「恐れるな、神が共におられる」

2022年5月15日説教  
イザヤ書 41章8~16節

        

主の御名を賛美します。2年前に新型コロナウイルスの感染が起こり始めたときには、得体の知れない病気に心配した方は多いと思います。しかし今、3回目のワクチン接種も進んで治療薬も出来始めて少し落ち着く感じもして来たと思ったら、今度はコロナウイルスよりもある意味ではもっと恐ろしい、ウクライナへのロシアの侵略が進んでいます。この世の出来事だけに心を惹かれていると恐ロシアです。御言を聴かせていただきましょう。

1、イスラエルの選び

イザヤ書は紀元前7百年前後に活躍した預言者イザヤの言葉です。前半の1~35章は裁きの預言で、実際にイスラエルは紀元前721年に北王国イスラエルが滅びて、紀元前586年に南王国ユダが滅びます。後半の40章からは捕囚で連れて行かれるバビロンからの脱出を含む救いの預言です。イザヤは、「主は救い」という意味です。

神はイザヤを通してイスラエルに3つの呼び名で、「あなたは私の僕 私が選んだヤコブ 私の友アブラハムの子孫」と呼びかけます。イスラエルは神に選ばれた神の民ですから、現代の霊的なイスラエルはクリスチャンです。イスラエルに対する3つの呼び掛けにはそれぞれ意味がります。

一つ目の「私の僕」は私、神の僕というのは、主人である神に忠実な者という意味です。私たちも神に忠実な神の僕です。二つ目は、私が選んだヤコブです。イスラエルという名前はヤコブに神が名付けられた名前です。

ヤコブはアブラハムの息子のイサクと奥さんのリベカの間に生まれた双子の弟です。しかし神はお兄さんのエサウではなくヤコブを選ばれました。ヤコブが選ばれたのはただ神の恵みによるもので、クリスチャンが神に選ばれるのもただ神の恵みによるものです。

三つ目は、私の友アブラハムの子孫です。イスラエルは確かにアブラハムの血縁の子孫ですが、私たちアジア人は何となくアブラハムの血縁の子孫ではなさそうな感じがします。しかしアブラハムは創世記15:6で、主を信じる信仰によって義と認められて神の友とされました。

クリスチャンは主を信じる信仰によって義とされる者ですので、同じく主を信じる信仰によって義とされたアブラハムの霊的な子孫です。イスラエル、そしてクリスチャンは神の僕であり、神が選んだ者であり、信仰によって義と認められる者です。

神はそのようなあなたであるイスラエル、またクリスチャンを地の果てから連れ出し、その隅々から呼び出して言いました。「あなたは私の僕」、これは平行法という文学形式で8節と同じことを繰り返して強調する表現方法です。これは先程の3つの呼び方の一つ目の繰り返しです。

そして次は「私はあなたを選び」、これは二つ目の繰り返しです。すると三つ目の、「拒まなかった」はアブラハムの子孫に対応する表現です。「拒まなかった」は「捨てなかった」という意味でもあります。「拒まなかった」というと、イスラエルは神に拒まれるかも知れないようなことを何かしたのでしょうか。何かをしたどころではありません。偶像礼拝の罪を犯しまくって、これから王国は滅びに向かうところです。

しかしそれはイスラエルの人々だけではありません。神が選ばれたヤコブはお父さんのイサクを騙してお兄さんのエサウの長子の祝福を奪い取りました。神の友と呼ばれたアブラハムも自分の身に危険を感じると奥さんのサラを妹と偽って言って自分の保身に走りました。しかし神に拒まれるかも知れないことをしたのは、ヤコブ、アブラハム、イスラエルの人々だけではありません。現代のクリスチャンも神に拒まれるような罪を犯します。

しかし神は僕として選ばれた信仰者であるイスラエル、クリスチャンを拒まれません。私たちは、例えどんな失敗をしたとしても神から拒まれることはないというのは大きな恵みです。神は行いによって拒まれるのではなく、先程の3つ目にありましたように、信仰によって義と認めてくださいます。拒まれないのは、失敗した行いを悔い改める者は信仰によって義とされるからです。

2、恐れるな、たじろぐな

逆に神は、「恐れるな、私があなたと共にいる。たじろぐな、私はあなたの神である。」と言われます。これは今、講解説教で聴いている申命記と同じような言い方で、聞き手が納得し易いように、命令と約束(理由)を交互に繰り返します。

