「子どもの祝福」

2022年11月13日 礼拝説教
マルコによる福音書 10章13~16節

     

22年前に睦沢町に引っ越した時に、地域では七五三の祝いをホテルのようなところで盛大に行なったりすることもあるという話を聞いて驚きました。ところで子どもの生存率が高くなってきたのは医療が発達してきた、つい最近のことです。

今でも医療の環境が整っていない発展途上国では、先進国では簡単に治る病気でも命を落とす子どもが多くいます。かたちは違っても子どもの成長を感謝し、祝い、祈る気持ちは同じだと思います。恐らくこの2千年前のイスラエルも同じ状況だったと思われます。

1、子どもたち

主イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来ました。人々とはどのような人でしょうか。子ども(パイディオン)は幼児から12歳迄の年齢に使われる言葉ですので、幼児であればお母さんだと思いますので多くは母親だと思います。しかし少し成長した子どもであれば世話をしている、兄弟姉妹、お祖父さん、お祖母さんかもしれません。父親もいたかもしれません。

彼らは何のために主イエスが子どもに触れることを願ったのでしょうか。これまで主イエスは、病を患っている人の多くに対して触れることによって癒して来ました(1:41、5:27、41、6:56、9:27)。その噂はたちまち地域に広がっていました。

彼らは主イエスが神の子であるということは正確には知らなかったかもしれません。しかし多くの人を癒されたことを聞いて主イエスは力のある方だと知ったのでしょう。そして子どもの健やかな成長と祝福のために祈って欲しいと思って連れてきたのだと思います。

親は子どもの幸せのためなら何でもするものです。連れて来られた子どもの中には病気の子もいたと思われます。

ところで前の段落の8節で、結婚した夫婦は一体であって、神が合わせられたものを、人は離してならない、つまり離婚は神の御心ではないことを語りました。残念ながら離婚に至る場合には夫婦はどちらも傷付くことになるでしょう。しかし離婚で一番傷付くのは子どもではないでしょうか。

夫婦は元々は他人ですが、子どもは両親のそれぞれと繋がっています。その絆が断たれることは、夫婦とは別の意味で子どもの心も引き裂かれることとなって大きな傷となります。離婚の話題の直ぐ後に子どもの祝福のことが書かれているのは偶然ではないと思います。

そこには家族を大切にされる主イエスの思いが込められているのではないでしょうか。子どもの健やかな成長、信仰の成長は、出来ることなら、お互いを赦し合い、愛し合う夫婦の元で育まれるなら幸いです。子どもの幸せを願う親の愛によって子どもは主イエスのみもとに連れて来られます。

私たちが他の人に出来る一番良いことは何でしょうか。それは主イエスのみもとに連れて来ることです。2章の初めには、体の麻痺した人を4人の男が床に寝かせたまま主イエスのみもとに運んで来たことが書かれています。そうであれば尚更、自分の愛する子どもは主イエスのみもとに連れて行きます。

2、手をおいて

祝福は言葉だけの祈りではなくて、13節で「触れて」と16節「手を置いて」と2回言われて強調されています。ここには「手」についての聖書の考えが表わされています。手は力を表します。手を上げるということは、時には逆らうことを意味して、祝福する時(レビ9:22)、祈る時にも手を上げました(出17:11)。

戦いにおいてモーセが手を上げているとイスラエルが勝って、手を下げると敵のアマレクが勝ちました。手は人格の延長でもあります。祈り手と言えば祈る人のことで手は人という意味でもあります。忙しい時には猫の手も借りたいと言います。

主イエスは全能の神ですから、手を置いても、置かなくても、近くにいても、いなくても、祈りの効果には変わりはないとは思います。しかし祈りにおいて手をおくと、接触を通して伝わることもあるのかもしれません。しかし現代では異性に対する接触はセクハラの問題となったり、コロナの感染問題もありますので注意も必要です。

3、弟子たち

ところが弟子たちは人々を叱りました。なぜ弟子たちは人々を叱ったのでしょうか。二つの理由が考えられます。弟子が叱った理由は悪くも良くも考えられます。悪く考えると機嫌が良くなかったと思われます。前の段落で、当時のユダヤ人の習慣では、離縁状を書けば妻と離婚出来るという考えが一般的でした。

しかし主イエスからは、原則として離縁は姦淫の罪を犯すことだと言われました。このことについて、10節で弟子たちは家に戻ってから主イエスに再び尋ねていますのでどうも納得がいっていなかったようです。どうも納得がいっていないところに、子どもが恐らく母親に連れて来られました。

当時は子どもは直接には余り役に立たないということで低い価値として見られていました。そして女性も低く見られていました。弟子たちは離縁という深刻な話をしているときに、表現は悪いですが、女、子どもの出る幕ではないといった、女性や子どもを低く見た見方をしていたようです。

私たちも機嫌が悪い時には、自分より弱い立場の人に八つ当たりをしてしまうことがありますので注意が必要です。弟子たちは主イエスが9:36、37で言われたことはすっかりと忘れていたようです。

