「聞き入れられた祈り」

2022年11月27日 礼拝説教  
ルカによる福音書 1章5~25節

     

主の御名を賛美します。今日から主イエスがご降誕されたクリスマスを待ち望むアドベント(待降節)に入りました。過去の4年のアドベントは福音書からの説教ではありませんでした。それは福音書のアドベントの個所は1通り説教を既に終えたことと、聖書のすべては主イエスを証しするものですので、どの聖書の箇所からでも良いかという思いからでした。

しかし聖書はすべて、ある意味でVSOP、Very Special One pattern ですので、同じ個所から同じストリーを繰り返しても良いのかとも思い、今年度の70周年で過去を振り返る意味でも、以前と同じ聖書箇所でも良いと思いました。

1、しるし

アドベントといいますとルカによる福音書では、主イエスの誕生に先立つバプテスマのヨハネの懐妊の預言の記事から始まります。このことには、どのような意味があるのでしょうか。これは旧約聖書のパターンを引き継いでいます。

これは創世記18章の高齢のアブラハムへのイサクの誕生の預言、士師記13章のマノアと妻へのサムソンの誕生の預言と良く似ています。旧約からの同じパターンの不妊の高齢者が出産することによって、これが同じ神の御業であることを表しています。

では同じような高齢者の懐妊の奇跡は現代でも起こることなのでしょうか。恐らくはほとんど起こらないと思います。それはこの当時は、旧約聖書時代からの繋がりで、これは神の御業であるとはっきりと示すために、このような奇跡が必要だったからです。 

しかしヨハネ19:26、27で、主イエスは母マリアに弟子のヨハネを、「あなたの子です」言い、弟子のヨハネに母マリアを、「あなたの母です」と言い、信仰による神の家族が強調される時代となりました。その意味では、高齢者の出産の奇跡が起こらない状況になっていると考えられます。

また旧約時代には出エジプト記14:21で、エジプトを脱出したイスラエルは海水が退いて乾いた紅海の海底を歩いて渡りました。同じ様にヨシュア記3:16では、ヨルダン川がせき止められて、イスラエルはヨルダン川を渡りました。このような奇跡も現代には恐らく起こらないと思います。

例えば東京湾の海水が左右に分かれて東京湾を千葉から神奈川に渡れたら凄いとは思います。しかしそのようなことをしなくても、現代ではアクアラインを使えば東京湾を簡単に渡れますので、東京湾の海水を分ける必要はありません。

主イエスはマタイ16:4で、「邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と言われています。神は現代でも御業を行なわれますが、それはその時代に合った方法で、その人に神の御業と分かる方法で行ってくださいます。

2、ザカリア

祭司ザカリアの名前の意味は、「主は覚えてくださる」で、妻エリサベトの意味は、「神は(私の)誓い」という良い意味です。二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していました。しかしそれは二人が完璧な人ということではありません。

それは律法学者のように戒めと定めとを形式的に守るのではなくて、心から神に従順であったということです。しかし二人には子がなく、恐らく以前は子が与えられることを祈っていたでしょうが、二人ともすでに年を取っていたので、もう諦めて子のための祈りも止めていたことでしょう。

主の聖所で毎日、朝と夕に香をたく当番の祭司は、慣例によってくじで決められていました。ただ祭司は約2万人いたと考えられていますので、香をたくことは一生に一度あるかないかの光栄な機会です。

香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていました。香をたくことは聖書では祈りを象徴します。香の煙が天に上って行くように、祈りが天に届くようにとの願いが込められています。民衆の祈りは、当時のユダヤを支配していたローマからの解放を齎す救い主の到来と香をたく奉仕を担っている祭司ザカリアのための祈りだったでしょうか。

民衆の祈りに応えるように主の天使が現れましたが、ザカリアは天使を見てうろたえ、恐怖に襲われました。人間は自分の常識を超えることに対して恐怖を覚えるものであり、ましてや天使は恐れ多い存在です。

恐れるザカリアに天使は、「恐れることはない。ザカリア」と名前を呼びます。このことはザカリアの名前の意味通りに、「主はあなたを覚えておられる」ことなのだと言います。そしてあなたの祈りは聞き入れられたと宣言します。あなたの祈りとは子を願ったこととユダヤの救いの祈りでしょう。

ザカリアは以前は子のための祈りをしていたけれど、もうしなくなっていたことでしょう。祈りに対する応え人間の時ではなく、神の時に叶えられます。天使は、「あなたの妻エリザベトは男の子を産む。」と預言し、産まれることを既成事実として、「その子をヨハネと名付けなさい。」と命じます。

3、ヨハネ

ヨハネは「主は恵み深い」という意味で、名付けることは大切なことです。ヨハネはザカリアにとって喜びとなり、楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。どのようにして皆が喜ぶのでしょうか。ヨハネが主の前に偉大な人になるからです。主の前に偉大な人とはどのような人のことでしょうか。3つの特徴が挙げられます。

1つ目に、ぶどう酒も麦の酒も飲みません。これは民数記6章にある、主に献身する聖別されたナジル人として生きることです。2つ目に霊的には、すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされています。15、16節と17節は平行法で同じ内容で繰り返していて、それは、旧約の預言者エリヤのように、エリヤの霊と力で主に先立って行きます。

3つ目の役割は、イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせます。それは父の心を子に向けさせます。ぶどう酒や麦の酒を飲んで子どもを顧みないのではなく、子どもを顧みて家庭を大切にさせます。また逆らう者に正しい人の思いを抱かせて、整えられた民を主のために備えます。主の前に偉大な人とは、自分が何かになるのではなくて、整えられた民を主のために備える人です。

