「長く生き、幸せになる」

2022年6月12日説教  
申命記 5章16~22節

        

主の御名を賛美します。自分の人生を振り返って親との関係を考えてみると、父親に対しては同性であることもあり、無意識的にも競争相手と思っていた部分もあるのか、母親に対してとは比べ物にならない位に厳しい目を向けていたように思います。

今にして思うと、父を余り敬っていなかったことが私の中から幸せ、幸福度を減らしていたように感じます。父にも足りないところはありましたが、それでも親として敬っていたら、自分自身ももう少し幸福度の高い人生を送って来れたのではないかと感じることがあります。私の父はこの世にはもういませんが、しかし父を敬う心でいると幸せを感じます。父母を敬うことは、この世にいるかいないかは関係はないようです。

1、父と母を敬いなさい

二週間前の安息日についての聖書箇所から、安息日には休み、聖別することを聴きました。自分を聖別するためには、安息日毎に、この十戒の一つ一つを思い出して、自分の歩みを振り返る必要があります。十戒の五番目は、「あなたの父と母を敬いなさい」です。

「父と母を敬いなさい」と言われて、反対する人は多くはいないと思いますが、なぜ敬うのかを改めて考えてみたいと思います。9、10節で、私たちの生き方は自分の人生だけに影響を与えるのではなくて、神を憎み、神の戒めに逆らう悪い影響は三代、四代にまで及び、逆に神を愛し、神の戒めを守る者には神は幾千代にわたって慈しみを示されることを聴きました。

私たちは自分の人生は自分一人で考えて生きているように感じてしまうことがあります。しかし言葉で直接に聞いているかはどうかとか、意識しているかどうかは別にして、私たちは父と母から大きな影響を受けています。そもそも父母がいなければ、自分は存在しません。

この世に命を与えられ、世話をして育ててもらい、色々なことを教えられ本当に大きな感謝です。この世での多くのことは父母を通して与えられ、教えられますので、父母は子どもにとって神の代理人のような存在です。しかし人によっては、どうしても父母を敬えないという人もいるかも知れません。

父母と言えども罪を持った人間であって、完璧な人は一人もいません。やはり失敗は必ず犯してしまうものです。また父母としては子どものために良かれとの思いで言ったり、行ったりすることが、必ずしも、子どもにとって良いように受け取られるとは限りません。「親の心子知らず」です。

ただ問題があっても、すべての父母が子どもに対する愛情に基づいた言動であると思いたいものです。しかし最近のニュースの事件等を見ていると必ずしもそうでないように感じることもあります。勿論、極端な場合もありますが、しかし自分も一歩間違えば同じようなことに陥っていたかも知れないと思わされることもあります。

本当に毎週の安息日毎に自分の歩みを振り返ることの大切さを教えられます。十戒の、「父と母を敬いなさい」の御言は知っていましたが、自分自身が父と母を敬って来たのかと問われると初めにお話ししましたように自信を持って答えることが出来ません。

主イエスはマタイ15:4で、「神は『父と母を敬え』と言い、『父や母を罵る者は、死刑に処せられる』と言っておられる」と言われます。日本でも以前は、尊属殺人という規定があって、尊属という、両親、おじ・おば、祖父母等の両親と同列以上の血族を殺すと、他の殺人より刑が重くなっていました。

またそれに続くマタイ15:5では、その当時の決まりとして、「父または母に向かって、『私にお求めのものは、神への供え物です』という者は、父を敬わなくてもよい」としていることを批判されました。そのような形式的なことではありません。

4:40で、律法を守ることに伴う約束が、幸せになり長く生きることができるということでした。同じ意味で、神が命じられたとおりに、父と母を敬うことが律法の中心とも言えます。これからも父母を敬って長く生き、幸せになりたいものです。

2、殺してはならない

六番目の戒めは短く、「殺してはならない」です。ここで使われている、「殺す」という言葉は聖戦での敵の殺戮(聖絶)や裁判による死刑は含みません。それ以外の計画的な殺人や過失の殺人を意味します。ここでも改めて、なぜ殺してはならないのでしょうか。

すべての人は神に命を与えられてこの世に生まれます。人の生と死は神が決められることで、人間に生と死を決める権限は与えられていません。十戒については主イエスがその霊的な意味を詳しく教えてくださっています。

「殺してはならない」については肉体的な命を奪うだけではなく、マタイ5:22で、「きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる。」と言われます。とても高いハードルと言えます。しかし、「長く生き、幸せになる」ということを考えると確かにそうであると思わされます。

ところで22節の最後に、主はこの十戒を2枚の石の板に書かれたとあります。旧約聖書が書かれたヘブル語は右から左への横書きですが、2枚ということは合わせ板のようにすると折り返して中心構造として読むことも出来ると思います。そうすると隣り人の名誉も殺してはならないことの対となるのは、5番目の、神の代理人としての「父と母を敬うこと」になり、父母と同様に隣人の命も敬います。

因みに、ここでいう「殺す」という言葉には、これからの季節に私たちが殺すことのある、蚊やゴキブリは含まないと考えられます。命は尊重する必要がありますが、健康や衛生面を大切にする必要があります。

3、姦淫してはならない

七番目の戒めは、「姦淫してはならない」です。この当時の習慣として一夫多妻制があったようです。しかし結婚の奥儀を語る創世記2:24は、「男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」と言います。一体になっている二人のところに他人が入り込むのはおかしなことです。

以前に英国のダイアナ妃が夫のチャールズ皇太子の姦淫について、「私たちの結婚生活には3人がいて、ちょっと窮屈だった」と言っていました。姦淫またそれに続く夫婦間のトラブルは、本人だけではなく、結婚相手、子ども等と多くの人々から幸せを奪うことになります。

