「主の目に貴く、重んじられる者」

2024年元旦礼拝説教  イザヤ書 43章1~7節

        

主の御名を賛美します。新しい年になりました。今年も宜しくお願いいたします。

1、主の目に貴く、重んじられる

ここのところ、元旦礼拝の聖書箇所は、教団の次年度の聖書箇所と同じにしています。日本ホーリネス教団は英語では、Japan Holiness Church と言いますように、教団は一つの教会であるとの理解に立っています。また私自身も教区長会議で教団の次年度の聖書箇所と施政方針案の作成に携わらせていただいているということもあります。

今日の中心聖句の、「あなたは私の目に貴く、重んじられる。」はとても有名な箇所で、自分の好きな聖句の一つであるという人もおられると思います。人によっては他の訳で覚えているかも知れません。私は新改訳の、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」で覚えています。

聖書の有名な聖句は、その聖句だけが独り歩きをしてしまい、どのような文脈で語られているかが忘れられ易いものが多くありますが、これもその一つかも知れません。今日の聖書箇所は預言者イザヤが語ったものですが、イザヤは紀元前740~690年頃に預言者としての働きをしました。

その時代背景は、神に従わないイスラエルはその遥か前の紀元前9百年台に北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、北イスラエルはイザヤが預言者として働いている紀元前721年にアッシリヤに滅ぼされ、その後の紀元前586年に南ユダ王国もバビロンに滅ぼされます。

これは預言者にとって、とても辛い仕事です。神の言葉を預かり預言を語って、聞く者が悔い改めて良い方向に行くなら働き甲斐もあるものです。しかしイザヤは聞いても悔い改めないイスラエルに対して滅びの預言を語るものです。ただ滅びで終わるのではなく、滅びの中にも残される希望を語るものですので明るい兆しもあります。そのような背景の中で御言葉を聴かせていただきましょう。

まずイスラエルの現状と結果して、42:24、25であると語ります。とても悲惨ですが、そこが終点ではなく、「主は今こう言われ」ます。原語では「主は今こう言われる。」が順番的にも43章の初めの文章です。南ユダ王国が滅ぼされるのはまだ先のことですが、前もって今、主は言われます。まずそのように言われる主はどのようなお方でしょうか。

それは、「ヤコブよ、あなたを創造された方、イスラエルよ、あなたを形づくられた方」です。これは平行法で同じ内容を少し変えて2回繰り返して強調するものです。この世の全てを造られるのは主です。その創造主はイスラエルにまず「恐れるな」と言います。

イスラエルは北も南も滅ぼされてバビロンに捕囚に連れて行かれます。しかし恐れる必要はありません。なぜかと言いますとあなたを造られた主があなたを贖って、あなたの名を呼んだからです。「贖った、名を呼んだ」は完了形ですので既に贖いと名を呼ぶことは完了していますので、あなたは私、主のものです。

そしてあなたは私、主のものであることはどういうことであるかというと、主である私はあなたと共におります。共におるということは、「あなたが水の中を渡るときも、川の中でも、川はあなたを押し流」しません。それは聖書では具体的にはどのようなことを表すでしょうか。

「水の中を渡るときも」と言いますと、出エジプト記14:22で、エジプトを脱出したイスラエルを逃れさせるために、主が強い東風で海を退かせ、イスラエルが紅海を渡ることがありました。「川の中でも」と言いますと、ヨシュア記3:16でヨルダン川の水はせき止められて、イスラエルは川を渡りエリコへ向かいました。

「火の中を歩いても、あなたは焼かれず 炎もあなたに燃え移りません。」については、ダニエル書3:25で、高温の炉の中に投げ込まれたダニエルの仲間3人は何の害も受けませんでした。

この個所から思い浮かぶ言葉は、「たとえ火の中水の中」というものです。「たとえ火の中水の中」と言いますと、火の中水の中を通るような困難があったとしても、自分の力でやり遂げるといった決意のように感じます。しかし聖書的に「たとえ火の中水の中」というのは、たとえそのような困難があったとしても主が共におられ守ってくださるという約束です。

主はもう一度、イザヤを通して、「私は主、あなたの神」と宣言され、「イスラエルの聖なる者、あなたの救い主」と言われます。イスラエルの聖なる者は、イスラエルの背きの罪をそのまま放置することは出来ません。そこでイスラエルの罪を赦し、贖うためにエジプトをあなたの身代金とします。イスラエルがエジプトを脱出するときには、エジプトの初子に災いが下りました。

またクシュとセパをあなたの身代わりとします。クシュは18章に出て来ますがエチオピアで、セパもエチオピアの一地方と考えられています。

今日の中心聖句はその続きとして語られた言葉です。なぜ私たちは、主の目に貴く、重んじられるのでしょうか。それは主が私たちを創造され、形づくられたからです。そして主が私たちを贖い、名を呼んで、主のものとしてくださるからです。主からの一方的な恵みのみです。

一方で私たちは、主に対して罪を犯し、その道を歩むことを望まず、その教えに聞き従わなかった、41:14で言われるような、虫けらのようなヤコブです。私たちは何の行いも関係無く、ただ存在自体が主の目に貴く、重んじられるものです。

このことは幼いときから何度も伝える必要のある大切なことです。幼い子を見かけると、「良い子だね、良し良し。」と声を掛けたりすることがありますがこれはとても大切なことです。子どもは物心が付くようになると、何もしていない子が、どうして良い子で、良し良しと言われるのだろうかと疑問に思うかも知れません。もし質問されたら、「君は神に造られて神のものだから大切な良い子なのだよ。」と伝えます。

2、マルタ

このことはクリスチャンでも分からなくなってしまうことがあるものです。先日のクリスマスの祝会でも少しお話しましたがマルタ(ルカ10:38~42)のことをもう少しお話したいと思います。マルタはなぜ「行い」に拘る人になって行ったのでしょうか。マルタは下に妹のマリアと弟のラザロのいる長女です。

長女であることが大きな影響を与えたように思います。決して長女は皆、マルタのようになるということではありませんが。マルタは恐らく幼いときに「良い子だね、良し良し。」と言われて無条件にマルタの存在自体が貴いと言われる期間が短かったように思います。妹のマリアや弟のラザロが生まれると、「お前は長女なのだから、しっかりと働いて妹と弟の面倒も見なさい」と言われて育ったのではないでしょうか。

マルタの家は良く人が集まるところだったようです。この地域では人をもてなすことが美徳とされていますので、その家のもてなしは家の名誉に関わる大切なことです。またマルタたちの親について何も書かれていませんので、若しかすると両親は早く亡くなりマルタは妹や弟の親代わりだったのかも知れません。

マルタにとっては、客をきちんともてなす「行い」が何よりも大切なものとなり、行いが唯一、自分の存在が認められるものになっていたのかも知れません。働くという行いによって主イエスに褒められることを期待していたのでしょう。しかしまず主イエスの言葉を聞き、主イエスの繋がるという一番大切なことが見失われていました。

そして自分が正しいと考える働き方が中心になり自己中心になってしまいました。その結果、神を利用して自分の思いを成し遂げようとしました。主イエスに「妹に手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と神に自分の考えを命じるという大きな過ちを犯しました。

主イエスから切り離されて結ぶ実のことを、「切り実(身)」と名付けましたが切り実は冷たいものです。切り実は他の人から見るとあてつけがましく見えて、「いや実」に見えます。一方で主イエスに繋がり、主イエスに付いて実る実は、「付き実(月見)」で温かいものです。主イエスはそのことをマルタに伝えました。

因みに私は3人兄妹の真ん中なので自分はマリアと言うつもりはありませんが、マリアの立場は分かる気がします。私の場合には幼いときから何かあると、これは長男に、これは末っ子の妹にと言って、真ん中の私には何も来ませんでした。これは、「ねた実、ひが実」という実かも知れませんが。

真ん中はそのようにある意味で放っておかれますので何でも自由にマイペースで出来るのは有難いことです。私は会社を辞めて英国に行っても、帰って来たと思ったら教会に通ってクリスチャンになっても、挙句の果てには牧師になっても両親からは何も言われませんでした。

