「あした」

2022年8月28日説教  
創世記 16章1~16節

        

主の御名を賛美します。私たちは人生の色々な節目で岐路に立つことがあります。今日の聖書箇所もそうですし、私たちの茂原教会は70周年という大きな節目にあります。これからどのような、「あした」を目指して私たちが歩むことを主はお望みなのでしょうか。御言を聴かせていただきましょう。

1、問題の拡大

15:5で主はアブラムに、あなたの子孫は星の数のようになると言われ、15:6でアブラムは主を信じて義と認められました。アブラムは13章では甥のロトと別れる時にロトに好きな土地を選ばせるなど、信仰的に順調に歩んで来ました。しかしアブラム夫妻には問題がありました。

それが1節の、「アブラムの妻サライには、子どもが生まれなかった」ことです。15:2、3でアブラムは主に、このままでは自分の家の後継ぎは僕のダマスコのエリエゼルですと2回、訴えています。しかし主は15:4で、「僕が後継ぎではなくて、あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ」と、後継ぎはアブラムの実子であると言われました。

いくら神の約束が与えられていても、長い間、果たされないことは大きな苦しみですが、これも訓練なのでしょう。この後にも30章で、ヤコブの奥さんのラケルも同じ問題で苦しみますが大きな苦しみです。ところでアブラム夫妻には、その名をハガルと言うエジプト人の女奴隷がいました。

アブラム夫妻が12章で飢饉のためにエジプトに行った時に、ハガルは奴隷になったのかも知れません。当時は子がない場合には、奴隷の子を養子にするのが一般的な習慣でした。この時に恐らく75歳になっていたサライはアブラムに言いました。

「主は私に子どもを授けてくださいません。どうか私の女奴隷のところに入ってください。そうすれば私は彼女によって子どもを持つことができるかもしれません。」これはサライの苦渋の決断です。サライはカナンの地に来てからもう10年が経ち75歳になり、もう仕方がないという投げ槍な部分もあったのかも知れません。

女奴隷の産んだ子は妻サライのものとされます。また確かにこのようにすれば、15:4で主が言われた、「あなたであるアブラム自身から生まれる者が跡を継ぐ」という言葉は一応は満たされることになります。アブラムはサライの願いを聞き入れました。アブラムはなぜそうしたのでしょうか。

アブラムは身近にサライの苦しみを見続けてきて、何とかその苦しみから解放してあげたいという気持ちもあったことでしょう。そしてこれが神の計画なのかもしれないと思ったことでしょう。

しかし神は創世記2:24で結婚の奥儀として、「男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」と言われ、夫婦は一心同体であると言われました。女奴隷によって子どもを儲けるといったこの世的な方法によって、神がご計画をお立てになられるはずがありません。

アブラムはこれまでにも何度も主と直接に話をしています。ハガルによって子どもを儲けることが本当に主のご計画であるのか主に聞いてみれば良かったでしょう。しかしアブラムは主に御心を聞くことをせずに、世の習慣に従って自分の判断で決めてしまいました。私たちも同じようなことをしがちですが、これは問題を更に大きくして行きます。

2、サライの訴え

ハガルはアブラムによって身ごもったのが分かると女主人サライを見下しました。女奴隷は主人の子どもを産んでも、女奴隷としての地位は変わりません。しかし人は恵みを主から与えられたにも関わらず、丸で自分の力で得た功績のように思い高ぶって高慢になり、他の人を見下し易いものです。

女奴隷のハガルが女主人のサライより恵まれたような立場になって高慢になる気持ちも分からないでもありません。しかし罪は問題を引き起こします。サライにとっては踏んだり蹴ったりです。自分を犠牲にして最善と思ってことを成したのに、どうして自分がこんな目に遭うのかという気持ちでしょう。

サライはアブラムに訴えます。「あなたのせいで私はひどい目に遭いました。あなたに女奴隷を差し出したのはこの私ですのに、彼女は身ごもったのが分かると、私を見下すようになりました。主が私とあなたとの間を裁かれますように。」と。サライがひどい目に遭ったのは可哀そうだと思います。

