「境界」 

2022年2月27日説教 
申命記 3章12~17節
        
主の御名を賛美します。ロシアがウクライナに侵略を始めて非常に危険な状況になっています。過去の歴史を通して戦争の愚かさを知っている者が同じ過ちを繰り返すことは大きな間違いであり赦されざる犯罪です。一刻も早く平和が訪れることを祈るばかりです。

1、シホン
今日の個所はストーリーとしては8節の続きです。イスラエルはその時、この地を占領しました。この地というのは、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグのオグシホン・コンビが支配していた所です。具体的にはアルノン川沿いのアロエルという町からですが、アロエルはアルノン川の中流域にあって王の道に近い所です(地図7)。

アロエルからギルアドの山地の半分、およびそこにある町を、モーセはルベン人とガド人に与えました(地図3)。ルベン人とガド人に与えた地はシホンの領土だった所です(地図3左上)。ルベン人とガド人にこの地を与えた理由は、民数記32:5で、ルベン人とガド人がこの地を見ると家畜を飼うのに適した場所であったので、家畜を多く持っているルベン人とガド人がこの地を与えてくださいとモーセに申し出たことによります。

領土の範囲はとても大切なことなのでモーセは繰り返して言います。12節は領土の範囲を進んで行った順番通りに南から北に言いました。16節では間違えの無いように、逆に北から南に範囲を言いながら細かい説明を加えます。ルベン人とガド人にはギルアドからアルノン川までを、その川の真ん中を境に与えました。アルノン川から南はモアブの地です。

また、アンモン人との境界であるヤボク川までを与えました。ヤボク川がアンモン人との境界という意味は、ヤボク川は中流から下流は東から西へ左に流れていますが、上流は7の地図ですと南から北へ上に流れています。ヤボク川の上流では、ヤボク川の東側、右側はアンモン人の地で、西側の左側がガドの地です。

2、バシャン
13節で、ギルアドの残りの地域とオグ王国のあったバシャン全土、すなわちアルゴブの全域はマナセ族の半数に与えました。マナセ族の半数にも与えることになった理由は良くは分かりませんが、民数記でイスラエルの12部族が宿営をする時に、ガド族を真ん中に右側にルベン族、左側にマナセ族が配置されていて、3部族は隣り合っていたこともあって親しかったようです。

また民数記32:39~41によるとマナセ族がバシャンを攻め取ったので、モーセがバシャンをマナセ族に与えたとも考えられます。バシャン全土は、レファイム人、巨人の地と呼ばれていました。しかしマナセの子ヤイルはアルゴブ全域を取って、ゲシュル人とマアカ人との境界に達しました。

ゲシュル人とマアカ人はパレスチナの広い範囲にいたアラム人の支族だと思われます。ヤイルはバシャンを自分の地にちなんで、ハボト・ヤイルと名付け、今日に至っています。また、マナセの子マキルにはギルアドを与えました。

17節で纏めて、それはアラバと、ヨルダン川を境界とする東の地域です。アラバはヨルダン渓谷を含んだパレスチナを縦断する低地を指しています。具体的には、キネレト(ガリラヤ湖の別名)からアラバの海、すなわち塩の海(死海)に至り、ピスガ(ネボ山)の裾野に及ぶ地域です。ここまでの話を聞いて来て、歴史や地理に余り興味の無い方は何だか珍紛漢紛かも知れません。また歴史や地理に興味がある方であっても聖書は歴史や地理だけを学ぶためのものではありません。聖書は私たちに霊的な糧を与える神の言です。では今日の聖書個所にはどのような霊的な意味があるのでしょうか。

3、境界
今日の聖書個所で繰り返されて強調されている言葉は、「与えた」が5回(原語では4回)、「境界(境)」が同じ4回です。神は私たちに色々な恵みを与えてくださいますが、その与えてくださる恵みには歴然とした境界があります。そしてその境界は必ず守って、破ってはならないものです。

そのためにモーセは境界の内容を繰返して強調します。主は出エジプト記19:12でもモーセにシナイ山の周囲に境界を設ける様に命じられました。境界より上に登れるのはモーセと兄のアロンだけで、他に境界に触れる者は死ぬと言われました。

しかしその様なアロンでさえ、民数記12:2ではミリアムと結託して、「主はただモーセとのみ語られたのか。我々とも語られたのではないか」と言って、神から自分に与えられた役割の境界を越えようとしたためにミリアムが病にかかってさばかれました。主は主の定められる境界を破る者に対して厳しくさばかれます。

神が定められる境界を守るためには、どのようにしたら良いのでしょうか。それはまず神と私たち人間との境界をきちんと守ることです。初めに罪を犯したアダムとエバは、神と人間の境界を越えて神の様に賢くなろうとしたことが原因でした。

神はモーセを通して私たちに十戒を与えられました。十戒の前半の4つの戒めは、神を神として愛して、人間の分をわきまえることです。神を信じ、神を愛する者には聖霊が働かれ、神と人間の境界を守らせて越えないように導かれます。

今日の聖書箇所での境界は自然なもので複雑なものではありません。川の真ん中やヨルダン川や渓谷等で、誰にでも分かり易いものです。それと同じように、神と人との境界、人と人との境界も自然なもので、誰にでも分かり易い自然なものです。しかし人間はまず神と人との境界をきちんと守ろうとしません。なぜでしょうか。

4、境界線
境界を守ることの大切さがキリスト教会でもまた一般的にも、暫く前に注目されました。前にも一度お話しましたが、教会図書にも「境界線」という話題になった本があります。人が神との境界を守らないのは神を神と認めない不信仰から始まります。

自分が神を越えて神の様になろうとする罪が神と人の境界を越えて行きます。それは人間の分をわきまえない、むさぼる姿です。神と人との境界線は上下を分ける境界線と言えます。人は神の下にいます。この境界線を破る者は神の御心よりも、罪による自分の思いを優先します。

