「友好の言葉」

2022年2月13日説教  
申命記 2章24~37節
        
主の御名を賛美します。毎日の生活をしている中で、自分の心がかたくなになりつつあるとか、強情になりつつあると感じることもあります。また他の人がその様な状態にあるのを見ることがあります。そのまま進んで行けば神の裁きかどうかは分かりませんが、周りの人との人間関係が壊れてしまうのではないかと感じることがあります。

他の人がその様な時に何かを助言をしたいと思いつつも、その人が自分より年長であったり、目上である場合にはとても難しいものです。例え何かを助言をしたとしても何を生意気なことを言っているのかと思われてその人との関係が悪くなるだけで、何も良いことは無いと思われるからです。その様な時にはどうしたら良いのでしょうか。御言を聴かせていただきましょう。

1、7つの命令と5つの約束
イスラエルの人々はヨルダン川の東側を通って来て、主が巨人である先住民族を滅ぼして、兄エサウの子孫と親戚であるロトの子孫であるモアブ人も領地を得て住んでいる姿を実際に見て来ました。次はイスラエルが同じことをする番です。

今日の個所はストーリーとしては19節の続きですので、モアブ領アルを通り、アンモン人の地にこれから近づくところです。そこで主はモーセに告げられますが、主はモーセとイスラエルの人々が受け入れ易いように、命令と約束を交互に繰り返して、幼子を諭すようにイスラエルを励まします。

初めは命令です。「立ち上がって出発しなさい。」 私たちは人生の新しいステージに向かう時には、立ち上がって出発する必要があります。そしてアルノン川を渡りなさい。アルノン川(地図4)は死海の真中辺りに東から注ぐ川で、イスラエルの親戚のモアブ人とカナンの先住民のアモリ人の国境になっていました。

川が象徴する水によってきよめられ新しいステージに向かいます。そして「見よ」の命令です。初めの命令は4つあって、①立ち上がれ、②出発せよ、③渡れ、④見よ、です。

次は4つの命令に伴なう約束です。「私はヘシュボンの王、アモリ人シホンとその地をあなたの手に渡す。」 ヘシュボンは死海の一番北の辺りから東に約30キロの所にある町です。アモリ人も背の高い先住民族ですが、主はそのアモリ人シホンとその地をあなたの手に渡すと約束されます。

だから次の命令として、「占領を開始せよ。彼との戦いに挑め。」と命令します。二つ目の命令は3つで、⑤占領せよ、⑥開始せよ、⑦戦いに挑めで、初めの4つの命令と合わせて7つの命令です。そして次の約束として、「今日私は天の下のすべての民があなたにおびえ、怖れを抱くようにする。彼らはあなたの噂を聞いて震え、あなたのためにおののこう。」です。

約束は5つで、24節の①あなたの手に渡すと、25節の②あなたにおびえ、③怖れを抱く、④震え、⑤おののくで、合わせて5つの約束です。7つの命令には5つの約束が伴います。これは現代を生きるクリスチャンへの7つの命令と5つの約束でもあります。

2、友好の言葉

「あなたの土地を通らせてください。右にも左にもそれず、道を進みます。食べ物は銀で買って食べますし、水も銀で買って飲みます。歩いて通るだけです。セイルに住むエサウの子孫やアルに住むモアブ人が私にしてくれたように、ヨルダン川を渡り、私たちの神、主がわたしたちに与えてくださる地へ私たちを行かせてください。」

確かにその内容は、主から6節でエサウの子孫に対して言われた内容、9節でモアブ人について言われた通りです。これには疑問を感じます。主はモーセに、「占領を開始せよ。彼との戦いに挑め。」と命じられたのに、なぜモーセは占領を開始するのではなくて、友好の言葉を伝えたのでしょうか。

三つの理由が考えられます。一つ目はこれまで、エサウの子孫とモアブ人に対してその様に言って上手く行った成功体験があったので、取り敢えず事を荒立てずに同じようにしておこうと思ったのかも知れません。

二つ目はモーセはヘシュボンを約束の地であると思っていなかったのかも知れません。この後のアンモン人の地も単なる通過の地点なので同じだと思っていて、エサウの子孫とモアブ人の土地と同じように友好的に通らせてもらおうと思って同じように言ったとも考えられます。

三つ目の理由ですが、友好の言葉は原語ではシャロームの言葉と書かれています。シャロームは神が共におられる平和です。申命記のヘブル語の題名は、「言葉」であり、言葉がキーワードです。神を信じて神と共に歩むシャロームに生きる人は、どんな時でもシャローム、友好の言葉を使います。

人はちょっとした言葉使いに引っ掛かって気分を害したりして、トラブルに発展し易いものです。しかし逆に友好の言葉を使うことによって気分を害する人は基本的にはいません。例え自分が不愉快に思う時でも、聖霊の導きを求めていつでも神が共におられる友好の言葉を使うことによってトラブルを避けることが出来ます。

私たち人間の側ではどんな時にも友好の言葉を使って、出来得る限り平和を保つようにしてトラブルを避けて、その先のことは神に委ねるのが信仰者の歩みです。

3、心のかたくなさと強情
モーセは友好の言葉を伝えましたが、ヘシュボンの王シホンは、イスラエルが領内を通るのを許しませんでした。その理由は、あなたの神、主が王の心をかたくなにし、強情にしたからです。それで彼は今日、イスラエルの手に渡されます。

ただ心の優しいクリスチャンは引っ掛かる言葉かも知れません。全能の神によって心をかたくなにされ、強情にされて、敵の手に渡されるシホンは可哀想ではないか。全能の神に心をかたくなにされるのであればシホンとしてはどうしようもないのではないかと思うかも知れません。確かにそうです。
この様なことは聖書の他の箇所にも出て来ます。出エジプト記でもエジプトの王ファラオも神によって心をかたくなにされて10の災いをくだされます。シホンやファラオが良い人で、突然に神に心をかたくなにされるのであれば、確かにそれは理不尽です。

しかし問題はなぜシホンやファラオの心を神がかたくなにし、強情にしたのかです。ファラオは神の民イスラエルを虐待していました。シホンはロトの子孫であるモアブの土地を奪い取っていました。ファラオやシホンの心を神がかたくなにし、強情にしたのは神の裁きの第一段階です。

心をかたくなにし、強情にすることによってエジプトは10の災いを受け、ヘシュボンは占領されます。心がかたくなになり強情になるとそれはまず言葉に現れます。友好の言葉とは正反対のかたくなな言葉、強情な言葉を口にするようになります。友好の言葉はトラブルを避けますが、かたくなな心は裁きを招きます。

もしも自分の心がかたくなになって来ている、強情になって来ていると感じたら、そこで直ぐに悔い改める必要があります。心のかたくなさと強情は神の裁きの第一段階であり、そのまま進むとさらなる裁きを招くことになり、場合によっては取り返しのつかない破滅を招くことになります。

4、占領
シホンは心をかたくなにし強情に進んで行きます。主はモーセに言われました。「見よ、私はあなたにシホンとその地を与え始める。その地を自分のものとするために占領を開始しなさい。」 しかしそれでも友好の言葉に生きる者は自分から攻撃はしません。

シホンはイスラエルを迎え撃つために、すべての民を率いてヤハツに進軍して来ました。それに対してモーセは、「私たちの神、主は彼、シホンを私たちに渡された」と言い、36節でも同じことを言って強調します。敵を自分たちの手に渡されるのは、あくまでも神、主であって、先週の説教題にありましたように、戦いはすべて主の戦いであり、自分の力で行うことではありません。

主が敵を自分たちの手に渡されたので、イスラエルはシホンとその子らとその民すべてを打ち破りました。その時、イスラエルは町を一つ残らず占領し、男も女も子どもも、町全体を滅ぼし尽くし、一人の生存者も残しませんでした。そのことの霊的な意味は私たち自身の中にある悪い罪を滅ぼし尽くすことです。

