「信じる者の幸い」

2022年12月18日 礼拝説教  
ルカによる福音書 1章39~56節

     

主の御名を賛美します。今日の聖書箇所の説教を準備するために、以前にはこの箇所からどのような説教をしたのか確認しようと思って調べたところ、この箇所からは一度も説教をしていないことが分かりました。福音書のアドベントの記事の説教は一度、全て終わっていたと思っていましたので新しい喜びでした。今回、福音書に取り組まなければ気付かないことでした。自分で思い込んでいることを確認すると思わぬ恵みがあることを教えられました。

1、マリアの訪問

前回に、マリアは天使ガブリエルから聖霊によって男の子を身ごもることを聞きました。身ごもるのは自分だけではなくて、親類のエリサベトもであってエリサベトは男の子を身ごもっていて、もう六か月になっていることを知らされました。その時のマリアの心の中にはどのような思いがあったでしょうか。

マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行きました。10代の若いおとめという感じがします。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶をしました。その町はナザレから105km南にあって、町の頂上には記念して聖母訪問教会が建っています。マリアは妊娠の初期に105kmの距離を急いで行きましたが、それは10代の健康な身体だから出来たことかと思います。

マリアがエリサベトを訪ねたのはどのような目的だったのでしょうか。天使から、あなたの親類のエリサベトも男の子を身ごもっていて、もう六か月になっていることを知らされたので、そのことを確かめに行ったのだろうかと初めは思いました。しかしそうではないような気がします。

マリアは38節で、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」と言って、天使の言ったことを信仰によって受け入れて信じています。信じていることを確認するためだけに、わざわざ片道105kmも離れている所へ、おとめが一人で歩いて行くことはしないでしょう。

それではマリアは何のためにエリサベトを訪ねたのでしょうか。マリアは聖霊によって身ごもるという不思議な経験をします。これは人類史上マリアだけが経験する特別なことです。しかしマリアとは少し違いますが、自分の親類のエリサベトは老年ですが身ごもっています。

それは明らかに神の奇跡的な働きです。しかもそのことがわざわざ天使によってマリアに知らされました。そこにはもしかすると何らかの関りがあるのかも知れないとマリアは感じたのかも知れません。そうではなくても、似たような経験をしている者同士として何かを分かち合いたいと思ったのかも知れません。

2、エリザベトの挨拶

マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、エリサベトの胎内の子であるヨハネは躍り、エリサベトは聖霊に満たされました。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。マリアには聖霊が降り、いと高き方の力が覆っていて、聖霊に働きによってマリアはそのことを信仰的に受け入れました。

エリサベトは老年ですが身ごもり、それは主の働きであると確信していることでしょう。そのような信仰深い人同士が、挨拶を交わして交わる時に更に聖霊の働きがあります。

主にある信仰者の交わりとはこのようなものであることを教えられます。私たちの交わりもこのようなものでありたいものです。

エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言いました。42~45節は特に小見出しが付いていませんが、ここは一般的には「エリサベトの挨拶」と呼ばれています。この後の「マリアの賛歌」、「ザカリアの預言」のように、小見出しを付けて別段落にしても良い内容だと思います。

エリサベトはマリアに対して、「私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。」と言います。エリサベトは老年であり、自分より随分と年下の親類の10代の若いおとめであるマリアに対して、随分と丁寧な普通であれば不思議に感じるような表現であると思います。

エリサベトは聖霊の満たしの中で、マリアは単に自分の親類の若いおとめではなく、自分の救い主の母であることに気付かされて、このような表現をしました。聖書協会共同訳ではカトリックと共同で聖書を訳していますので、「主のお母様」と訳していますが、新改訳では原語通りに、ただ「主の母」と訳しています。

エリサベトは初めにマリアに、「あなたは女の中で祝福された方です。」と言います。これは最上級を表す表現ですので、新改訳のように、「あなたは女の中で最も祝福された方」と訳せます。マリアはどういう意味で最も祝福された方なのでしょうか。

11:27で、群衆の一人の女が主イエスに対して、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎は」と言いました。救い主を自分の胎に宿して、主の母となったマリアは確かに幸いのように感じます。自分の子が偉大な人物になれば、母親は自分のことのように誇らしいものでしょう。このことを言ったこの女の気持ちは誰にでも分かるものだと思います。

しかし主イエスは直ぐに11:28で、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」と言われました。大切なのは血縁の繋がりではなくて、神の言葉を聞いて守ることです。8:21でも主イエスは、「私の母、私のきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われます。血縁も大切ですが信仰による神の家族が強調される時代になっています。

聖霊に満たされたエリサベトも全く同じように、マリアが祝福された理由を、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と、幸いとは信じることであると言います。マリアが祝福された理由はただ信じたからです。幸いとなり祝福されるのに難しいことは必要ありません。ただ信じるだけです。

3、マグニフィカト

自分の祝福を宣言する親類エリサベトの挨拶を聞いたマリアはどのように感じたことでしょうか。皆さんがマリアの立場で、「あなたは祝福された方です。信じた方は幸いです。」と言われたら、どのように感じて、どのように答えられるでしょうか。

「いえいえ、そんな私などとんでもありません。」と言って謙遜されるでしょうか。主の言葉を信じるマリアは二つのことをしました。一つ目は、「私の魂は主を崇めます。」と言います。原語では「崇める」という言葉が初めに来ていますが、「崇める」は元は、「大きくする」という意味です。

なぜ主を崇め、主を大きくするのかと言いますと、大いなることをしたのは自分自身の力によるのではなくて、力ある方が私に大いなることをしてくださったからです。大いなることをしてくださった方を大きくすることは正直で誠実なことです。

