「あなたを助けるために」

2022年9月4日礼拝説教
ヨハネによる福音書3章16~21節                                                 野田栄美

  • はじめに

ヨハネの福音書の3章16節は、私が洗礼を受ける時に暗唱した聖句です。この聖句は多くの人に愛されて来ました。宗教改革の中心人物であるマルチン・ルターは、この聖句を小型の福音書と言いました。主イエスが生涯を通して語られたことが、全部この聖句に要約されていると彼は考えました。また、聖書全体を一文で要約すると、この文章になるという意味で「ミニバイブル」「小聖書」と呼ぶ人たちもいます。愛に溢れるこの言葉の意味を、今日は受け取りましょう。

私たちは、自分たちの気持ちを「光」を用いて表すことがあります。嬉しいことや幸せなことがあった時には、「明るい気持ちになる」といいます。また、悲しいことや辛いことがあったときには、「暗い気持ちになる」と言います。更に、悪い思いに支配される気持ちを表す時にも、「暗い気持ちになる」といいます。

光は、私たちにとって幸せのシンボルです。私たちは、光が好きです。昼間は夜より、明るい気持ちになります。日が落ちた後も、夜空に星が光っているのを見ると幸せを見つけたような思いになります。停電になったときに、懐中電灯の光がつくとほっとします。私は暗いところが好きですと言う人でも、完全な暗闇を好んでいるわけではありません。やはり、私たちは光を必要としています。

19~21節には「光」という言葉が5回使われています。この「光」とは、主イエスのことです。主イエスは、私たちに幸せを与えてくれる光だと、聖書は語っています。

しかし、その光がこの「世に来られた時、人々は喜びませんでした。19節には、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。」と書かれています。それは、人の行いが悪かったからです。更に、20節には、「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。」とあります。

皆さんは、自分が闇を愛する、行いの悪い者だと思いますか。きっと、思わないと思います。私は、家族を大切にしているし、人に迷惑をかけないようにして生活している、ちゃんとお礼をするし、人のことを考えて行動していると、幾つも上げられることがあるでしょう。ですから、私は光を憎んではいないし、行いが明るみに出されることは恐くないと言える方もおられると思います。

けれども、もし、全てを見通すことができる人がいて、その人の前に立ちなさいと言われたら、喜んで出て行く人はいるでしょうか。人には、見せていい所と、見せないで隠していたい所があります。良いことはしていると言うことはできても、自分の全ての言動を明らかにしなければならないとしたら、その場には行かないでしょう。私たちは自分の中には、きれいなことばかりではないと知っています。自分の全ての行動を、全て明らかにされるところがあるとしたら、そこに近づくことは避けたい。むしろ、絶対に近づきたくないのが本心です。

  • 隠すこと

この全部は見られたくないという気持ちは、どこから始まったのでしょうか。聖書には、その初めてのできごとをはっきりと書かれています。それは、最初の人間のアダムから始まっています。アダムは、神の約束を守らず、食べてはならない木の実を食べた途端に、それまでしたことのない行動をしました。それは、神が近づいて来られた時に、恐くなって身を隠したことです。それまでは、共に語り合い、喜んで神と共にいたアダムは、神に背いたとたん、自分の姿を神の前に晒すことが怖くなりました。(創世記3:8~10)

それは、自分の姿が神にお見せすることができないものだと分かったからでした。この「身を隠す」ことは、19節にある、人間に悪い行いがあり(19節)、闇を愛する心が(19節)どこかに潜んでいることの証しです。隠すという私たちの性質は、私たちの心にやましいことがあることを証明しています。人に、そして、神に、全てをさらすことのできないのであれば、私たちには罪がありますと証ししているということです。

  • 滅びる存在

 また、それだけではなく、アダムは、非常に尊いもの、計り知れない価値のあるものを失いました。それは、命の木です。命の木は、永遠の命を与える実をつける木です。この地上で、あらゆる者を手に入れた人が、最後にほしがるもの、それは不老不死を人に与えるものではないでしょうか。この命の木には、不老不死の命を与える木の実が実ります。

けれども、アダムが神の前に自分を見せることができなくなったと同時に、命の木へ行くための道は閉ざされました。つまり、神に背いた時から、人は必ず死ぬ存在になりました。人の運命はここから始まりました。つまり、人は必ず死ぬということです。そして、言い換えれば、人は必ず「滅びる」ということです。

滅びるということを前提に、16節には「一人も滅びないで」と書かれていますし、17節には「世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と書かれています。18節にも「すでに裁かれている」と書かれているのは、全て、人がアダムのできごとから、いずれ死を迎え、滅びる存在となったことを前提に書かれています。

  • 歩きスマホ

今は、誰もが携帯電話を持つようになりました。スマートフォンは、とても便利なものです。けれども、そのスマホによって、悲惨な事故がおきることもあります。昨年、歩きながらスマートフォンを見ていた人が、踏切に入ったまま動かずに、電車にひかれてしまう事故がありました。思い出すと心が苦しくなるような事故です。