王の名前のシホンは「一掃する」という意味ですが、正に一掃されてしまいました。因みにシフォンケーキのシフォンは絹織物のシフォンのように軽いという意味でこのシホンとは関係はありません。

歴史は既に起こってしまったことですので、良く言われるように「もし」ということを考えても仕方の無いことかも知れません。特に、シホンはこの時には主の裁きによって、心をかたくなにされ、強情にされていたので考えても仕方のないことかも知れません。

しかし、もしもシホンがモーセの友好の言葉を受け入れていたら、一掃されるマイナスのことはなかったばかりか、食べ物と水の分の銀を受け取るというプラスを得ることが出来ました。その差は大きな違いです。

現代でも、心をかたくなにし、強情にしたために、自分だけではなく、自分の家族や会社等の組織を含めて全てを失ってしまい、本人も望まない取り返しが付かなくなる結果を招くことが起こります。心のかたくなさや強情を感じる時には、創世記16:8の「あなたはどこへ行こうとしているのか」の御言を心に留めて、御心を求めて慎重に判断したいものです。

また心のかたくなな人、強情な人には、例え何かを言ったとしても結果は何も変わらないかも知れません。しかし私は、自分が嫌われるのは構わないので、伝えておいた方が良いと思うことは良く祈りつつ、お節介にはならないように、しかし後悔の無いように伝えて行きたいと思っています。

クリスチャンは主イエスの十字架によって贖なわれた者であり、主が私たちの中におられます。主にすべてを委ねて心を明け渡し、心を占領していただき、心のかたくなさ、強情を支配していただき、まず自分が友好の言葉に生きるものとさせていただきます。そしていつでも友好の言葉を語り、他の人に友好の言葉を勧めるのが和解の言葉を委ねられたクリスチャンの役割です。

5、家畜と戦利品
イスラエルは町全体を滅ぼし尽くしましたが、この時は、ただ家畜だけは、占領した町の戦利品と共に自分たちのものとしました。しかしこの後の13:16にもありますように、神は家畜と戦利品もすべて滅ぼし尽くして聖絶するように命じられる時もあります。

この違いはどういうことでしょうか。色々なことが考えられますが、この時のイスラエルは食べ物がなく必要としていました。神は必要なものは備えてくださり、それを自分のものとすることを認めてくださいます。

マタイ12:3、4で主イエスは、「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに、祭司のほかには食べてはならない供えのパンを食べた」と言われます。クリスチャンは律法による裁きの言葉に生きるのではなくて、いつも友好の言葉、友好の行いを勧める者です。

アルノン川沿いのアロエルからギルアドまでの川沿いの町で、イスラエルより強い町はありませんでした。ただその理由はイスラエルより強い、弱いという問題ではなくて、33節にもありますように、私たちの神、主はすべてを私たちの手に渡されたからです。

ただし、イスラエルはアンモン人の地、アンモン人はロトの下の娘の子孫ですので、その子孫の地、場所的にはヤボク川沿いの全域と山地の町、また私たちの神、主が禁じられた地には一切近づきませんでした。19節にある主の、親戚との友好の言葉に従順に従いました。

アンモンは現代でも残っています。ただ現代の日本語表記ではアンマンになっています。肉まん・あんまんの、あんまんではなくて、アンマンはヨルダンの首都です。ヨルダンというとイスラム教国ですので遠い存在に感じるかも知れません。しかしクリスチャンは友好の言葉に生きる者です。どの人にも友好の言葉を伝えて、シャローム、主にある平和のために用いていただきましょう。

6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ヘシュボンの王シホンは心をかたくなにし、強情になったために自らの破滅を招いてしまいました。私たちも自己中心的に心をかたくなにし、強情になり易い弱い者です。

聖霊が私たちの心を占領してくださり、私たちがその導きに従い友好の言葉に生きる者とさせてください。そして友好の言葉を伝える者としてお用いください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。