しかし私は男なのでアブラムの味方をする訳ではありませんが、それが「アブラムのせいで」と言ったり、「主が私とアブラムとの間を裁かれますように」と言うと、何か違うような気もします。アブラムとしては、「元はお前が言い出したことではないか」と言いたい気持ちもあるように思います。

ただこのサライの表現は、この当時の法律的な保護を求める場合の決まり文句だったようです。あなたはアブラム家の家長として妻としての私の立場をきちんと守ってくださいというサライの訴えです。サライの訴えに対してアブラムは、「女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい。」と言います。

言っていることは最もですが、何か自分は揉め事には関わりたくないというような、責任逃れのようにも感じます。ただハガルが身ごもっている子はアブラムの子であり、アブラムはこの時にはまだ、その子が自分の跡取りだと思っていますので複雑な気持ちだったでしょう。

サライはアブラムの了解を得て、ハガルにつらく当たりました。恐らくこれまでの不満等をすべてハガルにぶつけたのでしょう。ハガルはサライの前から逃げて行きました。ハガルとしてはサライからつらく当たられることからただ逃げたかったのでしょう。ハガルという名前は、「逃げる」という言葉の派生語です。

3、どこから来て、どこへ行く

ハガルの故郷であるエジプトの国境にあるシュルへの道沿いにある泉のほとりにハガルはいました。一休みすると共に今後のことを考えていたことでしょう。主の使いがハガルを見つけました。この主の使いは13節では主となっていますので同じ存在です。主の使いはハガルに尋ねました。

「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」尋ねたと言っても尋ねているのは主の使いですから、尋ねなくても答えは分かっています。この質問は主の使いが答えを知りたくて尋ねているのではなく、ハガルに考えさせるためのものです。

初めの、「サライの女奴隷ハガル」という呼び掛けは、サライにつらく当たられて現実逃避をしているハガルに、あなたはサライの女奴隷であるということを自覚させます。ハガルはどこから来たのでしょうか。ハガルは、「私は女主人サライの前から」来たと言っています。

女主人サライの前ではどんな生活だったのでしょうか。女奴隷として仕える見返りとして、守られた生活を送って来たことでしょう。しかしアブラムの子を身ごもり、女主人サライを見下したことで、つらく当たられました。それはある意味で自分で蒔いた種でした。

ハガルはどこへ行こうとしているのか。「逃げて行っているところです。」 このまま逃げ続ければ、つらく当たるサライには会わなくて済みます。しかし生活の当ては何もありません。お腹の子と共に生きて行けるのかどうかも分かりません。主の使いはそのことをハガルに考えさせられました。現実逃避をしても解決にはならないどころか、身の破滅を招くことになるかも知れません。

主の使いはハガルに2つのことを命じました。一つ目は、「女主人のもとに戻りなさい」です。そして二つ目は、「そのもとでへりくだって仕えなさい」です。私たちは時に、日々の生活のつらさの余りに、全てを投げ出してどこかへ逃げたいという現実逃避の思いに駆られることもあります。

今のこの場所から逃げ出せばもっと幸せな生活があるのではないか、どこかで幸福の青い鳥が私を待っているのではないかという思いです。しかし主が私たちに求めておられることは、主が私たちを置かれたもとで、へりくだって仕えることです。女主人のもとに戻るということは、女奴隷の立場にきちんと戻ることです。

以前に渡辺和子シスターが書かれた本のタイトルに、「置かれた場所で咲きなさい」というものがありました。ハガルがサライのもとに戻り、自分の分をわきまえて奴隷として、へりくだって仕えるならサライもハガルに感謝し平和が訪れることでしょう。私は特に奴隷制度を肯定している訳ではありません。

