「聞け、イスラエルよ」

2022年5月22日説教  
申命記 5章1~11節

        

主の御名を賛美します。先週は無事に総会が行えたことを感謝します。しかし総会の度に自分の足りなさを痛感させられます。より良い総会にして行くために考えて行く必要があることを思わされます。主の導きを求めて皆さんと考えて行きたいと思います。

1、聞け

モーセはイスラエルのすべての人々を呼び集めて「聞け、イスラエルよ。」と言いました。「聞け」は、ヘブル語で「シェマー」と言います。ユダヤ教徒は「シェマー」を祈りの中で一番に大切なものと考えていて、一日二回の朝夕の祈りの中で、同じ「シェマー、イスラエル」で始まる6:4~9を祈ります。

「聞」という漢字は、「門」の下に「耳」と書きます。この場合の「門」は「分ける」という意味です。神社等の門である鳥居は、人間の住む俗界と神域を分けるもので、門は住む世界を区画する境目です。門を通って門の中の世界に入ることを入門と言います。入門するとその一門の者となります。

イスラエルという名前は、創世記32:29で神がヤコブに付けられた名前です。イスラエルは、元々は「神と闘う」という意味ですが、「神が闘う」とも考えられる神の民という意味です。イスラエルが神の民として生きるためには、神の言葉を「聞く」必要がありますので、まず「聞け」とモーセは言います。

聞くとはどういうことでしょうか。モーセは、「私が今日あなたがたの耳に語る掟と法を。これを学び、守り行いなさい。」と言います。モーセはイスラエルの耳に掟と法を語ります。それはある意味で当たり前のことで耳以外のところに語っても聞くことは出来ませんが、これは耳に語るということを強調しています。

耳に語るというのは音が聞こえていれば良いということではありません。聞くというのは、学び、守り行うことです。いくら音としては聞こえていても、学びもせず、守りも行いもしないのであれば、それは聞くことになりません。私も自分が失敗することの多くは初めの説明を良く聞いたり、読んだりをしていないために、自分の思い込みで行った場合がほとんどです。

聞くというのは、耳で聞いてその一門の掟と法を守り行って、その門の内側に留まることです。入門者はその一門の者として、耳をその門の下に置いて聞いて生きるので門下生と呼ばれます。主イエスは、マタイ7:13で、「狭い門から入りなさい。」と言われました。一門の掟と法を守り行わない者は、門を破ることになりますので破門となります。

2、ホレブでの契約

イスラエルの神、主は、ホレブ(シナイ山)で40年前にイスラエルと契約を結ばれました。しかしイスラエルの先祖とではなく、今ここで生きているイスラエルのすべてと、主はこの契約を結ばれました。確かに40年前の先祖はカレブとヨシュアと今はまだ生きているモーセを除いて、その時に20歳以上だった人たちは滅びましたので、この時に生きているイスラエルの人たちとの契約です。

そしてこれはホレブでの契約とこの時のイスラエルとの契約だけの昔の話ではありません。今ここで聖書を読んでいる私たちとの契約です。そのことを強く意識して、しっかりと聞いて、聖霊によって心に記していただきましょう。

ホレブでの契約を、「火の中から顔と顔を合わせて語られた」、「モーセは主とあなたがたとの間に立ち言葉を告げた」、「あなたがたが山に登らなかったからである」、と言われると何か矛盾しているようで、どれが正しいのだろうかと思います。事実は5節です。しかしそれは顔と顔を合わせるように親密に、しかもイスラエルの人々が聞いて理解できるように人間の言葉で語ったという意味です。

3、十戒

いよいよ十戒の内容に入ります。十戒は原語では十の言葉です。十戒は十の戒めと書きますが、その書き出しは、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」と主がどのようなお方であるかを示す宣言から始まります。

エジプトの地は奴隷の家で、エジプトの地は私たちが罪の奴隷である状態をさします。主なる神は、主イエスの十字架の贖いによって、私たちを罪の奴隷の家、エジプトの地から恵みによって導き出してくださいます。十戒は、「~してはならない」という戒めの表現が多く使われていますが、ニュアンスとしては、恵みによって罪の奴隷から導き出された者は、「~をするはずがない」というものです。

