「 誰も知らないことのために 」

2022年8月14日説教
ヨハネによる福音書 3:9~15                                                   野田栄美

中心聖句:ローマ5:8「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」

  • はじめに

先週はお休みをいただき、ありがとうございました。お休みの間、役員の方をはじめ、お祈りに覚えてくださった方々、様々なご奉仕を担ってくださった方々、皆さんに心から感謝いたします。3年ぶりに自宅を離れて、家族全員でゆっくり過ごすことができました。健康も守られて、神が共にいてくださったことを心から感謝しています。

いつも、新しい土地に行くと、「百聞は一見にしかず」というのは、本当だと感じます。「見る」というのは、実際そこで五感で感じ取り、体験するということです。たくさんのことを調べたり、聞いたりしていても、知識では補うことのできないことがあります。

今回の旅行でも、息子が歴史的な建物が見たいと言うので、江戸時代の茅葺屋根の民家が残されている宿場町や城へ行きました。行く前には地図を見て、時間が掛かると思っていたのですが、行ってみると田舎道を行くのでほとんど信号がなく、短い時間で到着しました。地図上の距離だけでは分からないことでした。

ましてや、外国のことであれば尚更です。その国のことは、やはりそこへ住んだことがある人こそが、その国を知っている人です。その人に聞かなければ、分からないことがあります。

  • 天上のことと地上のこと

今日、お読みした聖書は、主イエスとニコデモの会話です。2人が話しているのは、神の国を見るためには何が必要かということです。「神の国」とは「神の支配の及ぶところ」であり、更に言い換えれば「神の支配を受け入れる人と共に、神がいてくださるところ」です。神の国は、主イエスを受け入れる人の中で始まり、再び主イエスがこの世に来られる時に完成します。

その神の国とはどんなところなのでしょうか。黙示録21:4には神の支配が完成されたところには、「もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。」と記書かれています。神の支配があるところには、いつも人への愛があります。

先月のメッセージでは、その「神の国」を見るためには、人が聖霊によって新しく生まれることが必要だと知りました。その命は、永遠の命であることも知りました。これは、地上にいる人間の心の中で起こることです。つまり、地上でのできごとです。

神の国を見るためには、もう一つ大切なことがあります。それは、天上のことです。神がおられる天のことです。12節には、「私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」とあります。ここにある地上のこととは、先ほどお話ししたように、聖霊によって人が新しい命をいただくことです。では、もう一つの天上のこととは何でしょうか。

  • 蛇のできごと

14節には「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」とあります。これが、天上のことです。

 モーセが荒れ野で蛇を上げた話は、旧約聖書の民数記21章4~9節に書かれています。モーセは、神に立てられた古代イスラエルの指導者でした。イスラエルの民が奴隷生活を送っていたエジプトから、神の奇跡によって脱出し、神の与えられた土地であるカナンへ向かった時のリーダーです。その間、イスラエルの民は、数々の偉大な奇跡を目の当たりにしました。海が激しい風によって2つに分かれ、その間をイスラエルの民が渡った話は非常に有名です。

しかし、イスラエルの民は、それほどの奇跡を見たにも関わらず、繰り返し神に不満を言い続けました。蛇のできごとは、その彼らの不満が引き起こしたできごとでした。

彼らは、食べ物に困るような荒れ野で暮らしていました。ですから、食べ物は、神が奇跡によって与えてくださいました。毎朝、外に出ると、蜜の入った薄焼きパンのような味がするマナが地面に降っていました(出エジプト16:31)。それを食べて彼らは暮らすことができました。

 けれども、彼らはこんなものを食べるのはもう嫌だ。なんでエジプトから導き登ったのかと、神を直接非難しました。そして、モーセも非難しました。再三に渡って不満を言い続ける民に、神は炎の蛇を送られました。なぜ炎の蛇と言われるのかは、分かりません。この蛇に噛まれると燃えるような痛みがあったのか、それとも炎のような色の蛇だったのかもしれません。はっきりしているのは、この蛇に噛まれて、多くの人が亡くなったということです。

 民はモーセの元に走り、言いました。「私たちは神とあなたを非難して、罪を犯しました。私たちから蛇を取り去ってくださるように、神に祈ってください。」モーセが神に祈ると、神はある不思議なことを命じられました。「蛇を造ってそれを竿の先に掛けなさい。それを仰ぎ見れば、噛まれた人は生き延びる」。モーセが青銅の蛇を造り竿の先にかけ、それを上げました。すると、神の言われた通りに、蛇にかまれた人がそれを仰ぎ見ると生き延びることができました。

  • 共通点

 神の国を見るために、成し遂げられなければならないこと、それは、人の子である主イエスが、この蛇のように上げらることです。それは、何を意味しているでしょうか。それは、主イエスが十字架に架からなければならないということです。十字架に上げられると、主イエスの姿は誰からも見ることができるようになります。これが、青銅の蛇と同じようにされることです。それは、人々を苦しめた存在として上げられることです。