4、ガブリエル

ザカリアは余りにもスケールの大きな壮大な話に驚いたというよりも、一番初めの、あなたの妻エリサベトは男の子を産むというところで、既に躓いていました。「どうして、それが分かるでしょう」と天使に言いました。ここは原語を直訳すると、「何によって私はこれを知るか」です。Ⅰコリント1:22にあるように、ユダヤ人はしるしを求めます。

ザカリアは言い訳をするように、「私は老人ですし、妻も年を取っています。」と言います。ザカリアの言うことは常識から考えて最もなことです。しかしそれは神が全知全能であり、「神にできないことは何一つない」(37節)ことを信じない不信仰です。

天使はザカリアの言ったことの一つ一つに丁寧に対応して答えます。ザカリアの「私は老人です」に対して、だから何だと言わんばかりに、天使は「私はガブリエル」と言います。ガブリエルは、「神は力強い」という意味です。老人とガブリエル(神は力強い)の対決では、ガブリエルの勝ちでしょう。

ザカリアの「妻も年を取っています」に対しては、ガブリエルは「私は神の前に立つ者」です。神の前に立つ者にとって、妻も年を取っていること等は関係ありません。神の前に立つガブリエルはザカリアに語りかけ、この喜ばしい知らせ(福音)を伝えるために遣わされました。

ザカリアの「どうして、それが分かるでしょう」という、しるしの求めに対する応えは、「あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。」です。口が利けなくなることの第一の意味は、ザカリア自身が求めた約束のしるしです。

しかし、ガブリエルが「時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである」とも言っていますので、このしるしには不信仰に対するペナルティ的な教育的指導の意味もあったようです。しかし口が利けなくなるのは、これ以上にザカリアに不信仰なことを言わせない意味もあったのかも知れません。

ザカリアは口が利けなくなっただけではなくて、62節によると耳も聞こえなくなったようです。これは天使ガブリエルの言葉を聞かなかったからかも知れません。いずれにせよ、口も耳も利けなくなること自体はザカリアが求めていたことではなかったとは思いますが、思わぬかたちで自分が求めたしるしが与えられることになりました。

ザカリアはこれからの十月十日、沈黙の世界で、このことを思い巡らす時が与えられました。民衆はザカリアを待っていました。それは香をたいた後に、最後に祭司から祝祷を受けることを待っていたのかも知れません。

ザカリアはやっと出て来ましたが、ものが言えなくなっていました。それについて人々は、ダニエル書10:15で、ダニエルが口が利けなくなった記事に気付いたのでしょう。人々はザカリアが聖所で幻を見たのだと悟りました。ザカリアはガブリエルの預言通りに、身振りで示すだけで、口が利けないままでした。

5、聞き入れられた祈り

やがてザカリアの祭司の務めの期間が終わって自分の家に帰った後に、妻エリサベトは預言通りに身ごもりました。しかし五か月の間は身を隠していました。五か月というのは安定期に入るまでということでしょうか。安定期に入るまでは慎重に静まっていたとも思われます。

もしかすると夫のザカリアが余計なことを言って、口も耳も利けなくなってしまったこともあったので、夫婦で静まって思いを巡らしていたのかも知れません。夫婦の昔に祈った祈りは、自分たちの思いとは違った時に、違ったかたちで聞き入れられることとなりました。

私たちもザカリアとエリサベツのように自分の願いを祈ります。そもそもなぜ私たちは祈るのでしょうか。もしも自分の力だけで出来ることであれば、(本当は何も出来ませんが、) 祈るまでもなく自分でやれば良いことです。しかし祈るということは、そこに神が介入されて、自分の思いではなくて、神の御心がなって祝福されることを求めることです。

しかし神は、「私の思いは、あなたがたの思いとは異なる」(イザヤ55:8)と言われます。神の恵みは私たちの理解を越えて、深く、広く、大きいので、私たちには計り知れず、時に受け入れ難いということがあります。しかし神に祈るということは、神にすべてを委ねることです。

自分の思い通りになるようにと祈ることは、神を自分の下に置いて神を利用しようとすることで、本当の祈りではありません。私たちの祈りは主イエスが主の祈りの中で教えてくださったように、「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と、神の御心がなるように祈るものです。

信仰によって神に祈った祈りの応えは、例えそれがどんなものであって、自分の理解を超えたものであっても、信仰によって受け入れるより他はありません。神が祈りを聞き入れられた後になって、ザカリアのように、「どうして、それが分かるでしょう」と言うならば、ザカリアのようなしるしが与えられるかも知れません。

私たちの祈りの応えを私たちが受け入れ易いように、聖霊が働いてくださいます。聖霊の働きによって祈りの応えを素直に受け入れるなら、それは自分の喜びと楽しみとなり、多くの人の喜びとなります。主イエスにご降誕に先立つバプテスマのヨハネの誕生は、ユダヤの救いを求めるすべて人々の祈りの応えであり、ザカリアとエリサベツの祈りの応えでした。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ザカリアとエリサベツの祈りは二人の思いとはかけ離れた時に応えられたのでザカリアは恐れ、戸惑いました。しかしそれは多くの人にとっても喜びでした。

私たちの思いとは異なる全能の神が、私たちの祈りに対して応えてくださるときに、聖霊の力によって私たちが素直に受け入れ、喜び楽しめますようにお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン