「聖戦」 

2022年2月20日説教申命記 
3章1~11節
        
主の御名を賛美します。オリンピックは今日が最終日でしょうか。いつもきちんとは見ていませんが色々なドラマがあると思います。女子のカーリングチームは練習の成果も当然あると思いますが、上手く行かない時でも明るく励まし合って前向きに良い方向に進んで行く姿は、先週の説教題でもある友好の言葉に生きる姿のように見えます。今朝の御言葉を聴かせていただきましょう。

1、バシャンの王オグ
イスラエルは向きを変え、バシャンに至る道を上って行きました。バシャンは、「なめらかな」という意味と考えられていて、ガリラヤ湖の北東辺りの(地図4)ゴラン高原を中心とする所で、南はガリラヤ湖の直ぐ南にあるヤルムク川から北はヘルモン山までです。

すると、バシャンの王オグは、すべての民を率いてイスラエルを迎え撃ち、ヤルムク川の東にあるエドレイで戦おうとしました。バシャンの王オグはどういう人物かといいますと11節で、レファイム人、巨人の生存者の中で唯一の生き残りでした。

どれ程の巨人かといいますと、彼の寝台は鉄の寝台で、それはアンモン人のラバにあります。ラバは死海の北東にあるアンモンの首都で、現在のヨルダンのアンマンです。寝台は通常のアンマで長さ9アンマ(4m)、幅4アンマ(1.8m)ありました。

ただこれが普通の寝台、ベッドでしたら、私は身長は164cmですが、サラリーマンの時に仕事で海外のホテルに泊まった時には長さも幅も3m位のベッドに寝たこともあります。身長が低くても寝台は大きい贅沢な物であることは考えられます。

しかしここで鉄の寝台と訳されている言葉は石の棺とも考えられています。この地方の石の玄武岩は20%の鉄分を含んでいて色も鉄に似ているので鉄の寝台と訳されているとも考えられます。棺であればベッドと違って不必要に大きい必要はなく、体のサイズに合っているはずです。

ヘシュボンを討ち破ったイスラエルは、いよいよ38年前に自分たちの先祖が恐れた巨人のレファイム人の王オグとその民と戦います。巨人なのは王オグだけで民のアモリ人は背は高いですが巨人という程ではないようですが、ここにも神の配慮がなされています。

神はイスラエルにいきなり巨人の王の国と戦わせるのではなくて、まずは背の高いアモリ人の国ヘシュボンと戦って自信を付けさせてから巨人の王の国と戦わせます。そこで主はモーセに言われました。ここも先週の24、25節と同じでイスラエルが受け入れ易いように命令と約束を交互に繰り返します。

まずは命令で、「彼を恐れてはならない。」 バシャンの王オグが巨人だからといって恐れてはなりません。そして恐れてはならない理由としての約束です。「私は、彼とそのすべての民、その地をあなたの手に渡す。」 聖書で手は力を表します。主が手に渡すということは、自分の自由に出来ることです。
約束の次には命令で、「あなたはヘシュボンに住んでいたアモリ人の王シホンにしたように、彼にもしなさい。」 シホンにしたのだからオグにも出来るということです。女子のバトミントンにオグシオ(小椋・潮田)・コンビがいましたが、ここのオグシホン・コンビは悪者で主に滅ぼされます。

イスラエルの神、主は、バシャンの王オグだけではなく、そのすべてをイスラエルの手に渡されました。すべてをイスラエルの手に渡されたのはあくまで神、主で、主の戦いです。人の働きではありません。その時、イスラエルは主の命令通りにすべての町を占領し、奪い取らなかった町は一つもありませんでした。

奪い取ったのは、バシャンにあるオグの王国、アルゴブ全域にある60の町でした。アルゴブはヤルムク川の北の辺りで、「石の多い地域」という意味と考えられます。そしてこれらはすべて、高い城壁に囲まれ、門とかんぬきを備えた町でした。

かんぬきは門の扉に横木等を通して開かないようにする鍵の役割をするものです。要は守りが強くて、攻略するのが難しい町でしたが、主がイスラエルの手に渡されたので、イスラエルはすべてを奪い取りました。このほかにも城壁のない村落が非常に多数ありました。

こうしてイスラエルは2節の主の命令通りに、ヘシュボンの王シホンにしたようにバシャンを滅ぼし尽くし、町全体を、男も女も子どもも滅ぼし尽くしました。しかしすべての家畜と町で略奪したものは、自分たちのものにしました。イスラエルは食べ物がなかったので必要な物、利用出来る物を自分たちのものにしました。

こうしてイスラエルはその時、アモリ人の2人の王の手から領土を奪い取りました。ヘシュボンの王シホンは2:24にアモリ人と書いてあるので良いのですが、バシャンの王オグはレファイム人なのではないかと思われるかも知れません。オグは人種としてはレファイム人ですが、ここでアモリ人の王というのはアモリ人の国の王という意味のようです。

奪い取った地域は、アルノン川からヘルモン山に至るヨルダン川の向こう岸です。ここでいう、向こう岸は約束の地を中心に考えて東側のことです。それはギルアド全域とバシャン全域です。アルノン川から南はイスラエルの親戚のモアブの地ですので取りません。

2、家畜と戦利品
イスラエルは町全体を滅ぼし尽くしましたが、この時は先週の2:35に続いて、家畜と占領した町の戦利品は自分たちのものとしました。しかしこの後の13:16にもありますように、神は家畜と戦利品も含めてすべて滅ぼし尽くして聖絶するように命じられる時もあります。

この違いはどういうことなのでしょうか。先週も少しお話しましたが、色々なことが考えられますが、この時のイスラエルは食べ物がなく必要としていました。神は必要なものは備えて自分のものとすることを認めてくださるお方です。ではそのことの現代における霊的な意味はどういうことなのでしょうか。