この本では、それは霊的境界線を破ることと言います。霊的境界線をわきまえない人は自分が神になったかのごとく、自分の考えはすべて正しくて、自分の考えが御心であると思い込みます。そして自分の考えとは違う人の考えはすべて御心でないと思うだけではなくて、悪霊の働きであると思い込んで、その様な発言をします。御心は聖書にはっきりと書かれていること、またその状況において聖霊が導かれてはっきりと示されることだけです。コリントの信徒への手紙一の8章にある、偶像に献げた肉を食べることの問題についても、御心は偶像に献げた肉を食べて良いか悪いかではありません。

御心は自分の行動によって他の人をつまずかせないことであると、はっきりと書かれています。私たちは自分の考える正義を求めるのではなくて、聖書の教え、聖霊の導きに従って本当の御心を求めて行く必要があります。

神との境界を守らない者は、他の人との境界も守りません。人間同士の境界線は水平方向の境界線と言えます。十戒の前半の4つの戒めを守らない者は後半の6つの戒めも守らなくなります。人間同士の間にも越えてはならない境界があります。この本では3つの境界線を上げています。

一つ目は身体(物理)的境界線でこれを越えるとセクハラ等の犯罪になります。国境を越えて隣りの国に侵略することは勿論、犯罪です。十戒の6,7,8,10の戒めです。

二つ目は精神的境界線で、それぞれの人にはそれぞれの考えや意見がありますので、考えや意見の違いをお互いに尊重することです。またプライバシーを尊重して、根掘り葉掘り詮索したりしないことです。十戒の5、9の戒めです。

精神的境界線を守って、自分とは違う考えや意見を尊重します。但し、これにも一つの前提条件があります。それはある程度の同じ内容の事実の出発点に基づくことです。私にもコロナウイルス・ワクチンの3回目の予防接種の案内が来ました。

私は過去2回はファイザー製のワクチンを打ちました。私のように過去2回はファイザー製を打っている人は3回目については、モデルナ製にして混合接種にした方が抗体は増えるけれど副反応は強いと一般的には言われています。

そのことについて、ある人は副反応が強くても抗体が増えた方が良いと考えますし、ある人は抗体は少なくても良いから副反応が弱い方が良いと考えます。人によって状況や考えはそれぞれです。ただこれらは考えや意見は違っていても同じ一つの、混合接種の方が抗体は増えるけれど副反応は強いという、一般的には事実とされていることから出発しています。

しかし問題のある言動をとる人は、一般的な事実を理解しようとはしないで、自分だけの思い込みや妄想を出発点として考えますので、出発点が全く違うので話し合いが成立しないという問題が起こります。

三つ目は感情的境界線で、感情的境界線を越えるとは感情的にコントロール、支配したり、恫喝したりすることです。暫く前から、「マウントをとる、マウンティング」という言葉が使われるようになりました。Mountは、(山に)登る、(馬に)乗る等、という意味です。

総合格闘技で相手に馬乗りになる体制のことをマウント・ポジションと言うことから、マウントをとるという表現が使われるようになったようです。マウントをとる人は、相手に馬乗りになるような姿勢で上から攻撃的なことを言って支配します。しかしそれぞれの人の上は神の場所ですので、他の人の上に人が行くことは神の場所を奪うことです。人間同士の関係は水平線上にありますので上下の関係ではありません。同じ神の下にいる人間同士として横の信頼関係で結ばれます。

しかしマウントをとる人は自分が他の人を信頼して、自分も他の人に信頼されて、信頼関係によって横の人間関係を作ることが出来ません。この原因は根が深いものがあるようです。自分が過去にマウントをとられた人は、自分がマウントをとらないとまた自分がマウントをとられてしまうという恐れからそうしてしまうようです。人は良くも悪くも自分がされたように他の人にするものですが、悪いものからは神によって解放される必要があります。

5、境界を守る
これら3つの他の人との境界線は自分が他の人に対して守ることは勿論ですが、他の人にも守ってもらうことも大切です。例えば日本の領空、領海を破って侵入して来る、飛行機や船がいたら警告をする必要があります。

何も警告しないと、相手は境界線を破って侵入しても大丈夫だと考えてしまいます。神は神に対して、また他の人に対して境界線を破る者に対して、はっきりと警告を与えられ、さばかれます。境界を守ることは人間同士でも健全な人間関係を築くために、また相手に罪を犯させないためにも大切なことです。

境界を守ることは、自分のためでもありまた相手のためでもあり、神にある平和を実現することです。また今日の聖書個所のように境界がはっきりと書かれているということは、当事者だけではなくて、直接的にはこの境界に関わりの無い他の人にもその境界が分かります。

もしも境界を破りそうな人がいたり、境界を破られて困っている人がいたら助けるのがクリスチャンの役割です。神は恵みにより色々なものを与えてくださいますが、それは無制限ではありません。それぞれの人に相応しい神が定められる境界があります。その境界を守ることは自分のためであり他の人のためでもあります。

まず神を信じて聖霊の導きに従って、自分に与えられている境界を正しく認識しましょう。そして御心に従って、境界をきちんと守り、すべての人と平和に過ごさせていただきましょう。

6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたはヨルダン川の東側でイスラエルに領土を与えられましたが、そこには明確な境界がありました。私たちも様々な恵みを与えられていますがそこにも境界があります。

まず私たちが神を神として礼拝し、聖霊の力によって神との境界を守り、神から自分に与えられた恵みを感謝し、むさぼることなく他の人との境界を守り、主にある平和を実現することが出来ますようにお導きください。今、困難の中にいるウクライナの人々に主の守りと助けがありますように、主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。