「憐れみ深い神」
2022年4月10日説教
申命記 4章25~31節
主の御名を賛美します。最近、私の中で良く浮かぶ言葉は少し古いフレーズですが、綾小路きみまろさんの、「あれから40年」というものです。40年経つと色々なことが変わって行きますが、「あれから40年」というのはとてもモーセ的な表現です。
モーセは生まれて三か月後にナイル川のほとりに置かれてファラオの娘に拾われました。あれから40年、40歳になったモーセは同胞のヘブライ人を虐待するエジプト人を殺してミデヤンに逃げました。あれから40年、80歳になったモーセは神の召命を受けてイスラエルの民をエジプトから脱出させました。
あれから40年、120歳になったモーセは神の約束の地を目前にして今日の場面を迎えました。モーセは自分は行けない、神の約束の地に入って行くイスラエルの祝福を願って、遺言のような別れの言葉を語り続けています。
1、子や孫をもうける時に
初めの「もしあなたが子や孫をもうけ」というのは、「もしも子や孫をもうけるとこうなる」という条件の文ではありません。直訳すると、「あなたが子や孫をもうける時に」という意味で、子や孫をもうけるような時間が経った時にという意味のようです。子や孫をもうけるというのは大体、これから40年ということでしょうか。
40年後にどういうことが起こって来るのでしょうか。まず、その地で年を取ります。それは40年経てば誰でも年を取ります。年を取るとどうなるのでしょうか。堕落してあらゆる形の彫像を造ります。年を取ると堕落してあらゆる形の彫像を造るというのは厳しい言葉ですが、そのような傾向が事実としてあるようです。
あらゆる形の彫像というのは、前回、お話しましたように、人の形やあらゆる生き物の形や天体だけではありません。人の言葉や行い、習慣等の形を偶像としてあがめて、霊である神の御心よりも優先することです。
ローマ1章の「人間の罪」にある、不信仰に陥る者が初めに行うことが偶像礼拝です。そして偶像礼拝に陥った者が次に行うことが、「あなたの神、主の目に悪とされることを行い」ます。ローマ1章では、性的不品行、あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意等です。
最近は連日のようにウクライナとロシアのことが報道されています。プーチン大統領が2000年に初めて大統領になった時には、KGB出身の危なそうな人だとは思いましたが、汚職塗れのロシアに秩序をもたらした手腕は剛腕ですがやり手の人だと思いました。しかしプーチンも今年で70歳になります。
プーチンはニュースにもなったプーチン宮殿を作り、長年連れ添った奥さんと別れて自分の娘と同年代の女性との間に子どもをもうけ、ウクライナであらゆる悪を行っています。プーチンは年齢だけの問題ではなく独裁が20年以上続いた影響もあるとは思いますが、年を取って堕落して主の目に悪とされることを行っているように思えます。
現在のプーチンを見ていると、サムエル記上の、イスラエルの初代の王であるサウルの晩年の酷い姿が重なります。サウル王が若いダビデに嫉妬して殺そうとしたように、プーチンがウクライナの若いゼレンスキー大統領に嫉妬しているようにも見えます。以前はサウル王というのは例外的な酷い人物だと思っていました。しかし聖書はすべての人に向けて書かれた神の言であり、私は全く関係ないという人は一人もいません。人は誰でも年を取ると多かれ少なかれサウル王やプーチンの晩年のようになる部分があるのではないでしょうか。
自分のこととして受け止めたいと思います。主の目に悪とされることを行う者は、当然、主を怒らせます。プーチンの行っていることは目を覆うばかりですが、その姿を反面教師として見ると共に、どのような結末を迎えるかをきちんと見届けたいと思います。
主を怒らせる時に、モーセは今日イスラエルに対して、天と地を証人として呼び出します。モーセはこの後も、「天と地を証人とする」という表現を三度使います。創世記1章で、人は六日目に造られましたが、天と地はそれよりも前の三日目に造られました。創造の順番ということもありますが、天と地は人とは違って簡単には変わることのない証人です。「国破れて山河在り」です。