クリスチャンになると旧約聖書の聖絶のように、異教的なものはすべて絶つべきだと考える人もいます。しかし同じクリスチャンでも、コリントの信徒への手紙一の8章の偶像に献げた肉に対する考え方のように人それぞれに考え方が違うことがあります。ですので、それぞれの考えで良いと思います。

例えばある国の文化や習慣はその国に昔からある宗教と深く関わっていますので、キリスト教とは違う異教との関りをすべて取り除くのは不可能です。例えば日本の歴史や文化を学ぼうとしたら仏教や神道の内容を知って、その知識を用いる必要があります。

また異教の国である日本、特に仏教の影響の強い千葉で伝道をするためには、仏教の内容を正しく理解して相手の立場を知るために、仏教の知識を生かして用いる必要があります。正しい知識も無くただ他の宗教を否定して、自分たちだけが正しいと言っている独善的な人は信用されません。

また新約の時代には主イエス・キリストの十字架の血によってきよめられて食物規定も廃止されました。「家畜は町の戦利品と共に自分たちのものとした」ということの霊的な意味は、自分たちが必要として利用出来るものは用いて良いという意味に考えることが出来ます。

ただそれも偶像に献げた肉に対する考え方と同じ様に、それぞれが自分で判断することです。ですので、自分の考えを絶対化して自分の考えとは違う他の人に自分の考えを押し付けてはいけません。また自分の考えとは違う他の人の考えを尊重する必要があります。

3、聖戦
ところで家畜と戦利品を自分たちのものにするかどうか以前に、そもそも町全体を滅ぼし尽くすことは残忍なことではないのかと感じることもあります。皆さんはどのように思われるでしょうか。そしてこの様な記事と、12、13世紀に起こった十字軍、宗教戦争、イスラム過激派のジハード等を同じ様に考える人もいます。

聖絶については7章で詳しく触れますので、ここではいわゆる聖戦についてお話します。聖戦という言葉は聖書にはありません。しかし神は聖なるお方であり、旧約の時代では、罪に対してさばかれ、神の聖を示されます。ここではヘシュボンとバシャンは罪の文明であったので神はイスラエルを用いてさばかれました。

しかし新約の時代に入って、すべての人の罪は主イエス・キリストの十字架の贖いによって赦されますので、新約の時代に神が聖戦を命じられることは有り得ません。エフェソ6:12は、はっきりと、「私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものだからです」と言います。

新約の時代において神は、はっきりと聖戦ではなくて福音を宣べ伝えなさいと言われています。聖戦は神が命じられるものです。十字軍や宗教戦争で神が命じられたものがあるのでしょうか。有り得ません。なぜかと言いますとそれらは明らかに、「隣人を愛しなさい」と教える聖書の教えと全く一致しないからです。
それではなぜ一応クリスチャンと言われる人たちが十字軍や宗教戦争を起こすのでしょうか。クリスチャンとなっても罪深い罪人であることは変わりません。神の御心よりも、自分たちの欲によって自分たちの経済的な利害、政治的な利害のために動きます。

しかし自分たちの利害を前面に押し出していては人々を動かすことは出来ません。そこで人々の心を動かす大義名分が必要となります。大義名分として使われ易いのが宗教的正義のためです。そしてそれを宗教戦争、聖戦と人間が自分たちで名付けます。

しかし宗教戦争と言われるものを始めた人たちで信仰深い人というのは聞いたことがありません。それはそうです。どの宗教でも平和や正義を教えていますので、本当に信仰深い人であればどの宗教でも戦争を行うはずがないからです。

しかし宗教戦争を大義名分の旗印とすると、宗教のことを良く知らない感情的になり易い人たちは動かされ易いものです。そして後の時代になっても宗教のことを良く知らない人は、宗教戦争というお題目を鵜呑みにしてその戦争は宗教戦争であったと思い込んで、本当の原因が何であったのかに気付きません。

もしも本当に宗教戦争というのであれば、それぞれの宗教の違いを議論する論争があるはずです。しかしそもそも宗教戦争と言っている人、思っている人は、宗教そのものを理解していませんので違いを理解していません。ただ思い込みの中にいるだけです。それでは宗教戦争と呼ばれているものの本質を理解することは出来ません。

しかし似た様な争いは私たちの周りにも起こります。争いがある時に争っている当事者たちの話を聞くと、争っている内容の事実を当事者たちも理解していないで、ただ思い込みだけで争っていることがあります。教会はある意味で正しさを求める場でもあるので、勘違いで聖戦と思い込み易い環境にあるようですので注意が必要です。

しかし神は私たちにキリストの体として一致しなさいと命じておられるのであって、他の人との聖戦を命じることはありません。神が私たちに命じられる聖戦は自分の中の罪との戦いです。これは巨人であるレファイム人のように本当に手強い相手です。恐れを感じるかも知れません。

しかし主イエスを信じる者の罪は主イエスの十字架によって赦されます。また主イエスは私たちにとって最大の敵である死に対して十字架の死より三日目に甦られて既に勝利されています。主イエスを信じる者にはこの死から復活された勝利の力が働きますので、すべてを滅ぼし尽くして勝利を得させてくださいます。主イエスを信じて、従って、勝利を得させていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主がヘシュボンの王シホンに続いて、バシャンの王オグをイスラエルの手に渡されたのでイスラエルは勝利して、町を占領して、奪い取りました。この世には聖書の記事を自分たちの都合の良いように用いようとする者もいます。私たちが聖霊の導きの中でその様な者に惑わされずに聖書の御心を知ることが出来ますようにお導きください。そして聖書が教えるように、私たちが自分の中の罪を主によって滅ぼしていただき勝利を得られますようにお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。