現代にはこの時と同じような奴隷制度は存在しません。しかし主がそれぞれの人を置かれたもとがあり、それぞれの分があり、役割があります。主が置かれたもとで、主にあってお互いがへりくだって仕えるところに主にある平和が訪れ、主はそれぞれの人を祝福してくださいます。

主は命令をされるときには命令に従い易いように、命令だけではなく命令に伴う約束もされます。それは、「私はあなたの子孫を大いに増やす。それはあまりに多くて数えきれないほどである。」 これは15:5の約束の通りです。ハガルの子もアブラムの子ですので祝福されます。

今、サライは人生の大きな岐路に立たされています。このまま逃げ続ければ、つらく当たるサライの顔は見なくて済みます。しかしお腹の子も自分も明日の命がどうなるのかは分かりません。

主の使いの命令に従って、主の置かれたもとに戻って、へりくだって仕えることは困難な道です。しかし命は保証され、子孫繁栄の約束もあります。これはどちらの方が自分にとってメリットがあるかというよりも、どちらが人として生きて行くのに正しい道であるのかです。

主の使いはさらに言いました。「あなたは身ごもっており、やがて男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの苦しみを聞かれたからである。」 イシュマエルは、「神は聞かれる」という意味です。ハガルにとってサライのもとに戻ったら、またつらく当たられるという不安があったと思います。

これまではハガルはサライにつらく当たられても、皆は見て見ぬふりをして、誰も何もしてくれず、つらい思いをして来たことでしょう。しかし、「主が自分の苦しみを聞かれた」と言われるのは、ハガルにとって大きな慰めであり励ましです。

ハガルは、「自分はもう一度、へりくだって奴隷としてサライに仕えてみよう。そうすれば私の苦しみを聞かれた主が働いてくださり、主にあってサライとの関係も良くしてくださる。」と期待したことでしょう。ハガルは男の子を産み、主の使いがハガルに命じた通りにアブラムはイシュマエルと名付けました。イシュマエルの子孫はアラブ人といわれ主の約束の通りに大きな民族となっています。

4、あした

ハガルは泉のほとりで岐路に立たされました。一つの道はエジプトに続くシュルへの道を逃げて行くことです。そしてもう一つは女主人のもとに戻って、へりくだって仕えることです。女主人のもとに戻るだけでは何も変わりません。

ハガルがサライを見下したままでは、サライもハガルにつらく当たり続け、暫く経てばまたハガルは逃げ出すことになるでしょう。大切なのは、主が置かれたもとに戻り、そのもとでへりくだって仕えることです。

茂原教会は今年度70周年を迎え記念事業を行っています。その中で今日の中心聖句に従って、「どこから来たのか」と過去を振り返っています。そして「どこへ行こうとしているのか」と「あした」のことを考えています。「あした」のために何をするのかを考えることは大切なことです。

しかし何をするのかを考えるよりも大切なことは、自分が置かれたもとで、へりくだって仕えることです。自分が置かれたもとで、へりくだって仕えることなしには、何をしても無意味だからです。自分が置かれたもとで、へりくだって仕える者を主は祝福されます。

主イエスはへりくだって仕えられて十字架に付けられました。私たちは主イエスのへりくだりである十字架によって贖われて、聖霊の力によってへりくだって仕える者とさせられます。主が私たちに望まれる、「あした」は、私たちが何かをすることではなく、まず私たちがへりくだって仕え合うところにあるのではないでしょうか。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。茂原教会が70周年を迎えられている恵みを有難うございます。あなたはハガルに、そして私たちに、「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」と問われます。私たちはより良い、「あした」を目指して歩んで行きたいと望んでいます。

私たちが置かれているこの世には色々な難しいこともあり、ハガルのように、つい現実逃避の思いに駆られることもあります。そのような私たちにあなたは、「女主人のもとに戻り、そのもとでへりくだって仕えなさい」と言われ、それに伴う祝福を約束されます。

どうぞ、主イエスのへりくだりである十字架によって救われる者として、聖霊の力によってへりくだって仕えさせてください。そして私たちを祝福してください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。