどういうことか良く分からなかった人もいるでしょうし、その時はまだ生まれていなかった人もいます。そのような良く知らない人たちに当事者のモーセが直接に語ることは大切なことです。

申命記はモーセが書いたと言われるモーセ5書の最後の纏めです。キリスト教的には聖書の各巻は同じ神の言として同じ扱いですが、ユダヤ教ではこの5書は律法(トーラー)と呼ばれて聖書の他の巻より高い地位が与えられています。何となくそのような気持ちも分かるような気がする大切な内容です。

今日の内容は、初めて知る人にとってはその人に応じた印象を持たれると思います。また出エジプト記32章の内容をご存じの方は、また少し違う印象を持たれるかも知れません。またこの内容が新約聖書を含めて聖書全体とどのように関わっているかと考える方はまた違う印象を持たれるかも知れません。

同じ聖書箇所でも人によって捉え方が違う場合もあります。また同じ人でも読むときによって違う感想を持つこともあります。どのような印象を持つかでその人の状態が分かる部分もあります。その意味でも祈祷会等で皆さんと分かち合えるときはとても楽しいときです。祈祷会については、まだコロナウィルスの感染が落ち着いていませんので、ズームでは参加できない方も一緒に分かち合えるときが早く来るようにと祈るばかりです。

2、ホレブ

さて、モーセはなぜここでホレブ(シナイ山)でのことを持ち出して来たのでしょうか。それは6、7節で語ったように、イスラエルはエジプトの地を出た日から、この場所に至るまで、主に逆らい続けてきたかたくなな民なのですが、その一番酷い出来事がホレブでのことでした。

ホレブでのことは、イスラエルにとっては思い出したくもないし、モーセにここで言って欲しくもないことかも知れません。誰にでも二度と思い出したくもない大きな失敗があると思います。しかしそのような失敗から、ただ目を背けていたら、そこから何も学ぶことができません。

イスラエルに、かたくなな民であることを自覚させるためにも、モーセは敢えてもう一度ここでホレブでのことを語ります。ホレブで、イスラエルは主を怒らせたので、主は憤って、イスラエルを滅ぼそうとされました。それはそれ程に酷いことでした。

モーセはシナイ山に40日40夜とどまって、パンも食べず、水も飲みませんでした。それはそれ程に厳粛な時でした。現代でも厳粛な場所、時には飲食が禁止されます。そして40日40夜の終りの日に、主が語られ、イスラエルと結ばれた契約の言葉が、二枚の石の板に神の指で記されて、モーセに与えられました。

イスラエルに律法が与えられたこの日はペンテコステの日と考えられていますので、この日はエジプトを脱出した過越祭から50日目と考えられます。旧約と新約の内容は深い結び付きがありますので、両方を良く知ることによって理解が深まって行きます。

その時、主はモーセに言いました。「さあ、急いでここから下りなさい。あなたがエジプトから導き出した民は堕落し、早くも私が命じた道からそれて、自分のために鋳像を造っている。」 主がモーセに与えた律法の中心は十戒で、その第1の戒めは、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」で、第2は、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」です。

主がモーセに十戒を与えた正にその時に、イスラエルはその十戒を破っていました。イスラエルは十戒の内容をまだ聞いてはいなかったかも知れませんが。人間は本当に弱く、罪深いものです。人間は主が命じられる言葉よりも、自分にとって都合の良いものを自分で造って、偶像として神よりも優先して大切にします。これは今から3400年前頃と思われるこの時もそうですし、今でもそうです。

主はそのような人間をどのように思われたでしょうか。主はさらにモーセに言われました。「私はこの民を見てきたが、なんとかたくなな民だろう。私を引き止めるな。彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去り、代わりに、あなたをそれよりも強く、数の多い国民にしよう。」

主の言われることはごもっともなことです。モーセは主の言葉をどのように受け止めたのでしょうか。主が言われるように、もし今ここでイスラエルを滅ぼして、代わりにモーセの子孫を増やしたら果たして信仰深い国民になるのでしょうか。

ノアの時のような洪水は何回起こせば、この世は良くなるのでしょうか。全能の主は勿論、そのようなことはご存じです。また程度の違いこそあれ似たような問題は、この後のイスラエルに何度も起こって来ます。これはイスラエルが起こした大きな罪の問題であると同時に、主にリーダーとして立てられたモーセに与えられた課題でもあります。

モーセは主のご提案には同意をせずに身を翻して山を下りました。そこでモーセが目にしたのは、主が言われたように、イスラエルが主に罪を犯し、自分たちのために子牛の鋳像を造り、早くも主が命じられた道からそれている姿でした。

モーセとしては40日40夜、飲まず食わずの必死の思いで主の契約の言葉を聞き、怒られた主をなだめて来た後に、イスラエルの愚かな姿を見て怒りを抑えられなかったことでしょう。モーセは主から与えられた二枚の契約の板をつかんで、両手でそれを投げつけ、イスラエルの目の前で砕きました。モーセの気持ちも分かります。

3、罪のゆえ

そしてモーセは1回目の40日40夜の断食・断水と同様に、2回目の40日40夜、パンも食べず、水も飲まず主の前にひれ伏しました。それは、すべてあなたがたの犯した罪のゆえであり、主の目に悪とされることを行って、主を怒らせたからです。モーセはイスラエルを滅ぼそうとする主の怒りと憤りを恐れました。

