「熱情による十字架」

ヨハネによる福音書2章13~22節                                                 野田栄美


➀ はじめに
今日から、新しい年度が始まりました。今年度は茂原教会にとって70周年となる記念の年です。多くの方々が、記念の活動のためにご奉仕してくださっています。本当に感謝です。また、牧師は茂原教会と大網教会の主任牧師となりました。様々な面で、新たな一歩を主が用意してくださっています。

年度聖句は、イザヤ書41:10です。「恐れるな、私があなたと共にいる。たじろぐな、私はあなたの神である。」と神は力付けてくださっています。神が茂原教会と共にいてくださることを約束してくださっていますから、期待してこの年度を始めましょう。
今は、主の十字架を思うレントの時です。主イエスがどのような思いを持って、私たちのために十字架にかかってくださったのかを、聖書から見させていただきましょう。

② 神殿の意味
 今日の聖書の場面は、エルサレムにある神殿です。神殿とは、何でしょうか。神殿が最初に建てられたのは、イスラエル王国が一番栄えた時代、ソロモン王の時代でした。けれども、神殿は、そこから始まったものではありません。それまであった幕屋を引き継いだものでした。この幕屋は移動できる神の聖所で、木や布、動物の皮を使って作られました。出エジプト記25章には、モーセの時代に、神が幕屋の建設を直接指示されたことが分かります。

 その幕屋とは、何のために建設されたのでしょうか。そこには2つの意味があります。
1つ目は、神ご自身が民の中に住まわれるという意味、
2つ目は、そこで民と交わりを持たれるという意味です。

この2つの約束、「臨在」と「交わり」が形にされたものです。

③ 救いとは
 ところで、「救い」という言葉を聞いて、皆さんはどのようなことを思い浮かべるでしょうか。聖書はまさに、「救い」を語っている書物です。では、聖書でいう「救い」とは、何でしょう。心の罪を取り去っていただいて、私が良い人間になることのように、感じることがあります。薄汚れた服を着たシンデレラが、魔法であっという間に美しいドレスを身にまとうように、自分自身が変わることを救いだと思うことはないでしょうか。自分に何か起こること、自分にスポットライトをあてて、考えていないでしょうか。

聖書がいう「救い」は、神が共にいてくださること、そして神との交わりを持つことができることです。救われていない状態とは、神と断絶している状態です。神から離れてしまった人のことです。その人が、神と共に生きるようになることが、「救い」です。
それは、神が中心におられるところに、入れていただくことです。神にスポットライトが当てられていて、その中に私たちがすっぽりはいってしまうこと、それが「救い」です。
 そして、その「救い」を形として表しているのが神殿でした。

④ 神殿の状態
 過越の祭りが近づき、主イエスは、エルサレムの神殿に向かわれました。そして、神殿に足を踏み入れたとき、そこは変わり果てた場所になっていました。神殿には、神が共にいてくださることを心から求め、神に祈り、礼拝している人で溢れてはいませんでした。ただ、形式として献げ物が献げられていました。その様子を預言者イザヤは、はっきりと預言していました。
それは、イザヤ書1章11節から13節に書かれています。

・「あなた方のいけにえが多くてもそれが私にとって何なのか。...私は...喜ばない。(11節)」
心が伴わない形だけになったものを、神は喜んでおられないと神は言われています。
・「あなたがたは私の前に出て来るが、誰が私の庭を踏みつけるよう、あなたがたに求めたのか。(12節)」
神殿の異邦人の庭と呼ばれる場所には、商人が店を出していました。その様は、主の庭を踏みつけるような状態でした。
・「もう二度とむなしい供え物を携えて来るな。...不正が伴う集いに私は耐えられない。(13節)」

形を見れば、正しいことをしていたでしょう。けれども、神が共にいてくださることを求める心もなく、自分が社会でのけ者にされないため、自分の正しさが人の前に表されるため、立場を守るため、人に見せるために供え物をしている。そのことを神は、むなしいとおっしゃっています。そして、そこにある不正に、耐えることができないとおっしゃっています。
 これがエルサレムの神殿で行われていた形だけの「神への礼拝」でした。先週のメッセージにあったように、正に偶像礼拝のようになっていました。

⑤ 商売の排除
主イエスはそのような神殿の様子を見て、牛や羊をすべて境内から追い出されました。両替人の金をまき散らし、その台を倒されました。鳩を売る者たちに「それをここから持っていけ。私の父の家を商売の家としてはならない」と言われました。