「恐れるな」は命令で、「恐れるな」は聖書に繰り返し出てくるキーワードで、今日の個所でも3回使われています。この時のイスラエルの具体的な恐れは、自分たちの国が滅ぼされることでしょう。確かに恐れてしまいそうです。しかし「恐れるな」と言われるだけで恐れずに済むのであれば楽なことです。

しかしそう簡単には行きません。なぜ恐れなくて良いのかという具体的な理由が必要です。ところで神を神として恐れることは正しいことですが、神以外のものを恐れることは、神から目を離してこの世のものに囚われて恐れる罪によるものです。皆さんは今、何か恐れを感じることはあるでしょうか。

例え恐れを感じるようなことがあったとしても、神はあなたと共にいると約束されます。神が共におられることを覚えていると恐れはなくなります。しかし神から目を離すときに恐れは起こります。マタイ14:29で、ペトロは主イエスを見ているときはガリラヤ湖の水の上を歩いていましたが、主から目を離して風を見ると怖くなって沈みかけました。それは私たちが感じる恐れも同じで、主を見つめていれば恐れはありません。

二つ目の命令の「たじろぐな」とそれに続く理由(約束)の「私があなたの神である」は、一つ目の「恐れるな、私があなたと共にいる。」と何か違うことを言っているのではなく、同じ内容を少し違う表現で繰り返す、平行法です。

更にこれから捕囚という困難に直面するイスラエルを励ますために、神は3つのことを約束します。「私はあなたを奮い立たせ、助け、私の勝利の右手で支える。」 これはとても心強い言葉ですが具体的には、どのような方法で神は行ってくださるのでしょうか。

現代は三位一体の神の中でも聖霊の時代と言われ、聖霊の働きが強調されます。自分の力ではなくて、主が遣わされる聖霊が私たちの心に働いて奮い立たせてくださいます。そして助け手として私たちを助けてくださいます。また主の勝利の右手で支えてくださいます。「勝利の」という言葉は、「正しい(義の)」という意味で、新改訳では、「わたしの義の右の手で、あなたを守る」と訳しています。

3、争う者について

イスラエル、クリスチャンに対する約束は具体的にどのようなかたちで実現するのでしょうか。「見よ」というのは注目して良く見なさいということです。まず「あなたに対して激怒する者」についてです。これらの者は、「皆、恥じ入り、辱められる」ことになります。

このことも強調するために、平行法で繰り返します。「あなたと争う者たちは無に等しくなり、滅びる」ことになります。これは自分たちが何かを行うからではありません。主が聖霊をお遣わしになり、私たちを奮い立たせ、助け、主の勝利の右手で支えてくださるからです。

その結果はどのようになるかと言いますと、「あなたと言い争う者を探しても見つか」りません。なぜかというと、「あなたと戦う人々は無に等しく、全く消えうせる。」からです。この箇所は誤解をせずに正しく読む必要があります。誤解をして読むと、「そうか、自分と争う者は皆、いなくなるのであれば、やりたい放題だ、これはしめしめ。」と思ってしまうかも知れません。

しかしここで書かれていることは、神と共にいる忠実な者に対して争う者は恥じ入り、辱められると言っています。自分が御心に従っていないのであれば、恥じ入り、辱められるのは逆に自分になってしまいますので、謙って御心を求める必要があります。

4、贖い主

今日の聖書箇所は、既にお気付きの方もおられるかも知れませんが、平行法と共に11、12節を中心とする中心構造で書かれています。13節は10節と対称となる内容が書かれています。「私は主、あなたの神。あなたの右手を取って」。10節では、「主の右手で支える」と言われましたが、今度は、「あなたの右手を取って」と言われます。

理屈っぽい人は、なぜ右手であって左手ではないのかと思われるかも知れません。左利きの人は差別だと思われるかも知れません。イスラエルでも右利きの人が多かったためか、右手は力や権威を表します。英語でもrightは右の他に正しいという意味があります。

日本語でも優れていることを、「右に出る者はいない」と言って、これは古代中国の影響ですが、右側を優れていると考えます。そして、「恐れるな。私があなたを助ける」と繰り返します。