 モーセの蛇のできごとでは、蛇を見上げれば生きることができると信じて、それを見上げた人が救われました。同じように、主イエスが十字架に上げられたことに加えて、必要なことがあります。それは、主イエスを見上げれば神の国を見ることができると信じて、その十字架を見上げることです。そのときに神の国を見ることができるようになります。

これが天上のことです。主イエスが十字架に上げられること、そして、それを人が見上げること、これが神の国を見るため必要なに天上のことです。

  • 人には理解できない

私は、クリスチャンではない友人に、私の信じている聖書の救いをどうやって伝えたらいいのか何度も考えてきました。でも、突然、神の子イエスが人間になってお生まれになったんだよ、そのイエスが私たちの罪を代わりに背負ってくだり、十字架にかかってくださった、だから、私たちは天国へ入れてもらえるようになったと、話したところで、伝わるだろうかと思うことがありました。

この聖書箇所は、その通りだ、人はこのことを理解できないと語っています。これは、天上のことです。天のことを、この地上しか知らない私たちが理解できるでしょうか。それを知っておられるのは、天にお住まいだった方だけです。13節に「天から降ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。」とあるように、人の子、つまり主イエスだけが、天におられた方です。天上のことについては、この主イエスの言葉を聞くしかありません。そして、それを信じる他に道はありません。他には誰も知っている人はいないからです。

モーセが青銅の蛇を上げたとき、もしかしたら、「そんな蛇を見て救われる訳がないだろう」と、蛇を見ようともしない人がいたかもしれません。神の国を見るために十字架を仰ぎ見るということも、そんなことはありえないと思ってしまうのが、私たちではないでしょうか。

ニコデモもそうです。9節には、「どうして、そんなことがありえましょうか。」と彼が答えたことが書いてあります。彼は、新しく霊によって生まれるという、地上のことでさえも理解することはできませんでした。

そのニコデモに、主イエスは10節で「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」とおっしゃいました。この「イスラエルの教師」という言葉は、「イスラエルの名だたる教師」という意味です。神に選ばれた民族の中で、神の言葉を研究する教師、その中でも名だたる教師であるニコデモでさえも、地上で起こることでも理解できませんでした。

  • 救いは神の業

 人が神の国を見るためのできごとは、それが地上のことであっても、天上のことであっても、人の思いを超えています。正に、8節にあるように「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない」と書かれた、神の霊、聖霊が働いてくださらなければ、信じることができません。

 聖書の言葉が目に留まる。聖書に興味を持つ。教会に行こうと思う。このようなことも全て聖霊の風が吹いて起こることです。そして、主イエスを神の子だと信じる。十字架によって罪から救われたと信じる。天国に行くことができる永遠の命をいただけると信じる。これらの信仰は、全て神からのプレゼントです。

 人が言葉によって説得できるようなできごとではなく、天から注がれる聖霊によって受け取ることができる贈りものです。これは、神がしてくださることです。神でなければ成し得ないことです。

  • 誰にも知られないこと

 人が誰も分からないことであれば、神がそのことをしなくても、誰にも分かりません。聖霊の風を天の父なる神が吹かせることがなければ、私たちは何も知らないまま生きて、そして死んでいきます。人が神の国を見ることができるように、地上のことも、天上のことも、するかしないかの選択は、神の手の中にあることです。

 更に言えば、それをする時にも、完全に理解してくれる人はいない中で、成し遂げなければなりません。むしろ、罵られ、嘲られ、痛めつけられながら、成し遂げなければならないことです。聖書を読むとき、それがどんなに残酷なことであったかが分かります。主イエスは、蛇のように上げられるために、どのようにされたかをご存じでしょうか。違法な裁判にかけられて、偽の証言をされ、裁判官であるピラトにも、自分の立場を守るために手を引かれてしまい、正当な判決を出されることはありませんでした。十字架につけられる時には、主イエスは鞭で何度も打たれ、長い棘のついた茨で編んだ冠を頭に載せられ、唾を吐きかけられました(マタイ27:26,28,30)。

 これらは全て、しない選択をしても、誰にも分からないことでした。それをなぜ、主イエスはする決心をし、最後まで耐え抜かれたのでしょうか。

 

  • 永遠の命を与えるために

 その答えは15節に書かれています。

「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

 父なる神、主イエス、そして、聖霊は、人間に永遠の命を与えたいと願われたので、これらのことをすることを決められました。私たちの知らないところで、まだ、私たちが何も知らない時に、主イエスが十字架に架かられることを決めてくださいました。

 親のありがたみは、自分が親になってからようやく分かると言います。私たちは、神がしてくださったこの決断と、また、十字架の苦しみがもたらした素晴らしい恵みを完全に理解するようになるのは、神の国が完成する時でしょう。それはまだ先のことです。それでも、私たちが分からなくても、十字架にかかるよと主イエスは言われました。あなたが大切だ。あなたに永遠の命を得て、神の国を見て欲しいと、おっしゃっています。ローマ5:8にはこうあります。

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」

 誰も知らないことのために、主イエスはご自分の命を捧げてくださいました。ここまであなたを大切にしてくださる方が他にいるでしょうか。この愛の贈りものを是非受け取っていただきたいです。そして、共に神の国を見させていただき、神の愛に心からの感謝を献げましょう。