「主が命じられた道」

2022年6月19日説教  
申命記 5章23~33節

        

主の御名を賛美します。約5百年前に宗教改革を行ったマルチン・ルターは、大学生の時に草原で激しい雷雨に遭って、雷に撃たれて死ぬと思った時に、「聖アンナ、助けてください。修道士になりますから。」と言って、そのまま本当に修道士になりました。

1、イスラエルの畏れ

モーセはホレブ(シナイ山)で十戒等の律法を授けられた時のことを、これから神の約束の地に入って行こうとしているイスラエルに語っています。その時のことを、「山は火に包まれ、あなたがたが闇の中からの声を聞いたとき、部族の頭たちも長老たちも皆私、モーセに近づいて来て言いました。」

モーセはここで目の前にいるイスラエルに「あなたがた」と語っています。しかし、実際に神の声を聞いた「あなたがた」は、目の前にいるイスラエルの人々ではなくて、彼らの先祖たちです。しかしそれは同じ「あなたがた」であるとして語ります。それは3節に、「私たちの先祖とではなく、まさに私たちと、今ここで生きている私たちすべてと、主はこの契約を結ばれた。」とあった通りです。

想像していただきたいのですが、火に包まれた山で、闇の中から神の声を聞いたら一体どのように感じるものでしょうか。イスラエルは言いました。「ああ、私たちの神、主は、その栄光と偉大さを示され、私たちは火の中から御声を聞きました。今日、神が人と語られ、それでも人が生きているのを見ました。しかし、今どうして私たちが死ななければならないのでしょうか。」

4:33にもありましたが、この当時は、神の声を聞くと死ぬと考えられていました。神はそれ程に畏れ多いお方です。確かに火の中から神の声が聞こえたら怖いでしょう。イスラエルの人々が神の声を畏れたのは自然なことでしょう。

続けて、「まさに、この大いなる火が、私たちを焼き尽くそうとしているのです。もしこれ以上、私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死んでしまいます。すべての肉なる者のうちで、誰が、火の中から語りかける、生ける神の声を、私たちと同じように聞いて、なお生きていられるでしょう。」と言いました。イスラエルは完全にビビってしまいました。

2、聞いて行う

ビビリまくっているイスラエルはどうするのでしょうか。イスラエルはモーセに、「どうかあなたがそばに行き、私たちの神、主が言われることをすべて聞いて来てください。」と頼みます。主から直接に自分が聞いて死んでしまうのは嫌なので、あなたが聞いて来てくださいとモーセを経由することを願います。

その場合にはモーセはどうなるのでしょうか。モーセはどうなっても良いと思っているのでしょうか。それともモーセはこれまでも神と語り合っていて何んともないので大丈夫だと思ったのでしょうか。畏れのために特に何も考えずに取り敢えず自分が聞くのは嫌だと思ったのでしょうか。

まずモーセが聞いて来て、「そして、私たちの神、主があなたに語られたことをすべて私たちに語ってください。」と言います。そうするならばイスラエルは確かに安全です。「そうすれば、私たちはそれを聞いて、行います。」と言います。モーセが聞いて来て、イスラエルに語り、イスラエルが聞くことはできます。

問題はイスラエルが聞いて行うということです。確かに聞くというのは、聞いたことを行うことです。1節で、「聞け、イスラエルよ」の後には、「これを学び、守り行いなさい」とありました。聞いたことを行わないのであれば聞いたことにはなりません。

イスラエルは本当に聞いて本当に行うのでしょうか。二つの問題があります。一つは、イスラエルがここでなぜ、「聞いて行います」と言っているのかです。イスラエルは火の中から語る神の声を畏れています。しかし人間は弱いもので、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ものです。

少し時間が経てば神の声を忘れ、自分で行いますと言ったことも忘れてしまうものです。そしてもう一つは人間は罪深くて、自分で行いますと言って行おうと思っていることを実際には行う力が無いことです。

主はイスラエルがモーセに語った声を聞かれました。28節にある二つの「声」は原語では「言葉の声」と書かれています。主は、「彼らが語ったこと、言葉はすべてもっともである」と言われます。確かに語った言葉自体は正しいことです。

それに対して主はイスラエルに3つのことを願われます。3つのことというよりも正確には一つのことが実現すれば後は続くものです。それはイスラエルが主を畏れることです。箴言1:7に、「主を畏れることは知識の初め」とあります。正しい知識は神がこの世を造られ支配されていることを知ることから始まります。

すべての知識は主を畏れ敬うところから始まります。そして主を畏れる者は二つ目の、主のすべての戒めを守る心をいつも自分の中に持ち続けます。そしてこの前に語られた十戒を守ります。十戒を守る者は三つ目の、彼らもその子孫も、いつまでも長く生き幸せになります。長く生き幸せになるかどうかは、ただ一つ、主を畏れるかどうかに掛かっています。

29節は、「~であるように」と願いを表す文章ですが、「~すればよいのだが」とも訳せる、叶えられそうもない願いや、裏切りが予想されるものです。「~であるように」という言葉は、原語を直訳すると、「誰が与えるか」と書かれています。

「主を畏れ、戒めを守る心を持ち続け、幸せであることを、誰が与えるか」という疑問文です。逆に言うと、誰かが与えなければ、人は主を畏れ、戒めを守る心を持ち続け、幸せであることができないということです。

