「主の契約の箱」
2023年1月15日説教
申命記 10章1~11節
主の御名を賛美します。先日、車で土気の方面に外房有料道路の近くの坂道を上って行って、改めて街並みも見て、アップタウン、高台の町、いわゆる山の手であると思いました。アップタウンというと、ビリージョエルのアップタウンガールという曲が流行りましたが、良いイメージです。
しかしそうすると自分の住んでいる茂原は低地でもありますのでダウンタウン、下町であると思わされました。外房の町に下町も何もあるのかという気もしないではありますが。自分には下町が合っているのかと思いますが、それぞれの町にまた違う良さと役割があると思います。地理的にではなく、霊的に自分が住む場所を正しく知ることは大切なことです。
1、二枚の石の板
アドベントから年始に掛けて、聖書の他の個所から御言葉を取り次がせていただきましたが、また申命記に戻ります。イスラエルがこの後に神が約束されたカナンの良い地に導かれる前に、モーセは主が命じられたとおりに語って行きます。
モーセはこれまでの荒れ野での40年の出来事を振り返って、人々に様々なことを思い起こさせます。イスラエルの最大の失敗は1章で語られた、カデシュ・バルネアから12人の偵察隊を送りましたが、巨人であるアナク人を恐れて、主の命令に従わなかったことです。
その結果としてその時に20歳以上の人が滅びるまで、イスラエルは荒れ野を38年間、彷徨うことになりました。そのことは民数記13章にモーセが詳しく書いていますが再度繰り返されて、9:23でも繰り返されています。
今日の個所は9:16にありました、もう一つの大きな失敗である金の子牛事件です。これも出エジプト記32章にモーセが詳しく書いたことです。このようにモーセがイスラエルに過去の過ちを繰り返し何度も語るのは、失敗からきちんと学んで悔い改めて、同じ過ちを繰り返さないためです。
これは私たちも同じように行う必要があることです。茂原教会は今年度70周年ですが、同じように過去を振り返り、思い起こす時を持ちたいと思います。
モーセがシナイ山で主から十戒を授かっている時に、人々はあろうことか金の子牛の偶像を作っていました。怒ったモーセは十戒の書かれた石の板を投げつけて砕きました。
そしてモーセは9:25で40日40夜ひれ伏して執り成して9:29までの祈りを捧げました。今日の初めの「その時」は、9:29で祈りを終えた時としてモーセは書いていると思われます。しかし、並行記事の出エジプト記によりますと、その他にも色々な出来事が書かれていますので、40日40夜の終りではないと考える人もいます。
主はモーセに言われました。「前のような二枚の石の板を切り出し、山に登って私のもとまで来なさい。」 それはモーセが初めに十戒の書かれた石の板を砕いてしまって、無くなってしまったからです。主は、「私はその板に、あなたが打ち砕いた前の板にあった言葉を書き記す。」と言われて、その通りに記してモーセに与えられました。
2、主の契約の箱
これだけでも意味は十分に伝わると思います。しかしここで何度も繰り返されている言葉があります。1節で、「また、木の箱も作りなさい。」、2節で、「あなたはそれを箱に納めなさい。」、3節で、「そこで、私はアカシヤの木の箱を作り」、5節で、「作っておいた箱にその板を納めた」、8節で、「主の契約の箱を担ぎ」と「箱」が5回出て来て強調されています。
「箱」は原語のヘブル語では何というかと言いますと、「アロン」です。何とも意味深い言葉だと思います。ただ6節に出て来るモーセのお兄さんのアロンは、原語では「アハロン」と言って、箱のアロンとは少し違います。しかしそこには深い繋がりがあると思います。
2回目の十戒の石の板が箱に納められた記事の直後に、移動はありますがアロンはそこで死んだと言います。2回目の十戒の授与は出エジプト記34章に書かれていて、アロンの死は民数記20章ですので、その間には多くの時間の隔たりがあります。
それをなぜモーセは9:8から続く、金の子牛事件の記事の直後にアロンの死の記事を入れたのでしょうか。金の子牛事件はアロンにとって大変なことだったと思います。詳しくは出エジプト記32章にありますので、後で読んでいただければと思います。
簡単にお話しますと、モーセがシナイ山で主から律法を授かっている時に時間が掛かったために、不安になった民がアロンに偶像の神を作ることを頼んで、アロンが金の子牛の偶像を作ってしまった事件です。
イスラエルの民は当時、少なくとも2百万人位はいたと考えられていますので、それらの人々の要望に従わないのは大変なことだったとは思います。しかしそこで偶像を作ってしまったことは、主の戒めを納める箱、アロンとしての役割に死んだことです。
そうは言ってもアロンも人ですから失敗をしてしまうことはあると思います。大切なのは失敗をした後に、それを反省し悔い改めるかどうかです。酷い罪を犯したダビデ王がイスラエルの人々から慕われるのは罪は犯しましたが素直に悔い改めたからです。ダビデは悔い改めた姿勢が人々から尊敬されています。
残念ながら、聖書にアロンが金の子牛事件を悔い改めたという記事は書かれていません。それどころかアロンは、「金を火に投げ入れたら、子牛が出て来た」と無責任なことを言いました。もしもアロンが悔い改めていたのなら、モーセが金の子牛事件の記事の後にわざわざアロンの死の記事を書いただろうかと考えさせられます。
しかし他の読み方としては、これはただ単に主の契約の箱を担う人の経緯を記すために、アロンの死を書いたのだとも読めます。どのように読んで、そこで何を感じて読み取るかはその人の霊性によるかも知れません。アロンが死んで、息子のエルアザルが代わって祭司として仕えました。
3、レビの部族
主はアロンの部族であるレビの部族を選び分けて、3つの役割を与えられました。レビの部族を選び分けたということは、主がレビの部族を選ばれたのですから他の部族が手を出してはならないことです。一つ目は、主の契約の箱を担ぐことです。
担ぐと言っても主の契約の箱は聖なるものですので、レビの部族と言えども箱に手を触れることは出来ません。担ぐには箱に取り付けられた2本の棒を持ちます。サムエル記下6:6,7で、この箱を運んでいた時に、牛がよろめいてウザが手で箱を押さえた時に、ウザは主に打たれて死にました。
それ程に決して人が触れてはならないものです。主の契約の箱を担ぐのはレビの部族だけに与えられた役割です。他の部族が手を出してはなりません。このことは現代においても、それぞれに主が選び分けて与えられる役割がありますので、自分に与えられた役割を忠実に果たすことが求められます。
二つ目は、主の前に立って仕えることです。人々のために主の前に立って仕えることには、それなりの準備が必要になります。そのことも選び分けられたレビの部族の役割です。このようなことが書かれているのは、民数記16章でコラたちがモーセとアロンに反逆したために、レビの部族の役割を明確にする必要があったようです。
三つ目は、主の名によって祝福することです。レビの部族による祝福によって人々は祝福されました。私も民数記6:24~26の大祭司アロンの祝祷を、訳が少し違いますが祝祷に使っています。そしてこれは申命記の書かれた今日まで続いているとあります。
ただ主の契約の箱は紀元前586年の南ユダ王国滅亡の時に失われたようです。物質としての主の契約の箱は失われました。それは映画のインディー・ジョーンズ・シリーズの第1作の「レイダース/失われたアーク」になっている通りです。
4、主の契約の箱を担ぐ
ただ霊的な意味での現代のレビの部族である牧師が、主の契約の箱を担ぎ、主の前に立って仕え、主の名によって祝福するようにされ、今日まで続いています。祝福を受けるためにも祝祷をしっかりと受けていただきたいと思います。
またプロテスタントは万人祭司ですので、一人一人のクリスチャンが主に選び分けられた者として、主の契約の箱を担ぎ、主の前に立って仕え、主の名によって祝福する役割を求められています。
祭司の役割を担うレビ人には、兄弟たちである他の部族のような割り当て地や相続地がありません。牧師も自分の不動産を所有してそこに住むということはほとんどありません。その理由は、あなたの神、主が語られたとおり、主ご自身がその相続地だからです。
主ご自身が相続地とはどういうことなのでしょうか。主ご自身が相続地であるレビ人は主の契約の箱を担ぎます。主の契約の箱は主の戒めである十戒の書かれた石の板を納めた聖なるものです。それは主のご臨在そのものです。主を担ぎ、主の前に立って仕え、主の名によって祝福する者は主が相続地です。
牧師となる献身へと導かれた時に、この世の割り当て地や相続地がなくなり、主ご自身が相続地になるというのはどういうことなのだろうという、大きな期待と小さな不安がありました。それまで商社に勤めていたこともあって全てのことを金銭に換算して考える習慣が身に付いていた私には、未知の世界に飛び込むようなものでした。
結果として、主の契約の箱を担ぎ、主ご自身を相続地とする恵みはプライスレス(とても貴重)です。
モーセはここでレビ人の恵みだけを語っているのではありません。他の部族も二つの方法によって恵みを得ます。一つ目はレビ人を支えるという自分たちに与えられた役割を担うことによってレビ人を通して祝福を得ます。
二つ目として、他の部族は物質としての主の契約の箱を担ぐことはしませんが、霊的な主の契約の箱である主を担ぐことによって、主ご自身を相続地とします。現代のプロテスタントのクリスチャンは万人祭司ですから尚更です。
モーセは以前と同じように40日40夜、山にとどまりました。これは9:25の二度目のことです。主はこの時もモーセに耳を傾けてくださり、イスラエルを滅ぼそうとはされませんでした。この時はモーセがイスラエルのために執り成しました。
私たちのためには、主イエスが私たちの罪のために十字架に付かれ既に贖ってくださいました。主を信じる者は主の契約の箱を担ぐ恵みに与り、主を相続地とさせていただけます。主が命を懸けて私たちに与えてくださる救いと悔い改めの恵みを聖霊に導きによって受け取らせていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主の戒めである十戒の書かれた石の板は主の契約の箱に納められ、それはレビ人の手に委ねられました。それは主を信じるクリスチャンの心に記される契約の言葉です。
十字架の恵みと聖霊の導きによって、霊の主の契約の箱を担ぎ、主を相続地とする、霊的なレビ人として生きるものとさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。