一つ目は、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」です。確かに恵みによって罪の奴隷から導き出された者に、ほかに神々があるはずがありません。ほかに神々があってはならないので、それは二つ目の、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。」という偶像礼拝禁止に繋がります。

彫像を造ってはならないのですから、上は天にあるものである太陽、月、星、下は地にあるものであるライオン等の動物、また地の下の水にあるものであるワニ等の水生動物の彫像であるとか、またいかなる形ですから、その他にも人の行いや言葉等も偶像としてはならないものです。

勿論、それにひれ伏し、それに仕えてはなりません。偶像礼拝禁止はとても大切なことなので、4:15にところにも書かれていました。聖書に偶像礼拝禁止は繰り返し書かれていますので、クリスチャンで文字通りの石や木で造られた彫像を礼拝している人は流石にいないとは思います。

しかし4:15からのところでもお話しましたが、人の行いや言葉が偶像になることは起こりえます。しかし最大の偶像、神よりも優先するものは何でしょうか。それは自分自身です。自分を何よりも優先して、神の御心を求めることをしないで自分の考えだけを貫こうとすることです。

自分以外のものには何も耳を貸そうとはしません。これは自己中心という最大ともいえる罪です。主はそのようにならないために、「聞け、イスラエルよ」と、自分であれこれと考えて何かを言う前に、まず、神の言葉を「聞け」と言われます。そして神の言葉を学び、守り行いなさいと命じられます。

それが幸せになり、長く生きることができる条件だからです。私は牧師としてまた一人の人として、出来る限り多くの人が幸せになり、長く生きることができるようにと願っています。先週の総会でもお話しましたが、今年度は茂原教会が創立70周年です。

今年度に行われる記念事業を通して語られる神の言葉、また教会に集われる隣り人を通して語られる言葉をまず聞いていただきたいと思います。自分の考えを語るよりも、まず聞く者でありたいと思います。

4、父の罪

主なる神は私たち人間を妬むほどに愛される神です。そして、「神を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問われます。」 これは引っ掛かる言葉です。なぜかと言いますと、これはエゼキエル18:20の言っていることとは全く正反対のようにも思えるからです。

エゼキエル18:20は、「罪を犯した者が死ぬ。子は父の過ちを負わず、父も子の過ちを負わない。」と言います。エゼキエル18:20は、罪を犯した本人だけがその過ちの責任を負うもので、子であろうと父であろうと他人が過ちを負うことはないと言います。果たして、どちらかが正しくて、どちらかが違うのでしょうか。

ヨハネ9:2で弟子たちが主イエスに尋ねた、「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」という問いは今日の聖書箇所の御言の考えに基づくものなのでしょうか。しかし申命記とエゼキエル書は果たして矛盾することを言っているのでしょうか。

そうではありません。「神を憎む者」とは、ここの個所では具体的には、神の言葉を聞かないで、自分の考えを貫く自己中心者です。神の言葉を聞かない者は、当然、神の言葉を学び、守り行いません。そしてその悪い影響は三代、四代までも及ぶということです。

イスラエルの父祖と呼ばれて尊敬されている、アブラハム、イサク、ヤコブでさえ、アブラハムは自分の身に危険を感じると奥さんのサラを妹と偽って言うことをしました。その影響は三代目の孫のヤコブに及んで、ヤコブはお父さんのイサクに自分は兄のエサウだと偽って祝福を奪いました。

イスラエルの王であるダビデと息子のソロモン、その息子のレハブアムも同じです。ダビデは御心に反して複数の妻を持ち、それは息子のソロモンも同じです。それはそれぞれの王国の時に悪影響を及ぼして、ダビデの孫のレハブアムの時にはついに王国は分裂します。