いや、そうではなくて弟子たちはそこまでは悪くはないとも考えられます。主イエスはファリサイ派の悪巧みに対応されて疲れておられるだろうから、ただ単に休ませて上げたいと考えていたのかもしれません。師である主イエスのためを思って言ったのかもしれません。もしかすると良い思いと悪い思いの両方が入り混じっていたのかもしれません。

4、妨げてはならない

すると主イエスは、「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない」と言われました。大人が喜んで神を礼拝していれば、子どもはそのままにしておいても、大人と同じように神に近づいて行きます。私たちがすることは、子どもが神に来るのを自由に来させて妨げないことです。9:42は、「また、私を信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。」と言います。

ある教会で話を聞いたことがあります。その教会には新しく教会に来る人が結構いるのですが定着することが難しいとのことでした。原因はある程度分かっていて、あるつまずきの石があるとのことでした。これは非常に根の深い、またそこの教会だけではなくて、多くの教会が抱えている問題です。

9:42で、なぜ小さい者をつまずかせるのでしょうか。9:34で、弟子たちは誰がいちばん偉いかと言い争っていました。10:37でも、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、主イエスが栄光をお受けになるとき、自分たちの一人を主イエスの右に、一人を左に座らせることを願いました。

弟子たちでさえ自分が偉くなろうとしていました。自分が偉くなろうとする者は小さい者を軽んじた態度を取って、神に近づくことを妨げます。マルコは、偉くなることを望む弟子たちの愚かさや金持ちが神に国に入ることの難しさを描くのと対照的に、子どもの姿を描いています。

伝道は人間が担う部分もありますが基本的には神の働きです。神が新来者を教会に送ってくださり、神が信仰を与えて成長させてくださいます。私たち人間が行うことは、神の働きを妨げないことです。私たちは神が撒かれた種に水や栄養を与えて成長を温かく見守るだけです。

無理矢理に力ずくで種の殻を割ろうとしたり、少し出た芽を引っ張ること等をすると、成長が妨げられてしまいます。伝道は大切ですが、もっと大切なことは神が送ってくださった人を妨げたり、つまずかせて神の働きを止めないことです。

5、子どもたちのもの

主イエスは続けて「神の国はこのような者たちのものである」と言われました。このような者たちというのは子どもたちを指しています。これは子どもは純粋無垢という意味ではありません。また、子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決して神の国に入ることはできません。子どものように神の国を受け入れるとはどういうことでしょうか。

思い出話をしたいと思います。我が家の子どもたちもお蔭様で大きくなって来ました。

どの子とは言いませんが、数年前位までは、とても怒り易い子で、私が同じような怒り方をしたら、暫くは口もきかなくなる位の勢いで私に対しても怒っていました。

しかし不思議なことに、その子は怒った10分後位には何事も無かったかの様に笑顔で私の部屋に入って来て頼み事をします。初めは、この子は記憶喪失か、それともどういう神経をしているのだろうと思いました。そしてある時に言いました。

「お前は、さっきまであれだけ怒っていたじゃないか。それなのにどうして丸で何事も無かったかのように頼みごとなんか出来るんだ」と。そうしたところ「だって、パパに頼まなければ出来ないから」と答えました。それはパソコンを使う必要のあったことです。その時にこの御言の意味が分かったような気がしました。

大人になって来ると、段々と悪知恵も身に付いて来て、自分は自分で何でも出来ると思うようになります。前の段落の様に、結婚は二人の者が一体となるものと言われても、申命記24:1の「恥ずべきことを見いだして、気に入らなくなったときは」離婚して良いのだからと言って、こじつけて離婚を正当化します。

そして自分は正しいとします。しかし子どもは違います。自分が無力だということを知っていて、自分で出来ないことは分かっています。ですから自分の力で手に入れようとはしません。そしてある意味で遠慮もなく、恥ずかしさもなく、欲しいものは欲しいと言います。

神が私たちに求めておられるのは、子どものように自分が無力であることを認める謙虚さと欲しいものを素直に受け入れる素直さです。神は私たちに、子どもの様に、素直に主イエスのみもとに行って神の国を受け入れることを願っておられます。

人間が自分で律法を守っているから「私は正しい者だから神に国に入れるはずだ」と言っている者を、神は神の国には入れません。子どものように素直に神の国を受け入れる人だけです。主イエスは、そのような素直な子どもたちを愛し、抱き寄せ、手を置いて祝福されました。

神の国に入るための手筈は、主イエスが十字架に掛かられて全て神の側で整えられています。自分の知恵に頼るのではなくて、聖霊の導きに従って子どものように素直に神の国を受け入れさせていただきましょう。そのような人を主イエスは愛し抱き寄せ、手を置いて祝福してくださいます。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは、この世の知恵が身に付いて来ると、何でも自分で出来ると思い込み、神など必要ないと思ってしまう者です。しかし、主イエスは子どもを主のところに来させ、妨げてはならないと言われ、子どもを抱き寄せ、祝福されます。私たちも聖霊の導きに従って、子どものように素直に自分の無力さを認めて、神の国を受け入れて、主の祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン