「喜びの力」

8月7日説教  
イザヤ書 53章10~12節                                          佐藤俊男牧師(岬キリスト教会)

        

題を「喜びの力」としました。わたしたちの力の出処は喜びであるということです。わたしたちは日常生活で悩まされます。問題を抱えて苦悩します。イエスもおっしゃいました、「あなたがたには世で苦難がある」(ヨハネ16:33)。それはわたしたちにとって重荷です。そこを乗り越えさせるのは、「喜び」であろうと思います。そのような生き方をイザヤはしました。

イザヤは紀元前750年位の人だと言われます。イザヤが神殿で祈っている時、聖なる神を見る体験をしました(イザヤ6:5)。天使の賛美を介して神に出会うのです。その神は「聖なる神」でした。その時イザヤは自分の罪深さを自覚します。「我ほろびなん」(イザヤ6:5文語訳)。そのように告白するイザヤに対して、聖なる神はその罪をゆるし、悪を除かれるのです。神の「聖」は罪を認めさせ、そして罪をゆるし悪を除去するのです。罪人が罪を認め、ゆるしを受け取って感謝する、それが神の聖の顕れ、神の栄光なのです。ゆるしの恵みに与ったイザヤは、神のことばを携えて出て行き、民に語り伝えます。民はかたくなで聞き従うことをしません。それでも語り続けるのです。なぜでしょう。イザヤは民の罪をゆるして悪を除き、救ってくださる神の栄光を見せられたからでしょう。滅びるしかない罪人である同胞、否、世界の人たちがゆるされて救われ、永遠に神と共に生活できる日が来るのですから、それはイザヤの喜びであったことでしょう。

イザヤが見た神の栄光を具体的にわたしたちに見せてくださったのがイエスです。イザヤはめぐみとまことに満ちていた聖なる神のひとり子としての栄光であるイエスを見せられました。人としてこの世に生まれ、受難の道を歩んで十字架で死なれたイエスのことを、イザヤは語りました。53章です。イエスであっても十字架を背負うことは容易でなかったことでしょう。イエスが受難の道を受け入れ十字架で死なれたのは、十字架の向こうにある神の救いの恵みを見ておられたからです(イザヤ53:11~、へブル12:2参照)。罪をゆるされて神の救いに入れられるわたしたちの姿を、イエスは見ておられたのです。それはイエスの喜びでした。その喜びが十字架を負わせたのです。

このイエスによって聖なるお方と交われるようになったわたしたちは、祈りの中で神の恵みの世界を見、喜びに溢れて、負うべき十字架を負って神の栄光を表して行きましょう。