神の言葉を聞かない者の影響は三代、四代までも及ぶということです。しかしもしも父の罪を子が負うのであれば、この時のイスラエルも約束の地に入れなかったはずです。

それに対して神を愛する者は神の言葉を聞く者であって、神の言葉を学び、守り行います。その者には、幾千代にわたって慈しみを示すという、大きな祝福の恵みの約束です。自分の生き方は自分だけの問題ではありません。三代、四代である、孫、ひ孫までも大きな影響が及びます。

自分の子孫の祝福を本当に願うならそのための生き方ははっきりと示されています。因みに主イエスは、生まれつき目が見えないのが罪の結果であるという考えをはっきりと否定されました。それは「神の業がこの人に現れるためである」と全ては神の栄光のためであると宣言されました。

5、主の名をみだりに唱える

三つ目の戒めは、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」です。十戒はクリスチャンに良く知られているのだから、クリスチャンで十戒に反して、主の名をみだりに唱える者などはいないだろうと思われるかも知れません。それが残念ながらいるのが現実です。

一つの譬えとしてお話しします。主の名をみだりに唱える表現の一つ目は、「主に示された」という表現です。クリスチャンですから、全てのことは主に示されたことであると思いたい気持ちは分かります。しかし自分が個人的に思うことと、主に示されることは全く異なることです。

例えば、個人的に今朝の朝食は洋食を食べるように主に示されたと言って食べるのは個人の自由です。誰にも迷惑を掛けないからです。しかしクリスチャンの友人と食事をすることになっていて、自分は洋食を食べるように主に示されたと言って、他の人たちは和食を食べたいと思っていたらどうなるでしょうか。

その時にそのような人は和食を食べたいと思っている人に、二つ目の表現として、「それは主の御心に適うことですか?そのような選択をして主が喜ばれると思いますか?」とまた主の名を唱えます。このような発言をする人は、自分が考えることは全て主に示されたことと思い込んでいて、他の考えをする人は例えクリスチャンでも主の御心に反する人であると思い込んでいるようです。

そして主の名をみだりに唱える人の特徴として、サタンの名も良く唱えます。「和食を食べたいなどと思うことはサタンの誘惑だ」と言います。これは一つの譬えです。牧師に与えられた権限として言わせていただきますと、食事に何を食べるかはほとんどの場合は個人の嗜好、好みの問題であって、信仰とは関係はないと思います。

もしも本当に主が示されたのであれば、聖霊の働きによって、一緒に食事をしようとしているクリスチャン全員に同じ思いを与えるはずです。しかしそうでないなら、それは単に個人的な思いであって、サタンもそこには関わってはいないと思います。

何でも自分の思い通りに行かないと、それはサタンの妨害だと言う人が偶にいますが、そのような教えは聖書には書かれていません。主やサタンの名をみだりに唱えるのは、異端によく見られる傾向があって、三代、四代にわたって悪影響を及ぼしますので注意が必要です。

そして、「主は、その名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。」とは必ず罰するということです。但し、これも、「あの人は主の名をみだりに唱えて罰せられた」と他人を裁くためのものではありません。聖書の言葉は全て自分に向けて語られるものです。

もしも自分で自分が罰せられたと感じることがあるなら悔い改めれば良いのです。私たちは、「聞け」と言われても、中々、聞くことに遅い者です。そして自分の思いで進んで行って、少し痛い目に遭って初めて気付くものです。

しかしそれでも、私たちの罪の贖いのために既に主イエスが十字架に掛かってくださっていますので、遅過ぎるということはありません。聖霊の導きに従って、いつでも主イエスの下に立ち帰って、聞いて、律法を学び、守り行う者とさせていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。すべての人は幸せになり、長く生きることを望むものです。そのために、あなたは神の掟と法を聞き、学び、守り行いなさいと言われます。私たちは聞くに遅く、自分の考えを通そうとする自分勝手な者です。

私たちはあなたの恵みによって罪の奴隷から導き出される者です。どうぞ聖霊の力によって相応しい歩みをする者とさせてください。そして自分のためだけではなく、後の世代にも良い影響を与える者としてお用いください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。