天と地が証人として証言する内容は、「イスラエルは子や孫をもうける時間が経った時に主を怒らせ、ヨルダン川を渡って行って所有する地から取り去られ、たちまち滅び去る。」これは大切な預言ですので、同じ内容を繰り返して言います。
「あなたがたはそこで長く生きることはできない。必ずや滅ぼされる。」そして、「主は、あなたがたをもろもろの民の中に散らされる。」ユダヤ人の歴史を振り返ってみると、その歩みは、この申命記が書かれた紀元前1400年頃には既に預言されていた内容の通りです。
2、残りの者
しかし主はイスラエルを滅ぼし尽くすことはされません。今日の説教題の通り、主は憐れみ深い神です。主が追いやる先の国々で僅かな者は残されます。残りの者は英語でremnant(レムナント)と言いますが、残りの者は聖書全体を貫く大切なテーマの一つです。
創世記7章で悪がはびこった時に、主は洪水をもたらされましたが、すべてを滅ぼし尽くすことはされませんでした。ノアの家族8人を残りの者(レムナント)として残されました。イザヤ6:13も、「切り倒されても切り株が残る テレビンの木や樫の木のように聖なる子孫が切り株となって残る。」と残りの者を預言します。
残りの者は、どのような環境の中で生きて行くのでしょうか。「あなたがたはそこで、人の手で造られた神々に仕えなければなりません。」 日本を含めて人の手で造られた神々は世界中に沢山います。それらは木と石でできていますので、当然のことながら、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできません。
そのような形の彫像が本物の神であるはずがありません。またそれだけではなく、先週、先々週の説教にありましたように、この世は人の都合で人が造った制度、決まり、習慣等の形が神々となっていてそれに仕えなければなりません。
しかし、人が造った制度等の偶像は人が置かれている状況を見ることも、聞くこともできません。そのような形を偶像の神にすることは、本当の神を少しでも知っている神の民にとっては耐え難い苦痛です。しかし人は苦しみに遭って初めて、真剣に神を探し求め始めます。そしてその散らされた場所から、あなたの神、主を探し求め、心を尽くし、魂を尽くして主を求めるならば、あなたは主を見いだすことができます。マタイ7:7が、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。」と約束されるように、主を探し求めるのに遅過ぎるということはありません。
本当に求めるならば誰でも主を見いだすことができます。マタイ2章で異邦人の東方の博士たちも真剣に救い主を探し求めたので、主は星によって博士たちを救い主の元へと導かれました。これらすべてのことがあなたに臨みます。「あなた」とはモーセの言葉をこの時に聞いていたイスラエルであり、モーセの言葉を今聞いている私たちです。
「これらすべてのこと」とは、25~29節に書かれていることです。神の約束の地に入りますが、堕落して、滅ぼされ、僅かな残りの者は偶像礼拝の社会の苦しみの中で主を探し求めて見いだすことです。そのように苦悩に満ちますが、しかし、終わりの日には、あなたは、あなたの神、主のもとに立ち帰り、その声に耳を傾けます。
なぜ、人は終わりの日には、主のもとに立ち帰り、その声に耳を傾けるのでしょうか。苦しい時の神頼みでしょうか。そのように見える部分も多少はあるかも知れません。しかしそうではありません。
3、憐れみ深い神
それはあなたの神、主が憐れみ深い神であるからです。憐れみ深い神とは具体的にどのような意味、理由からなのでしょうか。それは3つのことがないからです。いくらイスラエルが主の目に悪とされることを行い、主を怒らせても、あなたを見捨てることも、あなたを滅ぼすことも、先祖に誓われた契約を忘れることもないからです。
今週は主イエスが十字架に掛かられた受難週です。憐れみ深い神は、主の目に悪とされることを行う私たちを、見捨ても、滅ぼしも、契約を忘れることもなく、御子イエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架に付けて、救おうとされます。私たちが主のもとに立ち帰り、その声に耳を傾けるのは聖霊の働きによります。