ここの微妙な表現に注目をしていただきたいと思います。モーセは、主を怒らせたのは、「あなたがたの犯した罪のゆえ」と言っていて、「罪を犯したあなたがたのゆえ」とは言っていません。主を本当に怒らせたのは、犯した罪であり、主の目に悪とされることです。罪を犯したあなたがた、主の目に悪とされることを行ったあなたがたではありません。

それは現代で言う、「罪を憎んで人を憎まず」ということです。罪自体は憎みますが、その罪を犯した人は憎まないということです。罪と人を切り離して考えます。もしそうでなければ、すべての人は罪人ですので、すべての人を憎むことになってしまいます。すべての人を憎んでいたら人は幸せになることは出来ません。

主はリーダーとして立てられたモーセにそのことを理解して欲しいと願われたのだと思われます。モーセは主の期待通りにイスラエルのために執り成しをしましたので、モーセに耳を傾けられました。

主が怒られたのはイスラエルだけではありません。モーセのお兄さんのアロンに対しても主は激しく怒り、滅ぼそうとされました。このホレブでの金の子牛事件でのアロンの責任は大きいものがあります。確かにモーセはシナイ山に行って40日40夜、帰って来ませんでしたのでイスラエルが不安になった気持ちは分かります。

そしてイスラエルはアロンに、「私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください。」と頼みました。そしてその後にアロンは、イスラエルに金の耳輪を持って来ることを命じて、のみで型を彫って子牛の鋳像を造りました。しかしアロンはモーセに、「金を火に投げ入れたら、この子牛が出て来た」と無責任なことを言っています。

その時、モーセはアロンンのためにも執り成しをしました。アロンは、この時の他にもお姉さんのミリアムと結託してモーセに反抗したりと色々な問題を起こしています。しかしアロンはモーセのお兄さんであり、また神に立てられた大祭司としてモーセに色々と協力しています。

罪を犯したから、主の目に悪とされることを行ったからといって、もしその人は滅びて良いとしたら、すべての人は滅びて誰もいなくなってしまいます。勿論、罪を犯したこと、主の目に悪とされることを行ったことをうやむやにして良いということではありません。この日、イスラエルの民のうち3千人が倒れたと出エジプト記32:28にあります。

4、モーセの執り成し

モーセは、それから、イスラエルが造って罪を犯したあの子牛を取って火で焼き、打ち壊し、粉々にして塵にし、その塵を山から流れて来る川に投げ捨てました。日本語で、過去にあったことを無かったことにすることを、「水に流す」と言いますが、ここの聖書箇所から来ているのでしょうか。

日本で水に流すのに特に理由はありません。ただ忘れましょうということです。そのようにするしか解決方法がないからです。しかし川にある石を見ても分かりますが、軽い小さな小石は簡単に川の水に流されて行きますが、大きな物、重い物は簡単には流されずに残ったままになります。

同じように大きな問題、重い問題を簡単に赦して水に流すのは難しいものです。しかしクリスチャンは他の人よりもそのような問題を赦し易いものです。なぜならその問題のためにも主イエス・キリストが十字架に付かれて苦しまれたからです。

人によっては問題を起こした相手が悔い改めるなら赦すけれど、悔い改めないなら赦さないという人もいるかも知れません。しかし主イエスが私たちに教えられた、主の祈りは、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく我らの罪をもゆるしたまえ」と祈りなさいと教えます。

私たちが罪をおかす者を赦すのは、罪をおかす者が悔い改める否かに関わりません。無条件です。罪をおかす者が悔い改める否かは主の御手にあり主が裁かれることであって、私たちが関わることではありません。自分の罪のゆるしを願うなら同じように罪をおかす者を私たちはゆるすということです。

モーセ自身も何度か失敗を犯しています。40歳のときには、同胞のヘブライ人を虐待するエジプト人を殺してミデヤンの地に逃亡しました。またメリバの水では、主はモーセに岩に水を出せと命じなさいと言われたのにも関わらず、岩を杖で打って主を聖としなかったためにモーセはカナンの地に入れなくなりました。

モーセは罪深いイスラエルの民やアロンが滅びることを望むのではなく、過越しによって救われたイスラエルの執り成しをするのが自分の役割であると自覚していました。そしてモーセが行った執り成しはモーセだけではなく、主がすべての人に望まれることです。自分が好きな人のために取りなすのは易しいことです。

しかしイスラエルの民のように、自分の言うことを聞かず、むしろ逆らってばかりいて罪を犯す者のために執り成すのは、人の思いでは難しいことです。しかし種類は違っても自分も罪を犯し、自分の罪のためだけではなく、その人の罪のためにも主イエスは十字架に掛かられました。

そして聖霊の導きを通して主は私たちに執り成しをすることを求められます。そして人のために執り成しを行うことはその人を本当に幸せにすることです。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。モーセがホレブで律法の契約の石を与えられているときに、イスラエルは金の子牛の偶像を造るという大きな罪を犯しました。しかしモーセは御心に従って、イスラエルを裁くのではなく、執り成しを行いました。私たちも失敗を犯す者を裁くのではなく、聖霊の導きによって、すべての罪の赦しのために十字架に掛かられた主イエスをいつも覚えて、執り成す者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。