「望みの岸に向かって」

2022年6月26日説教 
使徒言行録27章13~26節、エレミヤ29章11節                          宇都宮ホーリネスキリスト教会 古川信一牧師

パウロは囚人として船でローマに護送される途中、地中海の真ん中で突然の嵐に遭遇します。船は操縦不能に陥り、絶望的な状況に追い込まれます。その時パウロは力強く希望を語ります。

(1)嵐を乗り越えさせる力としてのしなやかな心

「船はそれに巻き込まれ、……流されるに任せた」(15)。巨大な暴風の中で、人びとは難破や座礁を避けるためのできる限りの対応を取りますが、行く手を阻む強大な力の前に進路を維持することができず、漂流するしかなかったのです。しかし結果的に全員が上陸を果たします。つまり流されることが嵐を乗り越えるための最善の道だったのです。私たちは嵐の中でこそ、自らの力の限界を知り、主に任せることを学ぶのかもしれません。それはどうにもならない現実へのあきらめや妥協ではなく受容なのです。そこに求められるのは心のしなやかさです。流されるとは流れに乗ることです。流されることは無力さやあきらめではなく、むしろ自分の弱さをから目を背けないことであり、今置かれている苦しい現実を静かに受け入れる、柔軟でしなやかな心の姿勢ではないでしょうか。

(2)絶望の船を照らす希望のともしび

「しかし、今、あなたがたに勧めます。……」(22)。今とはまさに絶望的な今、最も元気を失っている今、死の恐怖に怯えている今、最悪の状況に見える今です。なすすべもなく嵐の海を流され、懸命の努力が何一つ報われず、生きる希望を断たれてしまった船の中で、なぜただひとりパウロだけが希望を語ることができたのでしょうか。23節、24節にその理由が語られています。それは、「私の仕えている神」(23)への礼拝を通して受け取った希望、みことばの約束に根ざす希望です。「ですから、皆さん。元気を出しなさい」(25)。この希望がその後の困難を耐える力になったのではないでしょうか。結局船は嵐の海を14日間漂流します。もしこの希望がなければ、船の人びとは恐怖のあまりパニックに陥り、体力も限界に達し、少なくとも276人全員が奇蹟の生還を果たすことはできなかったはずです。希望が船を救ったのです。本物の希望は絶望の中から生まれます。神から来る希望は、私たちの絶望のやみを照らし、周囲の人びとに神を証しさせ、一緒に航海している仲間を救うことにつながっています。ひとりの礼拝者の存在は、共同体の命運を左右するのです。

どうすることもできない嵐に出会ったときは流れに逆らわず、共におられる主に信頼して握りしめた手を離し、力を抜いて聖霊の風に身を委ねるしなやかな心を与えていただきたいものです。絶望の墓を打ち破られた甦りの主イエス・キリストが、教会の船旅を導いておられるからです。真っ暗闇で今はまだ見えないかもしれませんが、船は望みの岸に向かって確実に近づいているのです。