と、ここまでの説教を聞いてそうであるなと納得されるでしょうか。何か疑問を感じる方はおられませんでしょうか。私は自分で説教をしておきながら何ですが大きな疑問を感じます。それは27節の、「僅かな者は残される」という御言です。日本のクリスチャンは1%弱と言われていて、残される僅かな者です。
1%弱のクリスチャンは救われて、憐れみ深い神から永遠の命を得ますが、憐れみ深い神は、滅ぼすこともないと言いつつ、その他の99%の人は滅ぼされても良いのでしょうか。どのように思われるでしょうか。旧約聖書は書かれている内容を文字通りに読んでしまうと誤解を生む可能性があります。
4、霊的解釈
旧約聖書を読む時には、必ず新約の主イエスの十字架による罪の赦しによって救いの道がすべての人に開かれているという福音の光に照らして霊的に読む必要があります。例えば2:34の、「その時、私たちは町を一つ残らず占領し、男も女も子どもも、町全体を滅ぼし尽くし、一人の生存者も残さなかった。」という御言は文字通りに読むと、現在、プーチンが行っていることを正当化する文章のようにも読めてしまいます。
しかしこの箇所も、聖書の御言はすべて自分に向けられた霊の糧の言葉であるという原則に立って考えると、滅ぼし尽くすのは敵ではなくて自分の中にある罪であり、占領するのは敵の町ではなく自分の心であるという意味が見えて来ます。
それではその霊的な解釈によって今日の聖書箇所を読むと、どのような意味が見えるのでしょうか。まず聖書の言葉はすべて自分に向けられた霊の言葉であるという原則に立つと、「僅かな者は残される」という言葉は、クリスチャンだけではなくて、すべての人に、僅かな良心が残されるという意味になります。
そして偶像礼拝の社会の中で苦悩に満ちますが、主を探し求め、心を尽くし、魂を尽くして主を求めるならば、すべての人は主を見いだすことができます。そして、すべての人は苦悩に満ちた人生を送りますが、終わりの日には、主のもとに立ち帰り、その声に耳を傾けます。
よく教会は高齢者が多いと言われます。「終わりの日には、主のもとに立ち帰り、その声に耳を傾ける」という御言からすると、それはあるべき姿なのかも知れません。茂原教会では子ども礼拝にも力を入れていて大切な働きです。
しかし高齢者にとっては、この世の後の永遠のことを決めるとても大切な時ですから、高齢者伝道も大切な働きです。また25節によると、年齢を重ねると判断ミスもし易くなるようですので、主の声に耳を傾け続けることが増々、大切になって行きます。
高齢者伝道も大切ですが、主イエスはすべての人の罪の赦しのために、身代わりとして今週の金曜日に十字架に付いてくださいました。そして「あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも、あなたを滅ぼすことも、先祖に誓われた契約を忘れることもない」と約束してくださっていますから安心して信じて従って行きましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。神の約束の地に入って行くイスラエルも私たちも、年を取ると堕落して、主の目に悪とされることを行い、主を怒らせ、苦悩に満ちると預言されます。しかし憐れみ深い神は、主イエスの贖いによって、私たちを見捨ても、滅ぼしも、救いの契約を忘れることもないと約束されますから有難うございます。
あなたは私たちがこれから歩む歩みを聖書によって預言されます。私たちが聖書に書いてある通りの苦悩に満ちた遠回りの道を歩むのではなくて、あなたが聖書を通して私たちに知らせてくださる祝福の道を歩むことが出来ますようにお導きください。
そのために私たちの身代わりとして今週の金曜日に十字架に掛かられた主イエスを感謝致します。私たちが特に今週、その意味を深い味わいつつ歩み、感謝を覚えることが出来ますようにお導きください。
また今、ウクライナで苦しみの中にいる方々に憐れみ深い神の御心がなりますように、主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。