3、主の思い

主は全知全能のお方ですからこの後にどうなるかはすべてご存じです。しかし主はイスラエルの願い通りに、彼らは天幕に帰し、モーセだけが主と共にとどまるように命じられました。そして主はモーセに戒めと掟と法をすべて語られ、モーセはイスラエルに教えます。

ここまではその通りに行われます。そしてその結果として、「そうすれば、彼らは、私が所有させる地で、それを行うであろう。」と言われます。ここの「それを行うであろう」という言葉は強意形で書かれているので、新改訳の、「それを行うのだ」の方がニュアンスは近いと思います。

それはイスラエルが実際に行うかどうかは別として、「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない。」ということです。

旧約聖書を読んでいると、つくづくと考えさせられることがあります。それは神は全知全能のお方ですので、イスラエルに十戒を中心とする律法を与えても自分の力で守り行えないことはご存じです。それなのになぜ、十戒を与えて守り行わなければならない等と命じられるのでしょうか。

実行できる可能性が少しでもあるのならまだ分かりますが、絶対に実行不可能なことを命じられるのは少し意地悪なようにも感じてしまいます。明らかに上手く行かないという見通しが付いている時に、主はどのような思いでおられたのかと考えさせられます。皆さんはどのように思われるでしょうか。

それは私たちが幼子を導くときに似ているのかも知れません。幼子が明らかに間違っていて、そのまま進んで行くと危険な状況になる時には直ぐにその場で正しい方向へと向けさせます。ただある程度の失敗は大目に見守って行く必要があります。幼子は失敗をしながら学んで行くからです。

失敗をしそうだからといってすべてを止めていたら幼子は何もできなくなってしまいます。危険な失敗に繋がらないと思われる時には、自分の思うようにさせて学ばせることは大切なことです。自分で行って失敗しながら少しづつ学んで行くものだからです。

この時の主の思いはそのようであられたのかと思います。イスラエルが、「聞いて行います」と言っているのに対して、初めから、「お前にはそんなことは絶対に無理だ」と頭ごなしに否定してしまったら、イスラエルは挫けていじけてしまうかも知れません。

主は人間をロボットのように機械的にコントロールされるのではなく、人間の自由意思を尊重され、自由意思によって主を畏れ、幸せになることを待っておられます。それはルカ15:11からのところに書かれている放蕩息子の譬え話に書かれているように、人間の自由にさせつつ神に立ち帰るのを待っておられます。

そのように考えますとなぜ旧約聖書の歴史があって、旧約聖書が今、存在していることの理由が分かります。旧約聖書があっても、多くの人たちは自分の力だけで生きていけると思っていますし、頼りになるのは自分の力だけだと思っています。私自身も以前はそのように思っていました。

そして散々、自分の力だけで生きて行って、上手く行かないことを経験して、なぜだろうと悩んで、初めて神を信じるようになる人が多くいます。それはそれで良いのかも知れません。しかし自分の力で生きて失敗を繰り返し上手く行かなかった人の歴史は旧約聖書に沢山書かれています。

旧約聖書を読むと、人が自分の力に頼って生きて行くとどうなるかが分かります。「歴史から学ばない者は同じ過ちを繰り返す」と言われます。旧約聖書の歴史は、後の世代の人たちが同じ過ちを繰り返さないための教訓としても必要でした。

旧約聖書を読むと、人生が上手く行かないのは、自分がだめな人間なのだからではなく、人間とはそもそも罪深い存在であるのが理由であることが分かります。旧約聖書を与えられている私たちは恵みとして、旧約聖書の時代を生きた人たちに感謝して、そこから学ばせていただきたいものです。

4、主が命じられた道

主は続けて、「あなたがたの神、主があなたに命じられた道をひたすら歩みなさい。」と言われます。主が命じられた道とはどのような道なのでしょうか。それは29節では、「主を畏れ、戒めを守る心を持ち続け、幸せである道」です。しかしそれは言葉としては分かるのですが人間の力では実行不可能で歩むのが不可能な道です。

そこで主は私たちが歩むことのできる新しい道を備えてくださいました。それは主イエス・キリストという新しい道です。主イエスはヨハネ14:6で、「私は道である」と言われ、「私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」と言われました。

私たち人間は神の戒めを守り行いたいという思いはあっても、罪深いために行うことができません。しかし主イエスが私たちの罪の身代わりとして十字架に掛かり私たちの罪を赦してくださいます。そして2週間前のペンテコステに聖霊がこの世に降られ、聖霊の働きによって主を信じる者に、主を畏れる思いを与え、戒めを守る心を持ち続けさせ、幸せであるようになさってくださいます。

主は私たちに道を備え、主が備えられた道をひたすら歩みなさいと勧めてくださっています。そしてそうすれば、「あなたがたは生き、幸せになり、あなたがたが所有する地で長く生きることができる。」と約束としてくださいます。主イエスが私たちのために命を献げて備えてくださった道、命じられた道を共に歩ませていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは誰でも幸せになり、長く生きることを望むものです。そしてそのために自分で努力をして行おうとしますが、私たちは罪深いために自分の力では行えないものです。

しかしすべてをご存じであるあなたは、主イエスを信じる道を備え、その道を歩めと命じられます。私たちが自分の経験、また旧約聖書を通して人間の罪深さを知り、あなたが備えてくださった道をすべての人が信じることができますようにお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。