 神殿の一部である異邦人の庭に、商売をする人たちが入ったのには、理由があります。普段ローマ貨幣や他の貨幣で生活している人々が、神殿で献げ物をするには、先ず、ユダヤ貨幣に両替する必要がありました。また、巡礼の旅の時に、供え物である動物を伴ってくるというのは非常に大変なことです。もし、怪我でもさせてしまえば献げ物になりません。犠牲のための動物に対する検査は細かいですから、そもそも用意するだけでも難しいことでした。ですから、その対応として現金を持ってきて、献げられるようにするようになっていました。これはモーセの時代から続いていたことです(参照:申命記14:24~、レビ記22:17~25)。

 では、なぜモーセの時代から許されていた商売を、主イエスは、16節で「私の父の家を商売の家としてはならない」と、追い出されたのでしょうか。

1つには、その商売が、異邦人の庭で行われていたことです。異邦人の庭は、ユダヤ教に改宗した異邦人たちが祈りを献げるために、造られました。そこで商売を行っては、異邦人たちが祈りを献げることはできなくなってしまいます。

そして、もう一つの大きな意味があります。それは、商売を必要とするこの神殿そのものを嘆かれたということです。ゼカリヤ書の14:21には、主イエスが来られるときに何が起こるかが書かれています。最後にはこう書いてあります。「その日には、万軍の主の神殿に、もはや商人はいなくなる。」この言葉通り、主イエスはユダヤ教の律法で定められていた儀式による礼拝そのものを排除しようとされました。

⑥ 熱情
弟子たちは、後に、このできごとを思い出して、旧約聖書の一文を思い出しました。それは、詩編69:10にある「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くす」という一節です。主イエスの激しい言動は、神が人と共にいてくださる特別な場所を大切に思う現れだと、弟子たちは悟りました。神殿を大切にする思いとは、人々を救うことへの思いです。人々を救う場所であるはずの神殿が、人の欲望の溢れる場所となってしまった。神からの救いを受け取ることができない場所になってしまった。そのことへの嘆きと怒りによる熱情です。

その思いが主イエスを食い尽くしました。その思いが、主イエスを十字架へ押し上げたということです。なぜなら、ユダヤ教の律法による儀式を新しいものに変える方法は、主イエスご自身が献げものとなること以外になかったからです。汚れの一切ない、清い献げものは、主イエス以外になかったからです。主イエスは、人々の救いの場である神殿を、完全な救いの場とするために、自らを献げられました。

私たちは、人が悪いことをしたからといって、自分自身を変わりにすることはできるでしょうか。子どもがした小さなことでも、親として謝りにいくだけでも、緊張します。ましてや、自分自身が犯罪者のように扱われて、いのちを献げることは恐ろしいことです。人々の救いの場である神殿を思う熱情の大きさを思いましょう。自分自身が食い尽くされても犠牲を払ってくださった。それは、私たちに救いを与えるためでした。

⑦ 新しい神殿
19節を見ましょう。主イエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる。」とおっしゃいました。弟子たちは、この言葉が、十字架で亡くなられた主イエスが、三日目に復活されたことを表していたことに気が付きました。

この言葉によって、主イエスは、エルサレムにある神殿が新しい神殿に変わることを示されていました。その新しい神殿とは主イエスご自身でした。主イエスご自身が神殿となってくださることをで、商売は入ることができなくなりました。そして、人々は救いに預かり、霊と真実によって礼拝を献げることができるようになりました。
これこそが、どんな犠牲を払ってでも与えようとされた「救い」です。

⑧ 与えられた礼拝
 私たちは、今、茂原教会の礼拝堂で礼拝を献げています。もし、主イエスが十字架で犠牲を払われなければ、私たちはエルサレムの神殿へ行き、汚れのない動物を献げ続けなければなりませんでした。そのことで、神が共におられること、神が祈りを聞いてくださることを本当に体験できれば、それは、救いでありえたのかもしれません。けれども、神が選ばれた民族でさえも、真実をもって、それを続けることはできませんでした。形だけの偶像礼拝になってしまいました。

 今、ここで神と共にいさせていただけることは素晴らしいことです。今、ここで祈ることができること、また、御言の語りかけを受け取ることができることは特別なことです。ここに掲げられている御言をもう一度見てみましょう。「恐れるな、私があなたと共にいる。たじろぐな、私はあなたの神である。」神が共にいてくださることは「救い」です。この御言は、主イエスの熱情によって与えられました。熱情による十字架を感謝して、祈りを献げましょう。