「聖なる陣営」

2024年1月7日礼拝説教  
申命記 23章2~15節

        

主の御名を賛美します。

1、主の会衆

今日の聖書箇所の前半には、「会衆に加わる資格」の小見出しが付いています。「主の会衆」という言葉が4節までに5回使われて強調されています。「主の会衆」を新改訳では「主の集会」と訳していますので、広い意味では今、ここで行われています礼拝も含む言葉です。

主の会衆に3つの人たちは加わることはできません。一つ目は睾丸の潰れた者、陰茎の切り取られた者です。初めに読みますと肉体的な差別のような感じもします。そこには完全な者でなければならないという意味もあるとは思いますが、切り取られた者という表現に人為的なものがあります。

これは異教的な儀式によってそのようになった者を指すようで、そのような者は加われません。後の時代になりますと宦官になるために去勢される者もいますが、新約の時代になりますと使徒8:38で、エチオピアの宦官はフィリポから洗礼を受けて救われました。

二つ目は混血の人ですが、「混血の人」と訳されている言葉の意味は正確には良くは分からず、新改訳は「不倫の子」と訳して、他には「私生児」とも説明されています。これは主が命じられた結婚の外で生まれた人を指すようです。十代目であっても加わることは出来ませんが、「十代目であっても」というのは絶対にだめという意味の表現のようです。

三つ目はアンモン人とモアブ人です、アンモン人とモアブ人も十代目であっても加わることはできません。モアブ人はアブラハムの甥のロトの二人の娘のお姉さんの子孫で、アンモン人は下の妹の子孫です(創世記19:37、38)。彼らについてはきちんとした二つの理由が説明されます。

一つ目はイスラエルがモアブの平野に宿営したときに、彼らはイスラエルの親戚にも関わらず、イスラエルの人数の多さに恐れて、パンと水を用意して迎えませんでした。それどころか二つ目として、アラム・ナハライムのペトルの遠くから、ベオルの子バラムを雇って、イスラエルを呪わせようとしました。

しかし主はイスラエルを愛されたので、バラムに呪わせないで、イスラエルを祝福させました。そのようなことをした、アンモン人とモアブ人の平和や繁栄を、生涯、決して求めてはならないと言います。

この時の時代背景としましては、イスラエルはこの後に異教のカナンの地に入って行きますので、イスラエルの信仰の基盤を確立するためにも、異教の影響を徹底的に取り除いて行く必要があります。そのためにも異教の儀式の跡が体に残る者や、主の結婚の命令に従わない者、イスラエルを歓迎せずに呪った者たちを主の会衆に加えることをさせませんでした。

エドム人は忌み嫌ってはなりません。イスラエルの先祖にヤコブがいますが、エドム人はヤコブのお兄さんであるエサウの子孫ですので兄弟だからです。これは分かり易い気がします。しかしエジプト人も忌み嫌ってはなりません。これは驚きの言葉です。エジプト人はイスラエル人を奴隷にして虐待をした人たちです。

エジプトがイスラエルに対して行ったことは、アンモン人とモアブ人が行ったことと大差はありませんし、もっと酷いことをしたようにも思えます。しかしイスラエルはエジプトで寄留者だったからであると言います。どんなことがあったとしてもお世話になった恩があるということでしょうか。三代目には主の会衆に加わることができます。

2、聖なる陣営

後半の10~15節は、「陣営を清く保つこと」という小見出しが付いていまして、「あなたが敵に向かって出陣する場合、あらゆる汚れから身を守りなさい。」と命じます。その理由は15節にありますように、主は戦いにおいてあなたを救い、あなたの敵をあなたの前に渡すために、陣営を歩き回られるからです。

具体的な内容が二つ書かれていまして一つ目は、あなたの中に、夢精によって汚れた者がいるならその者は陣営の外に出て、中に入ってはなりません。これは次の二つ目のこととも関わることですが、人間の体から出て来る物とその行為は儀式的な意味で汚れたものとされました。

これは儀式的な意味での汚れですので、夕暮れになって一日が終わると区切りとなります。水で体を洗って、清めの儀式を行えば汚れは取り除かれて、彼は日没とともに、陣営に戻ることができます。

二つ目は、用を足すときは、陣営の外に場所を設け、そこに行きます。この御言葉を読んで思い浮かぶことは、古い日本家屋でもトイレが母屋とは離れて別棟になっている物もあることです。

陣営は戦いに挑むための場所ですから武器を持っていますが、その武器のほかにシャベルを携えて、外でかがむときは、それで穴を掘り、再びそれで排泄物を覆います。最近はバイオトイレがありまして、水で流すのではなくて、微生物によって分解するものがありますが、そのような感じでしょうか。