14節は8、9節と対称の内容ですが、「恐れるな、虫けらのようなヤコブ イスラエルの人々よ。」です。先程は、私が選んだヤコブでしたが、今度は虫けらのようなヤコブと強烈な言葉です。聖書協会共同訳は少しでも表現を和らげようとしたのか、「虫けらのようなヤコブ」と訳しますが、新改訳は原語通りにストレートに、「虫けらのヤコブ」と訳します。

皆さんは、「恐れるな、虫けらのあなた」と言われたらどのように感じるでしょうか。普通なら、「馬鹿にするな」と思われるでしょう。ある解説には、この呼び名はイスラエルの敵がイスラエルに対して使ったものかも知れないと言います。しかしこの言葉はある意味で私たちを慰めるものでもあります。

それは私たちは虫けらのような小さな存在で良いということです。ヤコブ、アブラハム、イスラエルの人々と同じように、私たちは神から拒まれるようなことを繰り返し行ってしまう愚かで、虫けらのような存在です。むしろ私たちは、謙って自分は虫けらのような存在であると認める必要があるのでしょう。虫けらのようなヤコブであるからこそ、私が選んだヤコブなのでしょう。

しかし神はそのような私たちに、「私はあなたを助ける」と約束されます。そして、「あなたの贖い主はイスラエルの聖なる方」と宣言されます。神は私たち人間の罪深さをご存じです。しかし神は聖いお方ですから人間の罪をそのままにしておくことは出来ません。では人間の罪に対してはどのように対応を行うのでしょうか。それは、「あなたの贖い主はイスラエルの聖なる方」である神ご自身であると言われます。

人間は自分で自分を贖うことが出来ません。この贖いはこの時から約7百年後の主イエスの十字架によって完成することになります。私たち自身は小さな存在です。しかし小さな存在であると自分で認める者はイスラエルの聖なる方によって贖われます。

5、喜び踊る

イスラエルの聖なる方に贖われるとどのような者となるのでしょうか。「見よ、私はあなたを新しく鋭い歯の付いた脱穀板とする。」と言われます。脱穀板を新改訳は打穀機と訳しています。打穀機は普通は米や麦の、もみ殻を取り除くためのものです。

しかし、「あなたがたは山々を踏みつけて砕き丘をもみ殻のようにする。」のです。想像できるでしょうか。私たちは山々を踏みつけます。いや私はそんなには足が長くないと思われるでしょうか。そのような問題ではありません。そして砕いて丘をもみ殻のように分けます。新しい鋭い歯は神です。しかし丘とはまた随分と大きなもみ殻です。

そして、「あなたがそれら、丘のもみ殻をふるい分ければ、風が運び暴風がまき散らす。」のです。随分とスケールの大きな話です。これは一体どういうことを意味しているのでしょうか。「山々」というのは、聖書で大きな問題を指します。ここでいう山々とは何のことでしょうか。

直接は捕囚として連れて行かれるバビロン、またその地での苦難等でしょうか。しかし神が共におられるので、バビロンのような山々も踏みつけて砕いて、丘のような問題をもみ殻として取り分けます。すると風、風は霊と同じ言葉です。霊である風が運んでまき散らします。

これらは勿論、自分の力によるものではありませんので、イスラエルは主によって喜び踊りイスラエルの聖なる方を誇ります。この喜びはこの時のイスラエルだけのものではありません。神を信じるすべての人のものです。

初めにお話ししましたが、今はコロナウイルスも少し落ち着いた感じもあります。しかしウクライナに対するロシアの侵略はコロナウイルス以上に恐ろしいものです。この世の出来事だけを見て恐れて心配していたらきりがありません。

正しく恐れて考えるべきことは考えつつ、考えても仕方の無いことは共におられる神に委ねて平安の中を歩ませていただきましょう。そして遣わされる聖霊によって私たちを奮い立たせ、助け、私の勝利の右手で支えると約束される主に信頼して歩ませていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。コロナウイルスに続きロシアの侵略と、この世の出来事に心を奪われてしまうと恐ろしさを感じるばかりです。しかしあなたは、「恐れるな、私があなたと共にいる。」と約束してくださいますから有難うございます。私たちがあなたから目を離して不信仰に陥り、不必要に恐れることのないようにお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。