「飼い葉桶に寝る救い主」

2022年12月25日 礼拝説教 
ルカによる福音書 2章1~7節

     

メリークリスマス。30年位前にロンドンの日本語学校で、アルバイトで日本語の教師をしていました。私が「あなたは何人(なにじん)ですか」と質問をして、「私はイギリス人です」という答えを想定していました。しかし「私はイギリス人です」という答えをする人は1人もいませんでした。

「私はスコットランド人です」、「私はウェールズ人です」といった答えで、イギリスは4つの国からなる連合王国であることを改めて教えられました。今回のワールドカップでもイギリスはイングランドとウェールズと1つの国から2つのチームが出場するのは何か少しずるいような気もしますが、イギリスが連合王国であることを考えると仕方のない気もします。

しかし「私はスコットランド人です」という人の中には、何代も前の先祖がスコットランドの出身で、自分は1度もスコットランドに住んだことがない人もいるようで、それでもスコットランド人であると言うのは何か聖書的な感じもしました。

1、住民登録

エリサベトが無事にバプテスマのヨハネを出産して少し経った頃に、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出ました。アウグストゥスはローマ帝国の初代の皇帝です。英語で8月のオーガストのスペルを覚えるのに、アウグストと言って覚えた方も多いと思います。

8月のオーガストの名前は、このアウグストゥスが自分の名前を8月の月の名前に付けたことによります。支配者が住民登録をさせる目的は、税金を集めたり、兵隊を徴兵する等の管理・支配する目的で行われました。現代では国勢調査が行われ、また今はマイ・ナンバー・カードが作られています。

この時の住民登録は皇帝の住民管理の目的のためですが、全ては神の計画の実現のために用いられることになります。キリ二ウスはローマ帝国の元老院議員ですが、これはそのキリ二ウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録でした。

皇帝や総督の実名や、住民登録という具体的な歴史的な出来事が書かれているのは、主イエスの誕生は単なる物語ではなくて、現実の歴史の中で起こった出来事であることを表しています。

人々は皆、登録をするために、それぞれ自分の町へ旅立ちました。マリアの婚約者ヨセフもダビデの家系であり、またその血筋でした。ダビデはこの時より千年位前のイスラエルの王様です。それでもダビデの家系とするのはユダヤ人は本当に家系を大切にする民族だと思わされます。

ヨセフはいいなずけのマリアと一緒に登録するために、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデが生まれた町へ上って行きました。これはミカ5:1の、「ベツレヘムからイスラエルを治める者が出る」という預言の成就のためです。

またダビデの名前が二回出て来て強調されます。それは救い主はダビデの家系から生まれるという、サムエル記下7:16のナタンの預言の成就であることを表しています。ところでマリアは身重になっていました。ナザレからベツレヘムは百キロ以上の道のりです。

今回の道は、マリアが前回にエリサベトを訪ねた時に歩いた道とほぼ同じだと思われますので、道に馴染みはあるとは思いますが、今回は身重ですので前回とは比べ物にならない程に大変だったと思います。ヨセフはなぜ身重のマリアを連れて行ったのでしょうか。

この当時は恐らく登録する本人が来なければならないようなルールで、代理による登録は出来なかったと思われます。マリアとヨセフはまだ結婚をする前です。結婚の前に妊娠をするようなことになれば石打の刑になります。当時の人々の服は現代の服とは違ってゆったりとしている一枚の生地の服です。それで恐らくマリアの妊娠はそれ程には目立たなかったと思われます。しかし流石に臨月となれば気付かれるでしょう。

初めての出産は何も変わったことがなくても、ただでさえ大変なことです。もしもマリアがナザレに残って、結婚の前に妊娠したと噂話をされたり、白い目で見られて色々と言われたら大きな精神的な負担です。マリアとヨセフはベツレヘムに行くことは1:54にある、主の慈しみによる助けであると思ったことでしょう。

神はマリアに慈しみを忘れずに、ベツレヘムに行くという逃れ道を備えられ、ナザレの人々の目から助けられました。旅の困難は予想されますが、マリアとヨセフは神の慈しみを信じて出発しました。

2、飼い葉桶に寝る救い主

ところが。彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて、初子の男子を天使ガブリエルの預言の通りに産みました。そして産着にくるんで飼い葉桶に寝かせました。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからです。昨晩、ある方から産着とはどのような物なのだろうかと問われました。

産着といっても、現代の様に人の体の形をした着物ではなかったようです。大人でも一枚の生地を被るような簡単な作りの服でしたので、ただ1枚の布で包む、おくるみだったようです。飼い葉桶というと、日本では桶というと木作りの木製をイメージしますが、イスラエルに行かれた方は石造りの飼い葉桶を見られたと思います。

そしてこの場所は家畜を飼う洞穴であったと考えられています。これはマリアが身重だったので、ベツレヘムへの到着が他の人たちよりも遅れてしまったために、宿屋が満室になっていたためとも思われます。しかしヨセフは先祖の町に帰るのですから、頼もうと思えば親戚等に宿を頼めたのかも知れません。

ユダヤ人は旅人をもてなすことを美徳とします。しかしヨセフはマリアが結婚の前に妊娠していることを、親戚にあれこれと根掘り葉掘り聞かれて、詮索されることを避けたのかも知れません。聖霊によって身ごもっている等ということは到底、受け入れてもらえる話ではありません。

結婚前の妊娠に気付かれれば大事に発展しかねません。そのようなことになる位なら二人きりで洞穴の方がましだと思ったのかも知れません。洞穴は物質的には恵まれていませんが、ヨセフとマリアの2人にとって、誰の目も気にせずにいられたのは慰めであったことでしょう。

ただ外国には現代でも洞穴に住む人たちがいます。洞穴の利点としては夏には涼しく、冬には暖かいということはあるようです。主イエスが飼い葉桶に寝かせられたことはとても象徴的で、3つのことを表しているように思います。

1つ目は、飼い葉桶は食べ物を入れるものであることです。主イエスは人々の罪を贖う生贄の小羊として献げられます。飼い葉桶に寝かされることは小羊として屠られることを象徴しています。

今日の舞台であるベツレヘムは、ベツ(家)+レヘム(パン)で、パンの家という意味です。主イエスはパンの家であるベツレヘムでお生まれになられました。そしてヨハネ6:48で、「私は命のパンである」と言われた通りに、人々に永遠の命を与えられるパンとなられます。

2つ目は、飼い葉桶に寝かせられることは、主イエスは1:52にあるように、低い者としてこの世に来られました。救い主は預言者ナタンの預言の通りにダビデの子孫から生まれます。そこから人々は救い主はダビデ王のような権力を持った王宮のような家庭に生まれることを期待していました。

しかしダビデも元々はベツレヘムの羊飼いの家に生まれました。これは神の知恵です。このことは主イエスご自身が後に、13:19で説明される「からし種のたとえ」の通りです。からし種はとても小さな粒で人の目には見過ごされてしまうような取るに足らない存在です。

しかしからし種は成長すると大きな木になってその枝には空の鳥が巣を作るようになります。からし種と同じように主イエスは飼い葉桶に寝かせられる最も小さな姿でこの世に来られました。その姿は人々には見下げられ、見過ごされてしまうような存在です。人々が期待したダビデ王とは全く違う姿です。

それはマリアや、この後の8節に出て来る羊飼い等、自分を低くする、神の国に相応しい者だけに救い主であることに気付かせて救うためです。それは一方で1:51~53にあるように、「思い上がる者を追い散らし 権力ある者をその座から引き降ろし 富める者を何も持たせずに追い払う」ためです。

思い上がる者はそのままの状態では神の国に入るのに相応しくありません。そこで思い上がる者には救い主であることに気付かれないために主イエスは飼い葉桶に寝かせられました。飼い葉桶に寝かせられた主イエスを救い主として受け入れられるか否かが神に国に入り永遠の命を得ることが出来るかどうかの分かれ道になります。

3つ目は、宿屋が象徴するこの世、また人間の心は、救い主を受け入れる所が無いことを象徴します。ユダヤ人にとっては救い主が王宮ではなくて、飼い葉桶に寝かせられていたことは大きな躓きでした。このことはこの後もずっと続いて行くことになります。

ユダヤ人は主イエスの弟子たちも含めて、主イエスが救い主であれば、いつかは立ち上がってダビデ王のようにローマの支配から解放してくれると思っていましたし、まさか十字架刑で殺されるようなことは無いと思っていました。

しかし現代人にとっては、救い主が飼い葉桶に寝かせられていて、十字架刑で殺されても、それ程の躓きであるとは思いません。それよりも現代人にとってキリスト教で躓きとなるのは、マリアが処女懐胎したことでしょうか。

しかし生物の中で受精無しでは生殖しないは哺乳類だけで、七面鳥は受精無しで卵がうかします。ミツバチ、スズメバチ、アリ、アブラムシ等も受精無しで繁殖しますし、その他にもヘビ、鳥、サメ等でも単為生殖の例があるそうですので、それ程に不思議なことではいような気もします。

それよりも躓きとなるのは神がおられるということ自体でしょうか。人間の理性で神が存在されることの全てを理解しようとするのは難しい部分はあると思います。しかしもし神がおられないのであれば、なぜ人間のような高等生物が存在するのか等、説明出来ないことが沢山あります。

2千年前の当時の人々と現代の人々を比べると面白いことがあります。2千年前の人たちは神がおられるのは当然と思っていて、マリアの処女懐胎も全能の神によれば当然のことと思っています。しかし救い主が飼い葉桶に寝かせられていたり、十字架刑で殺されることは受け入れることが出来ません。

しかし現代人は2千年前の人々とは全く逆で、救い主が飼い葉桶に寝かせられていたり、十字架刑で殺されても特に気にはしません。しかし、神がおられることやマリアの処女懐胎に躓いてしまいます。結局、人間は時代によって常識の内容は変わりますが、自分の理解を超えることを受け入れることが出来ません。

人間の理性では、この世の全てを理解することは不可能です。しかしそれは神の知恵によるものです。コリントの信徒への手紙一 1:21に、「世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかった」とある通りです。そして、「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。」

神は人間の常識では理解出来ないことを、聖霊の働きによって信じる者を救われることとされました。それは、自分の考えで思い上がる者を追い散らし救いに与らせず、低い者を高く上げ救いに与らせるためです。そのための試金石が当時は飼い葉桶に寝る救い主でした。現代では、マリアの処女懐胎によってお生まれになられた救い主イエスです。

主イエスは当時の人々も現代の人々も全ての人を救われるためにクリスマスにこの世にお生まれになられました。救いに与ることは単純なことです。思い上がって自分の理解を絶対とするのではなくて、謙って自分を低くし、聖霊の働きによって示されることを受け入れて信じるだけです。主イエスを自分が信じて受け入れるのが本当のクリスマスです。本当のクリスマスをお迎えいたしましょう。

3、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。クリスマスの今日、救い主イエス・キリストはこの世にお生まれになられ、飼い葉桶に寝かされました。ユダヤ人はそのことに躓き、現代人はマリアの処女懐胎に躓きます。しかしそれは高ぶり思い上がる者を追い散らす神の知恵です。

聖霊の働きの中で私たちが謙り自分を低くして、人知を超えた神の恵みであり、救い主がこの世に来られたクリスマスを私たちが心から受け入れることが出来ますように、お導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン