「あなたの所有の民」

2022年11月20日説教 
申命記 9章22~29節

        

主の御名を賛美します。日本の地名はその土地の特徴を表すものがあります。例えば、地名に「谷」が付く土地は、低い地形で水が溜まる所のようで渋谷、阿佐ヶ谷等があり、「田」が付けば田圃で蒲田、千代田、野田等があり、豊洲の「洲」は水辺に溜まった砂地で元は海を埋め立てた所等です。ここの茂原の「茂」は元々は、海藻の「藻」の漢字で湿地が多かったようです。

1、恵みにより

イスラエルは、この後に神が約束されたカナンの良い地に導かれます。しかし6節で主はモーセを通して、イスラエルは自分が正しいから、この良い地を所有させてくださるのではないことを知りなさいと言われました。良い地はイスラエルの正しさに対する報酬として与えられるのではありません。

あくまでも主からの一方的な恵みとして与えられるものです。実際、イスラエルはエジプトの地を出た日から、この場所に至るまで、主に逆らい続けてきました。逆らった代表的な出来事が前回の金の子牛の鋳造を造ったことでした。イスラエルは一度だけ逆らったではなくて、逆らい続けてきたのですから、他にも逆らい続けてきた例を上げます。

タブエラは民数記11:3で、「燃え上がった」という意味の言葉で、イスラエルの激しい不平に対して、主の怒りの火が燃え上がって宿営の端を焼き尽くした場所です。イスラエルでは何か出来事があった時にその出来事をしっかりと覚えて忘れないために、その場所での出来事を地名に付けました。

申命記の原語の題名は「言葉」で、聖書では言葉をとても大切にしています。

マサは出エジプト記17:7で、「試す」という意味で、飲み水のないイスラエルが、飲み水をくださいと言って、主を試した場所です。キブロト・ハタアワは民数記11:34で、「貪欲の墓」という意味で、肉を貪欲に求めるイスラエルに主が、うずらを与えた後に民を打たれた場所です。

カデシュ・バルネアは民数記13:26で、カデシュは「聖なる、聖別」の意味で、バルネアは「地」の意味と考えられ、38年前にカナンの地にイスラエルの12人の偵察隊を送った場所です。主は、「上って行って、私があなたがたに与える地を占領しなさいと」と命令されましたが、巨人であるアナク人の子孫を見て恐れたイスラエルは、主に信頼せず、耳を傾けませんでした。

その結果、イスラエルは荒れ野で38年の遠回りをすることになりました。モーセがイスラエルを知った日から、イスラエルは主に逆らい続けてきました。ですからイスラエルが自分が正しいから良い地を所有させてもらえる等と考えることは、大きな勘違いであることが分かります。

これは現代を生きるクリスチャンも全く同じことで、恵みを与えられるときに自分が正しいからと考えることは大きな勘違いであって、ただ主の恵みによります。

2、あなたの所有の民

モーセは40日40夜ひれ伏しました。これは18節の2回目の断食断水のことです。それはイスラエルが金の子牛の鋳造を造ったことに対して、14節で主がイスラエルを滅ぼすと言われたからです。そこでモーセはイスラエルのために執り成しました。

執り成しの1つ目は、「主なる神よ、あなたの大いなる業によって贖い出し、力強い手によってエジプトから導き出されたあなたの所有の民を滅ぼさないでください。」 これは大変に面白いと言っては失礼かもしれませんが、とても味わい深い執り成しだと思います。

主がイスラエルを滅ぼすと言われたことに対してモーセは滅ぼさないでくださいと訴えます。そこで訴える理由となるテーマはイスラエルとは何者かということです。主は12節で、イスラエルはモーセがエジプトから導き出した民、あなたであるモーセの民と先手を打たれました。そしてモーセの民は堕落しているから滅ぼすと言われます。

それに対してモーセは異議を唱えるように、いやいや、ちょっとお待ちくださいと言います。「イスラエルは自分の民ではなくて、あなたの大いなる業によって贖い出し、力強い手によってエジプトから導き出されたあなたの所有の民」であると訴えます。

これは主によってリーダーとして立てられたモーセにとってとても大切なことです。主はモーセを試すように、イスラエルをあなたの民と呼び、かたくなであるから滅ぼすと言われます。しかしモーセは、イスラエルは自分の民ではなくて、主の所有の民ですから滅ぼさないでくださいと主によって導かれて言います。

主によって立てられたリーダーであるモーセにとって、自分が牧会する民が誰の民であるのか、自分の民と考えるのか、主の所有の民と考えるのかは決定的に大切なことです。主はモーセにそのことを意識させたのでしょう。

モーセは主がイスラエルを滅ぼすと言われることに対して、イスラエルは主の大いなる業によって贖い出された主の所有の民であるという、その事実だけを根拠にして滅ぼさないでくださいと願います。イスラエルがかたくなであるかどうか等ということは関係ありません。

3、父祖に誓われた言葉

執り成しの2つ目は、「あなたの僕であるアブラハム、イサク、ヤコブを思い起こしてください。」です。これもまた面白い表現です。これまでモーセはイスラエルに対して散々、これまでの主の恵みを、思い起こしなさいと命じて来ました。今回は主に対して、イスラエルの父祖を思い起こすことを願います。思い起こすことの大切さを教えられます。

ところでモーセはこの3人の父祖の何を思い起こすことを願っているのでしょうか。1つは5節の終りにあります父祖に誓われた言葉です。それは出エジプト記32:13で主が3人の父祖に、「私はあなたがたの子孫を増やして空の星のようにする。また、私が約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、とこしえにこれを受け継がせる」と告げられた言葉です。

その父祖に誓われた言葉を破って滅ぼすのではなくて、きちんと守って果たしてくださいとのお願いです。しかし3人の父祖に付いて思い起こすことは、その誓われた言葉だけではありません。続けて、「この民のかたくなさと悪と罪に御顔を向けないでください」と言います。

3人の父祖は全てにおいて正しい完全な人であった訳ではありません。アブラハムは自分の命の危険を感じると妻のサラを妹と偽って自分の命を守ろうとしたり、妻のサラと自分との考えで女奴隷ハガルによって子どももうけること等をしました。

イサクも父のアブラハムと同じように、自分の妻のリベカを妹と偽って自分の命を守ろうとしたり、長男のエサウを依怙贔屓したりしました。ヤコブは父イサクを騙して兄エサウの祝福を奪う等しました。3人の父祖も、そのかたくなさと悪と罪とに御顔を向けられたら、とても耐えられるものではありません。

主に思い起こしていただきたいもう1つのことは、3人の父祖もこの時のイスラエルと同じで、かたくなな民であって、ただ主の恵みと憐れみによって主の所有の民とされていたことです。これは3人の父祖の悪い部分には御顔を向けられなかったことも思い起こしてくださいという願いです。そして同じようにイスラエルのかたくなさにも御顔を向けないでくださいと願います。

4、主の名誉のために

執り成しの3つ目は、「私たちがあなたに導かれて出て来たあの国の者たちに、『主は約束された地に彼らを導き入れることができず、彼らへの憎しみから荒れ野に連れ出し、死なせてしまった』と言わせないでください。」です。

ここでイスラエルを滅ぼすことは、イスラエルが罪深く、かたくなであるかどうかといったイスラエルの問題に留まることではないとモーセは訴えます。これはイスラエルを罪の象徴であるエジプトから導き出された主の名誉に関わる問題です。

ここでイスラエルが滅ぼされるなら、主は約束された地に彼らイスラエルを導き入れることができなかった、これはイスラエルが良い悪いといった問題ではなくて、主にイスラエルを導き入れる力がなかったという主の力の問題だと、イスラエルが導かれて出て来たエジプトの者たちは言うでしょう。

さらにエジプトの者たちは、主はイスラエルへの憎しみから荒れ野に連れ出し、死なせてしまった、主はイスラエルへの約束を守らず愛のないお方だと言うでしょう。これはイスラエルの問題ではなくて、主の沽券に関わる問題です

そしてモーセは主に対して、「彼ら、イスラエルは、あなたが大いなる力と伸ばした腕によって導き出された、あなたの民、あなたの所有の民です。」と強く訴えます。

モーセは主からイスラエルのリーダーとしての召命を受けた時には、出エジプト記4:10で、「私は雄弁ではありません。私は本当に口の重い者、舌の重い者です。」と訴えて、お兄さんのアロンがモーセの代弁者になりました。

しかしあれから40年経って、モーセは今120歳ですが、とても雄弁と言いますか、真実をきちんと語る人になったと思います。主によって立てられて用いられる人は、聖霊が働いて訓練されるのだということを教えられます。

5、クリスチャン

今日の聖書箇所はイスラエルのためのモーセによる主に対する執り成しですが、これは現代のクリスチャンに対しても全く同じです。クリスチャンは主の大いなる十字架の業によって贖い出され、力強い手によってエジプトの象徴する罪から導き出された主の所有の民です。これは自分自身もそうですが他のクリスチャンも皆同じです。

そしてクリスチャンは皆、主の所有の民ですが、イスラエルの父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブと同じように、かたくなさと悪と罪を合わせ持っています。そこに御顔を向けられたら誰も目も当てられませんが、主の十字架によって恵みにより生かされています。クリスチャンは父祖に誓われた言葉を信仰による子孫として受け継ぐ者です。

クリスチャンになっても罪人であることには変わりはありませんので、意図はしていなくても罪を犯してしまうことがあります。そうすると真面目なクリスチャンは自分は滅ぼされてしまうのではないかと恐れる感じる時もあります。しかし滅ぼされることはありません。

クリスチャンが滅びるかどうかは、そのクリスチャン自身の問題ではありません。クリスチャンは主の所有の民ですので、クリスチャンが滅びるかどうかは所有者である主の沽券に関わる問題となります。ですからクリスチャンは何も怯えることなく、安心して寛いでいられます。

ただクリスチャンは主の所有の民で滅ぼされることはないから何をしても良いということではありません。主の所有の民として相応しい者として訓練の道を歩むことになります。それは父祖たちの歩みを見ると良く分かります。

クリスチャンになって長い方で聖会等に参加されている方は、聖会の内容で良く3人の父祖の歩みが取り上げられていることをご存じだと思います。3人の父祖は神から愛されましたが、その歩みは決して平坦なものではありませんでした。それは先程も少しお話したように3人ともにかたくなであったからです。

しかし3人ともに神から滅ぼされることはありませんでした。なぜなら3人ともに、あなたである主の所有の民だからです。そして主の訓練を通して主の所有の民として相応しい者へと変えられて行きました。現代を生きるクリスチャンは主イエス・キリストの十字架の贖いによって、完全なる主の所有の民とされます。

そして聖霊の導きによって主の所有の民として相応しく、律法を成就する者へと変えられて行きます。いよいよ次週から私たちの救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望む待降節に入ります。私たちの救いのために主イエス・キリストがこの世に遣わされた、その意味を味わいつつ待ち臨みましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。イスラエルは主の所有の民とされたにも関わらず、主に逆らい続ける歩みでした。それは現代を生きる私たちクリスチャンも同じ様です。しかしモーセは主に対して、イスラエルは主に贖われた主の所有の民であり、罪に御顔を向けないでくださいと執り成しました。

今は、私たちのために主イエス・キリストがモーセのように執り成してくださいますから有難うございます。どうぞ私たちが聖霊の力によって、主の所有の民として相応しい歩みをする者としてお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。