姦淫については実際に行動としては行っていなくても、主イエスはマタイ5:28で、「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである」と高いハードルを示されます。しかしこれも、長く生き、幸せになるために必要なことでしょう。

また聖書の中で姦淫という言葉は異性との関係だけではなくて、神との関係を裏切る行為を指します。その意味では、そのような姦淫は中心構造で対となる4番目の戒めである安息日を守って聖別しないことと言えます。

4、盗んではならない

八番目の戒めは、「盗んではならない」です。ここの「盗む」という言葉は狭い意味では、「人さらい」をして奴隷として売ることであると言われます。創世記37:28で、ヨセフの兄弟たちがヨセフをイシュマエル人に売ったことなどです。しかしもっと広い意味でも考えられます。

中心構造で対となる3番目の戒めの、「神の名をみだりに唱える」ことを考えると、神の名をみだりに唱えることは神の権威を盗むことです。自己中心的な自分の主張を通すために、神の名をみだりに唱えて、神の名を私的に利用してはならないことです。また自分が思っていて言いたいことを、誰々さんがこう言っていた等と他の人の名前による権威を盗んではならないのです。

5、偽りの証言をしてはならない

九番目の戒めは、「隣人について偽りの証言をしてはならない」です。この当時は科学的には余り発達していませんので、裁判では科学的な証拠というよりも証人の証言が大きな影響を持っていました。そこで偽りの証言をしては真実は大きく捻じ曲げられてしまいます。

黙示録22:15は、「犬ども、魔術を行う者、淫らな行いをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、都の外に置かれる」と言います。これらは十戒の戒めを守らない者たちです。中心構造の対から考えると、偽りの証言をする者は、二番目の戒めの彫像を造る者です。

それは真の神による真実よりも、真の神ではない偽りを慕う心です。モーセがこの十戒をイスラエルに語っているということは、神を信じるイスラエルの中に偽りの証言をする者がいるということです。これはこの時のイスラエルだけの問題ではありません。

パウロもエフェソ4:25で、「偽りを捨て、一人一人が隣人に真実を語りなさい」と言います。良い意味で見ると、何とかすべてを丸く収めようとして、それぞれの人に良い顔をしようとして八方美人的に振舞うこともあります。しかしその人が皆に良い顔をしてそれぞれに都合の良いことを言うために、返って他の人同士の揉め事が大きくなったりするということもあります。

また誰でも自分の都合の良いように事実を少し捻じ曲げて言うという弱さを持っています。しかし箴言12:22は、「主は偽りの唇をいとう。真実を行う人を喜びとされる。」と言います。神の真実である十字架によって贖われる者が、偽りの証言をするのは相応しくありません。

6、隣人のものを貪ってはならない

十番目の戒めは、「隣人のものを一切貪ってはならない」です。隣人のものとして具体的には、妻、家、畑、男女の奴隷、牛とろばなどです。貪るとは欲しがることであり、欲しがるとは心の中の問題です。考え方によっては、心の中では、どう思おうとそれは個人の自由だと思われるかも知れません。

確かに心の中で思ったことを処罰する法律は私が知る限りでは世界のどこにも無いと思います。しかしやはり、倫理的に良くないことを見聞きすることはストレスの発散にはならないどころか、問題行動を誘発する影響を与え易いようです。事件を起こした人を調査すると倫理的に良くないものを見聞きしていたということを良く聞きます。

そもそも隣人のものを貪る心では、長く生き、幸せになることはできません。中心構造で対となる1番目の主のほかに神々があってはならない、のとおりです。主なる神だけを神としているのなら、自分に本当に必要なものは全知全能の神が与えてくださっていることを知って感謝します。

隣人のものを貪る思いは神を神としないところから生まれてくるのではないでしょうか。今日は十戒の後半の戒めを聴いていますが、どの戒めの背後にも自己中心の罪が潜んでいます。自己中心ではなく、神中心である必要があります。

7、十戒

主はこれらの言葉を、山で、火と雲と密雲の中から、集会に加わったあなたがたであるイスラエルのすべてに大きな声で語り、これ以上加えられませんでした。しかしこの後に律法の細かいことを伝えています。それでも、これ以上加えられなかったというのは、この十戒が律法の中心であってすべてを纏めたものです。

そして主イエスもマタイ5章で十戒の説明をされる前に、「天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない」と言われていますから、十戒を大切にして行きたいと思います。ただ大切にはしたいのですが、十戒はただでさえハードルが高い上に、御心とは言え、先程の主イエスの説明は更にハードルを上げるものでした。

十戒は伝統的に、先週のペンテコステにイスラエルに与えられたものと言われています。与えられても守るのが難しい十戒を守る力を与えるために、同じペンテコステに聖霊が降られました。そして今や十戒は石の板ではなく、聖霊によって私たちの心に書き記されます。

私たちが長く生き、幸せになることができるように、十戒は与えられました。そしてその十戒を心に書き記し守る力を与えるために、主イエスは十字架に掛かられて聖霊が降られました。私たちが長く生き、幸せになる道は既に備えられていますので素直に従わせていただきましょう。

8、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちが長く生き、幸せになるようにと、十戒を与え、主イエスを十字架に付けられ罪を贖われ、聖霊を与えてくださいますから有難うございます。わたしたち一人一人がこの安息日に自分を振り返り、素直に悔い改めさせてください。そしてあなたから与えられているこの恵みをすべての人が受け取れますようにお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。