全ては事後報告で事前には何の相談もしなかったということもあるかも知れません。父が亡くなったときに親戚の叔父さんから、信行は何を考えているのか分からないと父がこぼしていたとは聞きました。いずれにしても全ての人はその存在自体が主の目に貴く、重んじられる者です。

3、主の名で呼ばれる者

今日の聖書箇所は既にお気付きかも知れませんが完全な中心構造になっています。初めから徐々に盛り上がって行って、中心聖句でクライマックスに到達して、その後は折り返して同じ内容を繰り返して強調して行きます。

3b節ではエジプト、クシュ、セパが身代金でしたが、4b節では人と諸国の民が命の代わりになります。諸国の民は14b節でカルデア人であり、人というのは私たちの身代わりである主イエスを指します。5a節の「恐れるな。私はあなたと共にいる。」は、「恐れるな」(1b節)、「私はあなたと共におり」(2a節)に対応します。

5b、6、7節で、主は東西南北から主の名で呼ばれるすべての者を連れて来させ集めますが、これは、「私はあなたの名を呼んだ。」(1b節)に対応します。これは直近では、14b節の、「主はバビロンに使いを送り」、バビロンの捕囚からイスラエルを連れ戻すことです。

ここのような聖書箇所から、1948年に再建されたイスラエルを聖書の預言の成就という人々がいますが慎重な判断が必要だと思います。聖書の預言は主が連れて来させ集められるものです。しかし現代のイスラエルは政治的な策略や聖書の預言を利用した人の罪に塗れたものです。

主は人の罪でさえも用いられるお方ではありますが、現代のイスラエルを単純に預言の成就というのは、とても短絡的であり、常識のある人からは狂信的と思われます。ユダヤ人の中にも現代のイスラエルは聖書の預言とは関係がないと考える人々もおり、慎重な判断が必要だと思います。

イスラエルが回復させられる理由は、人が主の栄光のために創造し形づくり、主が造り上げた者であるからです。これは1a節に対応します。主の栄光のために創造し形づくり、主が造り上げた者はすべての人です。そしてすべての人は、主の目に貴く、重んじられます。

であるからこそ、すべての人の罪を赦し、贖い、買い戻すために、私たちの身代わりとして主イエスが十字架に付かれました。そしてすべての人を名を呼んで集められます。しかしその結果としてすべての人は集まるのでしょうか。この時のイスラエルも残念ながら、すべての人が集まったのではありません。

主に名を呼ばれて、その声に応じた者だけです。聖書の歴史を見ますと、イスラエルは何度も主に背いて裁きを受けます。しかし主はイスラエルを滅ぼし尽くすことはされません。裁きを下して木を切り倒しても切り株を残されます。それは新しい芽に希望を繋ぐためで、この人たちのことを聖書では、「残りの者」(レムナント)と呼びます。

これは一人の人の中でもあることです。私たちが主に背くときには裁きもありますが、一度で滅ぼし尽くされることは余り無いとは思います。しかし滅ぼされることは無いだろうと高を括ることは危険です。主は全知全能のお方で私たちの思いをすべてご存じです。

何よりも主に滅ぼされるかどうかのようなギリギリのラインを敢えて歩む必要はありません。私たちは主により創造され、形づくられ、それだけで、主の目に貴く、重んじられると言われる存在です。行いによって認められる必要はありません。主に繋がっているなら、御心に適う行いは聖霊によって示されます。

まず私たちは、主の目に貴く、重んじられる存在であること、そのために主イエスの十字架によって罪を赦されること、聖霊が正しい方向に導いてくださることを感謝し受け入れて今年も幸いな歩みをさせていただきましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。新しい年となりました。新年の初めにまず、私たちは、主の目に貴く、重んじられる存在であることをお語りくださり、有難うございます。今年も色々なことがあるかも知れませんが、私たちと共に歩んでくださる聖霊の導きに従って、御心をなして行くことが出来ますようにお導きください。

特に今、弱さを覚えておられる方々を顧みてお支えください。また今年、新しい歩みを始められる方々をお守りくださると共に、お一人お一人の歩みを祝福してください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。