「崇める」はラテン語で「マグニフィカト」と言うことから、46~55節のマリアの賛歌は「マグニフィカト」と呼ばれます。そこから英語のマグ二フィは「大きくする」という意味で、拡大鏡を英語では「マグ二フィング・グラス」と言います。

マリアは二つ目に、「私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」マリアが主を崇め、喜びたたえる理由は二つあり、一つは主が自分に大いなることをしてくださったからです。二つ目は、この卑しい仕え女に目を留めてくださったからです。

「卑しい」という言葉は、「低くする」という言葉から来ています。聖霊に満たされたマリアは、「あなたは祝福された方、幸い」と言われたことに対して、直ぐに主を崇め、大きくして、自分を低くします。

私の知り合いのクリスチャンにも、自分が何かで褒められるとそのまま栄光を自分のものにするのではなく、直ぐに主を崇め喜びたたえて、栄光を主のものとする人がいます。ここの聖書箇所の通りで、私たちもそのようにありたいと願います。

マリアは続けて、「今から後、いつの世の人も私を幸いな者と言うでしょう。」と言います。「今から後」と言うのは、マリアが救い主を宿したことによって今迄とは違う新しい時代に入ったことを表しています。幸いな者とはマリアの姿から、主の言葉を信じる者であり、主を信じる者は、主を崇め、大きくし、自分を低くする者です。

マリアは幸いな者ですが、その幸いはマリアだけのものなのでしょうか。そうではありません。「その御名は聖であり その慈しみは代々限りなく 主を畏れる者に及びます。」 ここでは幸いを与えてくださることを主の慈しみと言い換えています。

6:20から、ルカによる福音書では平地の説教と呼ばれる、「貧しい人々は、幸いである」から始まるものがあります。幸いは全ての人が願うものですが、幸いは自分の力でなることではなく、主がなしてくださるものです。

全能の主は御腕をもって力を振るわれ具体的にどのようなことをされるのでしょうか。二つのタイプが比べられます。一つ目は、低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たします。それは6:20、21に、「貧しい人は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。」とある通りです。

その一方で二つ目は、思い上がる者を追い散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、富める者を何も持たせずに追い払います。ここには聖書の逆転の法則が働きます。マリアのように、主を大きくし、自分を低くする者を、主は高く上げられます。

マリアのように主に高く上げられるには、主を大きくし、自分を低くすれば良いのです。しかし高く上げられることを望む者は、主を小さくし、自分を高くするという正反対のことをしてしまいます。その結果は明白で、ここに書かれているように、主によって引き降ろされることになります。これは理屈では簡単なことですが、理屈で出来ることではなく、聖霊に満たされることによって初めて可能になることです。

主は過去においては、慈しみを忘れず その僕イスラエルを助けてくださいました。そして主は将来においても、私たちの先祖に語られたとおり アブラハムとその子孫に対してとこしえに。アブラハムの子孫とは血縁の子孫であるユダヤ人であり、信仰による霊の子孫であるクリスチャンです。これは永遠の約束です。

4、信じる者の幸い

マリアは、三か月ほどエリサベトと暮らして、家に帰りました。何気ない文章ですが、私は初めはとても驚きました。いくらこの当時は旅人を受け入れる習慣があったとしても、突然に訪ねて来て、高齢の妊婦のいる家に三か月も泊まられたら迷惑だったのではないかと思ったからです。

しかしそうではなかったようです。エリサベトは高齢の妊婦で、妊娠六か月を過ぎた後半は生活が大変だったと思われます。そこでマリアはエリサベトの世話をしていたと考えられます。多くの学者はマリアはエリサベトの出産まで世話をしていたのでないかと言いますが、確かにそうかも知れません。

そもそもマリアがエリサベトを急いで訪ねたのは、高齢で妊娠後期となったエリサベトの世話をするのが目的だったのかも知れません。また三か月の滞在はマリアのためでもありました。若いマリアは気にしていなかったかも知れませんが、三か月の滞在によって安定期に入って105kmの移動も守られたことでしょう。信じる者の幸いです。

昔も今も人々が求めることは一緒で、それは幸いとなることです。この世の常識では幸いへの道は、権力を得て、富める者となることと思われています。そのために自分を高くしようとしますので、結果として主を小さくし、思い上がります。しかし主はそのような者は引き降ろし、追い散らすと宣言されます。

それは聖書が一貫して言っていることであり歴史が証明しています。しかし人々は主の言葉には従わず、自分の考えに従って生きることによって同じ間違いをずっと繰り返してしまいます。そのような私たちのために救い主イエス・キリストがクリスマスにこの世にお生まれになられました。

それは行いではなく、十字架による罪の贖いによって、信じる者を幸いとするためです。主イエスを信じる者はその信仰によって幸いな者とされます。幸いな者とは信じる者です。幸いな者の生き方は、聖霊に満たされ、自分を低くし、主を崇め、大きくします。

主はそのような者を高く上げ、良い物で満たし、慈しみを忘れず、助けてくださいます。この良い循環はずっと繰り返されて幸いは続きます。私たちを幸いな者とするために主イエスはクリスマスにこの世に来られました。聖霊の働きによって主イエスを信じ、幸いな者とさせていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。聖霊に満たされ主の言葉を信じるマリアは幸いと言われたことに対して、マリアは主を崇め、大きくし、自分を低くしました。それによってマリアは幸いの道を歩み続けたことでしょう。私たちも同じ歩みをするために救い主イエス・キリストがクリスマスにこの世に来てくださいました。聖霊の働きによって主イエスを信じ、私たちを幸いな者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン