「神は共におられる」

2022年12月4日礼拝説教 
マタイによる福音書1章18~25節                                                 野田栄美

  • 神と共に

 今日は、クリスマスを待ち望むアドベントの第2週です。クランツのろうそくに2つ火が灯りました。神の御子である主イエスがお生まれになった日を待ち望みつつ、今日も御言葉からメッセージを聞かせていただきましょう。

 クリスチャンとはどのような人ですかと聞かれたら、皆さんはなんと答えるでしょうか。この問いには、いくつもの答えがあります。主イエスを信じている人、永遠の命をいただいている人などです。今日、聖書からお話したいのは、「神と共にいる人たち」だということです。旧約聖書に出てくるモーセという人は、出エジプト記33:15,16で、神にこう祈りを捧げました。「あなた自身が共に歩んでくださらないのなら、私たちをここから上らせないでください」。神が一緒にいてくださらないのならが、自分が願っていることが叶っても何も意味がないと告白しています。このモーセのように、クリスチャンとは、何よりも神と一緒にいることを願う人たちです。

  • 正しい人

 さて、今日お読みした聖書に登場するヨセフは、妻であり、主イエスの母であるマリアに比べて登場回数が少ない人物です。その中でも、主イエスやマリアではなく、ヨセフだけに焦点を当てた場面は、今日お読みした聖書箇所だけです。彼が神が共におられることを目の当たりにした場面です。

 ヨセフは、19節に「正しい人であった」と言われています。この「正しい人」という表現は、他に3人の人にも使われている表現です。まず、バプテスマのヨハネの両親であるザカリアとエリサベトです。ルカ1:6には、「二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していた」とあります。表面的に見れば、神の戒めを守っていると言う点では、パリサイ派の人々も落ち度はありませんでした。けれども、彼らは人々に見せるために、また、自分の正しさを示すためにそれらを行っていました。それは、神の前に落ち度なく戒めを守っていると言うこととは違います。「落度なく」とは、形だけではなく心からということです。二人は心から神を信じ、真心から神が命じられたことを守っていました。

もう一人の人物は、シメオンです。救い主を見ることを待ち望み、年老いるまで救い主を神殿で待ち続けた人です。ルカ2:25には、「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」とあります。彼も心から神を信じていました。彼は、自分のためではなく、民族全体の救いを願っていました。そして、彼に聖霊がとどまることができたのは、彼が、神を心から愛していた証拠です。

 この三人と同じように、ヨセフも「正しい人」と言われました。それは、神を心から愛し、主の戒めと定めを落ち度なく守って生活し、イスラエルに救いが与えられるのを待ち望み、聖霊と共に歩んでいる人であったということです。この時代のユダヤ民族の心は神から離れていました。その中で、ヨセフやこの三人は、神と共にいることを願う、宝のような人たちでした。

  • 婚約

この正しい人、ヨセフは、きっと神に祝福されて、幸せな人生を歩むのだろうと誰もが思っていたと思います。私たちも、この人は本当にいい人だなあと思う人には、やはり幸せな人生を歩んでほしいと思います。

 そのヨセフに嬉しいことが起こりました。人生を共に歩みたいと思う、神を大切にする女性との出会いです。その女性も彼と共に歩むことを願いました。それがマリアです。二人は喜びの中、婚約の誓約を交わしました。人生の中で、幸せを一番感じる時ともいえるでしょう。彼らは、共に始める結婚生活を楽しみに待ちながら、その準備の時を過ごしていました。

けれども、この幸せな時に、大きな危機が訪れました。それは、ヨセフが1ミリも疑うことのなかったできごとでした。婚約者マリアの妊娠です。彼が感じたことはなんだったでしょうか。心から信じていた婚約者に裏切られた。これは、私たちが想像しただけでも、人として非常に辛いことだろうと感じるできごとです。それに加えて、神の前に正しく歩む人としての苦しみも重なりました。

当時のユダヤの婚約は、法律上の夫婦となることでした。18節には「母マリアはヨセフと婚約していた」とあります。当時のユダヤ人は、結婚する一年ほど前に婚約しました。今で言えば、籍を入れることです。けれども、まだ、結婚生活は始めません。生活は別のまま1年を過ごし、1年後に結婚式を挙げ、ようやく共同生活を始めます。

ユダヤにおいては、この婚約した状態にある女性が、他の男性と不貞を犯した場合、申命記22:22~に死刑となると書かれています。ヨセフが取るべき対処方法の一つは、マリアの不貞を公にし、皆の前で神の律法において裁くことでした。そして、それは、婚約者に裏切られた者として、正しい対処方法でもありました。そして、神の律法を守ることでもありました。

  • ヨセフの決断

私たちは、予想もしていなかった苦しみに会ったとき、どのような思いになるでしょうか。「こんなことが起こるなんて、神なんているのか」と神を否定したくなるかもしれません。裏切った相手を痛めつけたい衝動に駆られるかもしれません。それが、人間ではないでしょうか。ヨセフも人ですから、そのような感情がなかったはずがありません。

 

けれども、19節には、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した」とあります。彼は、マリアをなるべく傷つけることなく、けれども、神の律法を守る形で、対処しようと考えました。彼は、自分の感情よりも、自分の立場よりも、マリアを大切にすることを選びました。また、それほど大切なマリアよりも神を大切にしました。彼は、神の律法を守る中で、マリアに最善のことをしようとしました。

  • 神の語り掛け

 その決心を神はご覧になりました。

神は天使をヨセフの夢の中に遣わされ、語りかけてくださいました。「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい」(20節) なんと優しい語りかけでしょうか。「ダビデの子」と語りかけられたのは、ヨセフがダビデの家系であることを示すためです。これは、救い主が生まれる家系であることを思い出しなさいということです。そして、「恐れず」と声を掛けられました。口語訳では「心配しないで」と書かれています。大丈夫だ、何も心配ない。大切なマリアを失わなくてもよい。そう、語りかけられた神は、更に、何が起こっているのかを教えてくださいました。

  • 「マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである」; マリアに起こっていることは、神の霊である聖霊がなさったことだと言われました。
  • 「マリアは男の子を産む」; この時代、出産前に赤ちゃんの性別が分かるはずもありません。これは、神だからこそ示すことができる事実でした。
  • 「その子をイエスと名付けなさい」; イエスとは、「神は救い」という意味です。神の救いの時がいよいよこの地上に訪れた証しです。そして、その名をつける権利をヨセフに手渡してくださいました。名を付ける権利とは、法的な父親になることです。
  • 「この子は、自分の民を罪から救うからである」; その名の通り、マリアに宿った子はご自分を信じる人たちを罪から救ってくださる救い主であるとの宣言です。
  • 神の言葉に従う人

この夢の中で、神が語りかけてくださるまでは、ヨセフは抜け出すことのできない苦しみの中に閉じ込められたような思いでした。けれども、主の天使が語った神の言葉によって、彼は救い出されました。神は、ヨセフを大切に思っておられました。彼が苦しみの中にあることを知っておられました。そして、その神が、マリアに起こったことを解き明かし、その子が背負われた大きな使命を明らかにされました。その上で、ヨセフにその子の父親になるようにと言ってくださいました。

ヨセフは、神の尊い預言の成就が、今、目の前で起きていること、そして、その中に自分がおかれていることに気が付きました。この思い掛けない苦しみは、神のご計画のためであったと。それを知っても、起きていることは、何も変わりません。けれども、24節には、「ヨセフは目覚めて起きると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた」とあります。彼は、その言葉に従いました。

これは、彼と共に神がいてくださったからできたことです。

  •  神が共におられる約束

人生の危機は、思い掛けない時に訪れます。それは、ヨセフのように神を信じている人にも起きてくることです。クリスチャンになると、神がよいことばかり起こしてくださるのではないですかと、思われる方もいらっしゃるかもしれません。そうではありません。この世では、やはり苦しみに遭います。教会の中には痛みの中にある方も、悲しみの中にある方もおられます。

それでも、クリスチャンがヨセフのように、神を信じる信仰に立ち続けていられるのはなぜでしょうか。そして、神のみ言葉に従うことができるのはどうしてでしょうか。それは、神が私たちと共にいてくださるからです。祈りの答えを見せていただく。ぴったりの聖書のみ言葉が思い出される。教会で慰めをいただく。ヨセフに起こったできごとのように、私たちの苦しみや悲しみの中にも、必ず神は居てくださいます。そして、大きな神のご計画の中で私たちを導いておられます。

23節には「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。これは、『神は私たちと共におられる』という意味である」とあります。今、あなたは痛みの中を通っておられるでしょうか。悲しみの中にいらっしゃるでしょうか。そのような時には、ヨセフのことのできごとを思い出してください。どんな時も、「神は私たちと共におられる」という名前を持っておられる主イエスがおられます。クリスマスは、神があなたと共にいてくださるという約束の日です。