「天国からの招き」

2022年11月6日礼拝説教
ヨハネによる福音書3章31~36節                                                野田栄美

 

・ 天国

天国は、本当にあるのでしょうか。これは、誰もが知りたいと思っていることです。私たちが想像する天国は、この世での生涯を終えた後に私たちが行き着く場所です。そして、そこはとても幸せな場所だと想像しています。でも、本当のことは誰にも分かりません。誰も行ったことがないからです。時々、臨死体験をした人の番組や、本を見かけることもあります。誰もが知りたいと願っている証拠です。誰もが死んだ後に私たちがどうなるかを知って、安心したいのです。

私は、子どもの頃に、ふと自分自身の存在自体がなかったらと、想像したことがありました。私自身が存在しない、無になってしまうと考えると恐れを感じました。もし、私たちが死ぬことで、無になってしまうのであれば、それは、恐ろしいことだと感じるのではないでしょうか。

  • 天を語る聖書

聖書は、そのような思いに答えを与えてくれる本です。むしろ、聖書は、天国のことを書いた本と言うこともできます。聖書は、天国を「天」や「神の国」と言います。そこは、神が共におられるところで、神の支配されておられるところです。そして、神は、私たち人間にご自分のことや「天」、「神の国」を知ってもらいたいと思っておられます。そのことを何とか人間に伝えようと、語りかけてこられました。その語りかけを書いているのが聖書です。

先月お話ししたバプテスマのヨハネは、神のみ言を預かって人々に伝える預言者でした。彼は、最後の預言者です。彼の前に神が遣わされた預言者は、名前が聖書に出てきているだけでも約30人、名もない預言者は他に大勢います。また、神が立てられた族長、士師、祭司や王を含めると更に数は増していきます。聖書が記しただけでも、神が繰り返し諦めることなく「天」のことを伝えようとしていたことが分かります。けれども、人は聞いては忘れ、聞いては忘れを繰り返しました。

  •  天から来られた方

 それでも、神は人を天へ招くことを諦められませんでした。そして、ご自分の独り子を天からこの世へ遣わされました。それまで神が遣わされた預言者や、士師や祭司たちは、言わばこの世の人たちでした。地から出た地に属する人たちです(31節)。ですから、彼らは、地に属する者として、自分が行ったことも、見たこともない神の国について、神からの言葉を預かって語りました。けれども、約2000年前に遣わされた方は、上から来られた方でした。神のおられる天から来られた方です。

 私たちは、自分のいるところを客観的に見ることはできません。思い出してみてください。小学生の時には、小学校と家庭が世界のすべてでした。けれども、卒業して中学生になると、小学校は小さな世界だったことに気が付きます。同じように、学生の頃は、自分は知識を豊富に持っていると思っていたのに、大人になると知識では語れない事柄があることに気が付いていきます。ですから、私たちのこの世界のことを、本当の意味で知っておられるのは、この世界に存在する人ではなく、この世界を超えたところにおられる方です。

 それが、上から来られる方です。上とは、天を指しています。天から来られる方は、この世界のすべてのことを知っておられます。客観的にこの世界全体を見ることができるお方です。預言者たちとは、一線を画した存在です。それが、主イエスです。

 31節では、主イエスのことをこう言い表しています。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」この聖句で2回繰り返されているように、主イエスは、この世のすべてのものの上におられる方です。

  •  外交官

 外交官という職業があります。どんなことをする人でしょうか。彼らは、他の国に行って、国際的な交渉や政策の調整を行います。彼らは、それぞれの国の共通の利益を出すことができるようにも調整しますが、自分の国の利益を一番に考えつつ働きます。そして、その国に応じて出方を見ながら、交渉していきます。

天から来られた主イエスは、どうなのでしょうか。神がご支配される天国から、この世に遣わされた使者です。何らかの利益が「天」にもたらされるから、この世界に来られたのでしょうか。いいえ、違います。主イエスや父なる神にとっては、この世界から得る利益は何もありません。神はこの世界を超えた天をも支配される方です。神にとってこの世界で得るものは何もありません。

ですから、この世界に来なければならない理由は、神の側には何一つありません。この世界が栄えても、滅びても、神の側には何も問題は起こりません。もし、この世界に行こうと考えられたとしても、手ぶらで見に来てもいいところです。けれども、主イエスは、ただ、ぶらぶらと手ぶらでこの世界を眺めに来られたのではありませんでした。では、どのように、来られたのでしょうか。

  •  天について

 主イエスは、人間に天で見たことや聞いたことを教えるために来られました(32節)。天(神の国)は存在することを伝えるためです。32節には、「この方は、見たこと、聞いたことを証しされる」と、あります。天で見たことや聞いたことを隠さず伝えてくださいます。更に34節では、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を語られる」と、あります。天を支配しておられる最高権威を持った方の言葉を、惜しげもなく語ってくださると言っています。

私たちは、権威のある方々や上に立てられた方々の言葉を聞いてみたいですよね。いい意味ではないこともありますが、暴露本が売れたりするのは、自分の手に届かない存在の人たちが、何を語っているのか知りたいから手に入れたいと思うからです。32節にあるように「誰もその証しを受け入れない」と分かっていても、主イエスは、神の言葉を伝えてくださいました。

これは、自分の利益を上げるための営業マンは絶対にしないことです。自分の手の内を簡単に見せないで、相手を上手く動かして、交渉を有利に進めるためです。この主イエスの無防備な営業の方法は、主イエスが自分の利益のために話しているのではないことを裏付けています。

  •  神と主イエスの一致

33節には、「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確かに認めたのである」とあります。主イエスのご自分をすべて献げる言動によって、私たちに神が分かり、信じることができると言います。主イエスのおっしゃっておられることも、行っておられることもすべてが、神を表している、神が真実だと伝えていると言います。

その裏付けとして、主イエスがそのようなことをしている理由を説明しています。34節に「神が霊を限りなくお与えになるからである。」とあります。主イエスは、神が天から神の霊を限りなくお与えになったから証ししているのだと言っています。主イエスは、神から与えられた霊によって、神の願っておられることをされているのだと太鼓判を押しています。

神と主イエスの関係は、麗しいものです。35節には、「御父は御子を愛して、その手にすべてを委ねられた」とあります。全部あなたに委ねる、聖霊も限りなく無尽蔵に与える、何でもできるようにあなたに任せたよとおっしゃっておられます。神は、得るものが何もない世界に主イエスが降られることを願われた方ですから、全面的にバックアップしておられます。無防備な営業マンのように利益は何も考えず、献げることだけに終始していることを喜んでおられます。

  •  天に受け入れる準備

そして、天のことを包み隠さず語ってくださったのは、私たちを天へ招くためです。36節には「御子を信じる人は永遠の命を得る」とあります。この永遠の命とは、私たちが天へ入るために、必要な神の子どもとされる命です。

今、大きな国際的な問題の一つとして、「難民」の問題があります。11年前に起こったシリアでの危機によって、500万人を超える難民が、近隣国に避難しました。また、ウクライナでの戦争によって、600万人を超える人が他の国々に逃れなければならなくなりました。

けれども、実際に難民を受け入れるということは、簡単なことではありません。そこには、大きなコストがかかってきます。難民が自立するためには、言葉の訓練、職業訓練、精神的なケアなど、数え切れないほどのサポートが必要です。それでも、文化的な摩擦はどうしても起きてきます。

人を天に受け入れることは、どうなのでしょうか。それ以上に大きな障害があります。天には一切の罪は入ることができず、清い人だけが入ることができるからです。けれども、神は躊躇なくそのために必要なことを実行するために主イエスをこの世へ送られました。天に入るために必要な神の子どもとしての特権である、永遠の命を主イエスの手に委ねられました。

永遠の命は右から左に渡すようなものではありません。難民の方を受け入れるのに、大きなコストがかかるように、主イエスは私たちを天にふさわしい者へと整えるために、私たちの罪をまず取り除いてくださいました。そのために必要な膨大なコストとは、自分がすべての罪の贖いのために十字架にかかることでした。

それを成し遂げられたからこそ、主イエスが自分を清めてくださる方だと信じた人に、永遠の命が渡されます。信じることで罪を取り除かれた人は、天に入る準備ができているからです。

  •  天国は愛

 これが、聖書のいう天への招きです。天国は存在すること。そこは、神のおられるところであること。そして、神は私たちを天へ招いておられること。そのために主イエスがこの世に送られたこと。そして、私たちに天へ入るための永遠の命を用意されていることです。

その方法には一つの共通点があります。それは、ご自分のことは何も考えずに、ただ私たちを愛しておられることです。私たちを受け入れるために、どんな困難も、差し出すべき犠牲も、すべて用意してくださいました。神は、あなたに天を知ってもらい、そこに入ってもらいたいと思っておられます。その愛において、神と主イエス、そして聖霊は完全に一致しておられます。だから、天国は愛です。私たちは死んだ後のことを何も心配する必要はない、ただ、主イエスを信じればいいと聖書は語ります。