「目標を目指して」

2022年7月31日説教 
フィリピの信徒への手紙3章10~16節                        安井光牧師(松山桑原キリスト教会、土居キリスト教会)

 70周年のテーマは、「『あした』~これまでの歩みに感謝。そして新たなあしたへ」であると伺っています。過ぎ去った日々を顧みて、ここまで守られたことを感謝しつつ、明日へ向かって歩み続ける茂原教会であり 皆さん一人一人であると思います。

「あした」は前にあります。皆さん 前に向かって歩んでおられます。使徒パウロも「あした」に向かい、前に向かって歩んでいました。私たちクリスチャンには、向かうべき「あした」がはっきりしています。それは「目標」という言葉に言い換えることができるでしょう。パウロは「あした」に向かい、目標を目指して走っていました。パウロの目指していたものは、実に皆さんが目指しているものでもあるのです。それはいかなるものなのでしょうか。

Ⅰ.キリストに目を向ける

 パウロは自らをイエス・キリストの使徒、キリスト・イエスの僕などと紹介しますが、救われる前はキリストに敵対し クリスチャンへの迫害の先頭に立っていた人でした。3章の前半でパウロはそのことに触れています。「肉を頼みとし」ていたという表現をしていますが、自分は誰よりもユダヤ教に精進し 律法の義に関しては非の打ちどころのない人間だという自負がありました。パウロは自他共に認めるユダヤ教徒のエリートでした。しかしそんなパウロの人生観が180度 変わってしまう出来事が起こったのです。それはイエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストによる救いの経験でした。イエス・キリストの十字架の贖いにより、信仰によって神に義とされたことによって、パウロは自分が頼みとし 自分が価値を置いてきたものが 小さく取るに足らないものと思うようになったのです。それはイエス・キリストに真の価値を見出したからでした。

パウロが見ていたもの、それは確かにイエス・キリストの姿でした。コリントの信徒への手紙一15章1節以下で、パウロは最も大切なこととしてイエス・キリストの死と復活を宣べ伝えていたと語っています。パウロの目は、十字架で死なれたキリストに 死者の中から復活されたキリストに、いつも注がれていたと言っても過言ではないでしょう。そのようなキリストに対する眼差しのなかで、パウロはフィリピ3章10節以下で語っているように「私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」という思いを抱くようになっていたのです。

この時 パウロは獄中にいました。パウロはコリントの信徒への手紙二11章23節以下で、自分が経験した数々の困難を列挙しています。そこを読むとパウロがキリストの苦しみにあずかり キリストの死の姿にあやかり…と言っているのが大袈裟な話ではないことが分かります。困難な状況に置かれながらも、パウロは希望を失いませんでした。それはキリストを見ていたからでした。キリストは私たち罪人を救うために十字架で苦しみを受けられた。キリストは十字架で死なれたが 死を打ち破り復活なさった。キリストを信じる私たちもまた復活する…。このお方が またこのお方による約束が、パウロに与えられていた確かな希望だったのです。パウロは復活を目標にし イエス・キリストを仰ぎ見ながら一日一日 歩んでいたのです。

 パウロは12節で、「私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」と言っています。私はイエス・キリストに目標を見出し、また希望を見出している。私は今この目標を目指して走っている。前に向かい 完成を目指し、完成を追い求めている信仰者の一人なのだと、パウロは言っているのです。目当てのものを得ようとキリストに必死にしがみついているのではなく、キリストが私を捕らえておられるというのです。私たちも「キリスト…によって捕らえられて」います。キリストから離れることがないよう 自分の力でしがみついているのではなく、キリストが皆さんを捕らえておられるのです。

Ⅱ.目標を目指して走る

 13節を見ると、パウロがどのような姿勢で目標を目指し「あした」に向かって歩んでいたのかが分かります。「後ろのものを忘れ」とあります。「後ろ」にあるのは、一つは過ぎ去った日々のこと、過去ということができます。過去を振り返らないということでしょうか。そうではないと思います。「過去」と言った場合、それは肯定的に捉えられるものと否定的に捉えられてしまうものの両方があるのではないでしょうか。

神に感謝することにおいては、いくら過去を振り返っても し過ぎることはありません。でも感謝するだけでなく、「良くしていただいた過去に留まっていたい…」とただ余韻に浸り、「あの頃は良かったけれど、今の状況は…」と呟きが出てくるとすれば、そこから離れなくてはならないでしょう。過ぎ去った日々には、振り返りたくないこともあると思います。思い出すと辛くなることや苦しくなることもあるかもしれません。そういう場合においても、「後ろのものを忘れ」「あした」に向かうことが大事だと思います。

「後ろのもの」とは過ぎ去った日々でもありますが、パウロが前の所で語った「肉の頼み」もその一つではないでしょうか。イエスの救いを受ける以前に自分が誇りにし 頼みにしてきたものです。またイエスに救われる以前に、自分が背負ってきた様々なもの、罪の重荷や世の中のしがらみもそうでしょう。私たちはイエス・キリストによって、それらものから解き放たれたのです。それなのに、「後ろのもの」になお囚われたり しがみついたりしていては、思うように前に進むことができません。ある先生は、「前に進むためには、信仰的な〝断捨離〟が必要だ」と語っています。

パウロはまた「前のものに全身を向けつつ」歩んでいました。前に体を伸ばし 体を前に投げ出しているパウロの姿が目に浮かんできます。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」。歩いているのではなく 私は走っていると、パウロは言っています。パウロは、クリスチャン生活について語る時に、しばしば競技や競走に例えています。

パウロに言わせるならば、競走において走っているのは競技場やコースを走る走者だけでなく私たちがそうなのだというのです。私は走っているし、あなたがたもまた走っているというのです。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走」っているのです。自分の力でゴールまで走り切り、「神の賞」を勝ち取れというのではないのです。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神」が、この競走に私たちを参加させて下さっており、この競走を完走させて下さるのです。後ろから鞭を打つように私たちを競走に駆り立てられるのではなく、前から私たちを招き寄せるようにして、私たちに目標を示され、走るべき道程を導いておられるのです。

「あした」に向かい、目標を目指して走っていたパウロですが、結局のところ目標とはイエス・キリストご自身ではなかったかと思います。パウロの手紙ではありませんが、ヘブライ人への手紙12章2節に「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう」とあります。パウロはイエス・キリストの御足跡を辿り、キリストを追い求めていたのです。人生には苦難があり、死という最大の試練がある。しかしその先にキリストが備えておられる御国があり、復活が約束されている。「キリスト・イエスにおいて」神が私たちを「上に召してくださる」。そのことを思いながら、パウロはキリストに導かれて直向きに人生の道程を走っていたのです。

16節で「いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう」とパウロが語るように、私たち各自にはそれぞれ神から与えられた人生があります。皆さん一人一人に違った 走るべき人生の道程があります。それは人とは比べることができません。神は一人一人にご計画を持たれ、実現に至らせて下さいます。神はまた各自の異なる状況をご存知であり、状況に沿った導き方をなさいます。ただそのことともに、私たちにはクリスチャンとして違わない生き方があり、同じ目標に私たちは導かれていることを忘れないでいたいと思います。イエス・キリストに目を注ぎ、「あした」に向かい 目標を目指して走り続けようではないでしょうか。