もし、あなたがスマートフォンに気を取られて、車が走ってきている道路に出ようとしている人を見たら、どんな気持ちになるでしょうか。危ないと、その人を引き留めようとするのではないでしょうか。危ない、止まってと。

神から見ると、私たちはそれと同じ状態です。進む先には明らかに滅びがあるのに、人間は皆、スマートフォンに気を取られるように、目の前のことばかり見て、ただ、真っ直ぐ歩いて行きます。そのまま歩いて行ったら崖から落ちるように滅んでしまうのに、気が付かないまま、滅びにつながる道を進んでいきます。その道は、神と一緒にいることのできない道です。

それが、大切なあなたの家族や友人だったらどうでしょうか。どんな思いになるでしょうか。

  •  神の思い

滅びに向かう人々を見て、神はどのように思っておられるのでしょうか。その思いが、3:16です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

神は、滅びる運命を背負った人間を見て、心を引き裂かれる思いで言っておられます。「一人も滅びないで欲しい」と。そのまま進んで行ってはだめだと。滅びないでくれ、生きて欲しい、一人も死なないで欲しいと、呻いておられます。そして、「永遠の命を得て欲しい」、あなたたちにもう死なない命を与えたい、新しい霊の命をあげたいと願っておられます。私と一緒にいようと、神は引き寄せようとされています。

そして、そのための方法は何だと、16節は言っているでしょうか。神は、そのために、ご自分のたった一人の子どもをお与えになったとあります。唯一の方法は、傷一つない神の独り子を、人に与えるということでした。

私のたった一人の子どもをあなたのために送る。この子は私の大切な子どもだ。愛してやまない子どもだ。けれども、あなたが滅びないためなら、この子をあなたに与えてもいい。あなたに、滅んで欲しくないんだ。そのような、神の呻きと願いがこの聖句から聞こえてきます。自分の子を苦しみに遭わせなければならない、心がねじれるような痛みと、どうしてもあなたを救いたいという、決して捨てられない願いがこの聖句に溢れています。

  • 主イエスの思い

では、独り子をお与えになるとは、どのようなことでしょうか。それは、人を滅びへの向かわせる罪を全て独り子に背負わせて、その罪のための贖いを成し遂げることです。その贖いとは、神の独り子である主イエスが、十字架にかけられ上げられることです。これは、自分の罪の代償をはらうためではありません。神の子には、罪は何もないので、刑罰を受ける必要は何もありません。これは、ただ、アダムから引き継がれた滅びる運命から、私たちを助けるためでした。何も気が付かずスマホに気を取られるように、滅びへと向かっている私たちを、そこから救い出すためでした。

 では、独り子の主イエスは、それを知ってなんとおっしゃたのでしょうか。お父さん(神)は私が大切ではないのですか、なぜ、私があの人たちの身代わりにならなければいけないのですか、身代わりにはなりません、そう言っても良いところです。けれども、主イエスは、そのようなことは決して言われませんでした。たった一言も、反対されることは、ありませんでした。福音書のどこを見ても、主イエスは、私たちを大切にされる以外のことは何もおっしゃっておられません。苦しみの祈りはされました。けれども、決して見捨てようとはされませんでした。神の願いが、主イエスの願いとなっていました。

  • 光に来る人

この主イエスの十字架が自分の罪の贖いのためだった、そう信じて十字架を見上げる時に、私たちに変化が起こります。まず、隠したいという心に変化が起こります。

21節には、「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである」と、あります。これが、滅びから救われた人の姿です。「真理を行う者」が、光の方に来るのは、どうしてでしょうか。「その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるため」です。その人たちは、こう言っています。「これは私がしたことではありません。神がしてくださったことです。」「見てください。神が私にさせてくださったのです。」そう証しするようになります。

そして、今まで隠したいと思っていたことを、神に見られることを恐れなくなります。それは、隠したいことのための贖いがもう既に、成し遂げられたからです。全てをさらけ出しても、もう、そこに刑罰は待っていない、痛めつけられない、馬鹿にされない、踏みにじられないと安心できるようになります。ですから、主イエスの光を当ててください。そう言って、生きるようになります。

2013年にディズニー映画の「アナと雪の女王」の曲が、とても流行りました。「ありのままで」という、自分を隠さずに、ありのままの自分を見せようという告白の歌です。この社会では、人は誰もありのままではいられません。けれども、神の前では、ありのままでいられるようになります。

そして、新しい霊の命、永遠の命をいただきます。この肉体は、いつか死を迎えます。けれども、新しくいただいた霊の命は滅びることがありません。その命は神の支配の中にあるので、神のおられるところで生き続けます。決して神から離れなくなります。本当の幸せはここにあります。あなたを滅びから助けるために、主イエスはご自身をあなたに与えてくださいました。これは、神の愛から出たことです。神にありのままを受け入れていただく人生、神と永遠に一緒にいることのできる命を受け取りましょう。