「主の聖なる民」

2022年8月21日説教  
申命記 7章6~15節

        

主の御名を賛美します。安倍元首相の襲撃事件から政治と宗教の関りのあり方の問題として大きな広がりとなっています。特に今回、関わっている宗教がカルトと呼ばれる反社会的な団体であることが大きく注目される原因になっています。

良し悪しは別として昔から政治は宗教を利用するものです。それは現在、連立を組んでいる与党を見れば明らかで、票を獲得するためには信条には拘らないで、どこの宗教団体とも関わる政治家も多いようです。

宗教の方にも問題があります。いわゆるご利益宗教になって、この宗教と関われば、このようなご利益に与ることが出来るということを謳い文句にして宣伝します。ところで、ご利益宗教とそうでないものとの違いはどのようなことでしょうか。キリスト教はご利益宗教なのでしょうか、それともそうではないのでしょうか。御言を聴かせていただきましょう。

1、主の聖なる民

2節で主は、異教人が象徴する悪を滅ぼし尽くしなさいという厳しい命令をされました。6節は原語では、「なぜなら」という理由を表す言葉から始まって、理由として過去の歴史の説明が8節まで続きます。そこで新改訳は6a節を、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである」と訳しています。

悪を滅ぼし尽くすのは、主の聖なる民だからです。主の聖なる民は、2、3節にありましたように、悪と契約を結んだり、悪を憐れんだり、悪と婚姻関係を結んだりしません。この時の主の聖なる民であるイスラエル、そして現代の主の聖なる民であるクリスチャンは、そのようなことをしません。

ところで主の聖なる民はどうして主の聖なる民とされたのでしょうか。それは主が選ばれたからです。いや、私は私が自分で神を信じたのだと感じる方もおられるかも知れません。しかしヨハネ15:16で主イエスは、「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。」と言われます。

そして主が選ばれ主の聖なる民とされる者は主にとって大切な宝の民とされます。主の聖なる民は数が多くて有力だったから主が心を引かれて選ばれたのではなく、どの民よりも少ない弱い民でした。ではなぜイスラエルが選ばれたのでしょうか。2つの理由があります。

一つ目は、「ただ、あなたがたに対する主の愛のゆえに」です。主は弱い者を愛し選ばれるお方です。コリントの信徒への手紙一 1:27、28でもコリント教会員が選ばれた理由は、「この世の愚かな、弱い、取るに足りない、軽んじられている者であるから」と言います。

主は自分の愚かさ、弱さ、無力さを受け入れ、認める者を愛し選ばれます。自分の弱さを覚えて、それを受け入れ認めるなら神に愛されます。ですから自分の弱さを安心して受け入れましょう。強がる必要はありません。主がイスラエルを選ばれた2つめの理由は、あなたがたの先祖である、アブラハム、イサク、ヤコブ等に誓われた誓いを守るためです。先祖たちへの誓いはこの時から数百年前のことですが、主の誓いは変わることがありません。

人間的な感覚からいうと、いつ主の誓いは果たされるのだろうかと感じることもあります。しかしペトロの手紙二 3:6にあるように、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」ので、自分の感覚で判断をするのではなく、主の時を待ちましょう。

主の時であるイスラエルがエジプトに来てから430年後に、主は力強い手によってあなたがたを導き出し、奴隷の家、エジプトの王ファラオの手から、あなたがたイスラエルを導き出し、クリスチャンを罪の世界から導き出されます。ここまでは悪を滅ぼし尽くす理由であり、主の聖なる民であることの説明です。

2、真実の神

9節からは命令とそれに伴う約束がまた繰り返されます。9a節は命令で、「あなたは、あなたの神、主こそ神であり、真実の神であることを知らなければならない。」です。主こそ神であり、真実の神であるというのは、どういう意味においてでしょうか。

原語では文の初めに、「そこで」という接続詞が入っています。ここで、「主こそ神であり、真実の神である」というのは、イスラエル、クリスチャンを選ばれた理由の通りです。数が少なく弱い者を愛され、先祖に誓われた誓いを守られるという意味においてです。数が少なく弱い者を愛され、先祖に誓われた誓いを守られる、だから主こそ神であり、真実の神であるということです。

9b、10節は9a節の命令に伴う約束です。主はご自分を愛する者、ここで愛する者とは、その戒めを守る者のことです。愛する者は愛する相手の言う戒めを守ろうとするものです。そのように主の戒めを守ろうとする者に、主は幾千代にわたって契約と慈しみを守られます。

主はイスラエルの先祖に誓われた誓いを数百年、数千年に渡って守って来られました。しかし私たちは数年、数十年の期間で考えて、自分の家族、子ども、孫、子孫は果たして救われるのだろうかと不安に感じることもあります。神の救いは神の時に起こることですので、神の契約と慈しみに信頼していましょう。

神はご自分を憎む者には報いて滅ぼされます。神を憎む者とは神の戒めを破る者です。神の戒めを破り、悪を滅ぼさない者は自分が滅ぼされます。悪を滅ぼすか、自分が滅ぼされるかの二者択一です。主はご自分を愛する者、憎む者のそれぞれに報いられます。

3、愛し、祝福し

そこで11節では結論の命令として、「あなたは、今日、私が行うように命じた戒めと掟と法を守らなければならない。」と命じます。この命令はこれまで何度も繰り返されて来ました。5:33でも同じように命令をして、それに伴う約束は、幸せになり、長く生きることができるということでした。今日も同じような話を繰り返し、幸せになり、長く生きるということを深堀りして行きます。今日の聖書個所では、主の法に聞き従い、守り行うなら、主は、あなたを愛し、祝福し、数を増してくださる、と言います。愛し、祝福することは具体的には数を増すことであると言います。

しかし私たちは主の法を守り行うことに伴う約束である13~15節の内容に葛藤を覚えるものです。主は契約と慈しみを守り、これらの約束を果たされると言われますが、私たちの生きている現実とは違うと感じるからです。

確かに、新しい土地に入って行くイスラエルにとって、食べたり飲んだりするものは、生きて行く上で欠かすことのできない、命に関わる大切なものです。民の数は大切で、戦うためにも必要ですし、現在でも人口は国力を表す一つのバロメーターです。また病が広がればイスラエルは滅びてしまうかも知れません。旧約聖書の内容は物質的な具体的な表現が多く使われています。

8節にあるように、イスラエルは奴隷の家であるエジプトの王ファラオの手から贖い出され、約束のカナンの土地に導き入れられ、異教人を滅ぼし尽くし、法を守り行うことによって、数を増してくださり、病を取り除かれます。これらはこの当時には本当に必要なものだったのでしょう。

しかし現代は状況がかなり異なりますし、何よりも主イエスの十字架により世界は大きく変わりクリスチャンは霊的に生きる者とされました。霊的に生きるクリスチャンにとって聖書は霊的な糧を得る霊的な教えです。

罪の奴隷の家であるエジプトから贖い出されることは、主イエスの十字架によって罪の象徴であるエジプトから贖い出されることであり、約束のカナンの地に導き入れられることは、神の国に導き入れられることです。悪の象徴である異教人を滅ぼし尽くすことは悪を滅ぼし尽くすことでした。

そうであるなら、本聖書箇所の愛し、祝福し、数を増し、病を取り除くというのも、物質的なことというよりも霊的な意味の教えです。それはどのような意味なのでしょうか。民の数は、この当時は結婚して子どもを儲けたり、契約による養子等によるものでした。

しかし現在では主イエスを信じる者はすべてが主イエスを頭とする兄弟姉妹となり、すべてが神の家族として祝福されます。そして食べたり飲んだりするものは、神が荒れ野でマナや水を与えられたように必要なものは神が与えて祝福してくださいます。

病は、私たちには計り知ることのできない部分もあります。この世にあっても神癒によって癒されるものもありますが、この世ではたとえ癒されることがなくても、この世の終りには栄化の恵みによってすべての病は癒されます。

4、主の聖なる民②

初めにお話しましたご利益宗教とそうでない宗教の違いはどのようなことでしょうか。色々なことが考えられます。ご利益宗教は物質的な豊かさを求め、本物の宗教は救いや永遠の命といった霊的な祝福を求めるのでしょうか。そのような感じもしますが、ご利益を求めるということでは同じような気もします。

ご利益宗教は自分の物質的な豊かさを求め、本物の宗教は他の人の祝福を求めるのでしょうか。しかしカルトと呼ばれるものであっても、他の人の祝福を求めるようなことも言っています。

ご利益宗教は13~15節にある物質的な豊かさを自分が求めます。しかし本物の宗教は、弱さを含めて神が与えてくださるものを感謝して受け入れて、神と共に歩むものです。

ただクリスチャンはこの世においては物質的な祝福には与ることができないということではありません。神の恵みは大きくすべての領域に及びますのでこの世において物資的に祝福に与る人もいます。しかしこの世で物質的に豊かな人がすべて神に祝福されているとは限りません。

この世でいくら物質的に豊かであってもこの世の終わりと共に滅びてしまうのであれば空しいものです。主イエスの十字架によって贖い出されて、主の聖なる民とされる者は、そのようなものには目を注ぎません。

クリスチャンはコリントの信徒への手紙二 4:18にあるように、「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。」

主の聖なる民は7節にありましたように、この世的な民の数の多さで強さを誇るのではありません。むしろ逆でその弱さゆえに主に愛される者です。この世的な視点からは豊かに見えないかも知れません。しかしコリントの信徒への手紙二 12:9は、「主の力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言います。

主の力が完全に現れるなら、たとえこの世的には豊かに見えなくても、14節が言うように、「あなたはどの民よりも祝福される」のです。それが主の聖なる民です。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちはあなたによる救いを求め感謝しつつ、同時に、この世の豊かさも求めてしまう弱い者です。しかし私たちは私たちの弱さのゆえにあなたに愛される者です。

聖霊の満たしの中で、私たちがあなたが与えてくださる恵みを感謝し、弱さの中で現れるあなたの力により頼んで、主の聖なる民として歩ませてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。