陣営は聖なる主が共におられる聖なるものです。主がその中に恥ずべきものを見いだされ、離れられることのないようにする必要があります。

3、人を汚すもの

会衆と陣営は意味は違いますが、同じように聖なる主の民の集まりであり、聖であることを保つ必要があります。この当時はイスラエルだけが主の民であり、救われるのは救いの初穂であるイスラエルだけですので、求めるのはイスラエルだけの聖でした。

それでは今日の御言葉は現代を生きる私たちにはどのような意味を持つのでしょうか。現在では救い主イエス・キリストがすべての人の救いのために十字架に付かれましたので、救いの道はすべての人に開かれています。

その意味ではここで主の会衆に加わることはできないと肉体的な意味で言われている人たちは、すべて加わることができるようになりました。過去の色々な経緯で体にその跡の残っている人、例えば割礼を受けている人も主の会衆に加わることができます。

どのような経緯で生まれた人でも主の会衆に加われます。イエス・キリストの系図にも色々な人が含まれています。イスラエルを歓迎せずに呪った人も主の会衆に加われます。クリスチャンを迫害していたパウロはその代表でしょうか。2~4節で主の会衆に加わることはできないと言われた3つの人たちは、その肉体的な条件だけから言えば、今は会衆に加わることができます。

この当時は人の排泄物は儀式的に汚れたものとされていました。これについてはどうなのでしょうか。主イエスはマタイ15:17で、「口に入るものはみな、腹に入り、外に出されることが分からないのか。」と言われ、物質は口に入るものも、外に出されるものも人を汚し得ないと言われました。

ですので11節で言われている人も現在では夕暮れに水で体を洗う必要はありません。14節で書かれているようなことは現代ではあまりないこととは思いますが、アウトドア等でトイレの無い辺鄙な場所に行くときには行う必要があるでしょうか。

しかし主イエスは続けてマタイ15:18、19で、「しかし、口から出て来るものは、心から出て来て、これが人を汚すのである。悪い思い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒涜は、心から出て来るからである。」と言われました。汚れとは人の行いから来るものではなく、人の心から出て来るものです。

このことは今日の聖書箇所と合わせて読みますとどのようなことになるでしょうか。主の会衆と主の陣営が聖なるものであることは昔も今も変わりはありません。

そのために主の会衆に加わることはできない者、主の陣営で保つべきことはあります。それはどのようなことでしょうか。

初めに主の会衆に加わることのできない者とはどのような者でしょうか。その前にまず主の会衆とはどのような者でしょうか。主の会衆とは主を礼拝する人々です。礼拝について主イエスはヨハネ4:24で、「神は霊である。だから神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」と言われました。

霊と真実をもって礼拝をするとは、昨年の7月のセミナーで安井聖先生が教えてくださったように、悔い改めと献身を新たにすることです。まだ洗礼を受けておられない人は学んで行きますが、既に洗礼を受けている人は、霊と真実をもって礼拝し、礼拝において悔い改めと献身を新たにします。

ただ正直なところ、習慣として礼拝に行くということや、礼拝に行きつつも信仰の浮き沈みのようなものは確かにあるかも知れません。しかし初めから霊と真実をもって礼拝をするつもりの無い人は聖なる主の会衆に加わることはできません。

またクリスチャンは信仰の戦いに出陣するものです。その陣営において汚れである、「悪い思い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒涜」等はあってはならないものです。しかし罪人である私たちの心からは、このような悪い罪の思いが出て来るものです。

しかし私たちの罪の赦しのために主イエスが十字架に付いてくださいました。そして主イエスを信じる者には聖霊が働き、礼拝を通して悔い改めに導き、新たな献身へと導いてくださいます。そして私たちを聖なる主の会衆へと変え続けてくださり、この世での霊的な戦いに出陣する聖なる陣営としてくださいます。主の恵みにより主の会衆とされる私たちが、聖なる陣営として歩み続けるために、聖霊の導きに従ってまことの礼拝をさせていただきましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。申命記の時代には主の会衆に加わるためにも厳しい条件があり、陣営を汚れから守ることも大変なことでした。しかし今は主イエスの十字架によりすべての人に救いが開かれていることを感謝します。

主の会衆と陣営が聖なるものであることには変わりはありません。どうぞ罪深い私たちがまことの礼拝を通して、聖霊の力によって悔い改めと献身を新たにし、聖なるものであり続けることができますようにお守りお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。