「あなたの知らない食べ物」

2023年10月22日礼拝説教
ヨハネによる福音書4章31~42節                                                野田栄美

  • 食べ物

 テレビでよく食べ物を取り上げた番組を見ることがあります。美味しい物は見るだけでわくわくしますね。子ども礼拝のイベントの中でも、いちごパーティー、かき氷大会など、食べ物のイベントはとても人気がありました。

食べることは私たちにとって楽しみです。そして、私たちにとって食べることは欠かせないことです。食べ物がないと私たちは成長することも、生きることもできません。神はこの世界を創造された時から、人間に食べる楽しみを与えられました。エデンの園には様々な果実あったと書かれています。

今日は、主イエスが霊の食べ物について話してくださった場面です。私たちの知らない食べ物とは何か、そして、その食べ物が与えてくれる楽しみとは何かを聞いていきましょう。

  • 霊の食べ物

 今日の聖書では、旅の途中で主イエスは休憩を取っています。弟子たちは食べ物を買うために町へ行き、食べ物を持って帰ってきた場面です。

 買ってきた食べ物を差し出して、「先生召し上がってください」(31節)と弟子たちは勧めました。すると、予想外の返事がきます。「私には、あなた方の知らない食べ物がある。」だれか食べ物を持ってきたのだろうかと弟子たちが互いに言っていると、主イエスは言われました。34節「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」。とても唐突な言葉です。主イエスは物質的な食べ物の話から、突然、霊の食べ物について話を始められました。

 主イエスも、人としてお生まれになったので、生きるために食べ物が必要でした。誰でも食べ物がなければ死んでしまいます。主イエスはこの食べ物に例えて、どうしても食べないと霊が死んでしまうものがある。それは、神の御心を行うことだとおっしゃいました。

何か食べなければ、霊が死んでしまうなどと考えたことはあるでしょうか。体のための食事を毎日食べるように、霊も毎日食べ物を必要としているというのです。「今朝は朝ご飯を食べていないから、お腹が空いた」と思うことはあります。けれども「今朝、霊のご飯を食べ忘れたから霊の力が出ない」と話題にあげることはなかなかありません。主イエスはその意味を語ってくださいました。

  • 遣わされた

霊の食べ物とは「私をお遣わしになった方の御心を行うこと」です。まず、私たちは、自分が誰かに遣わされた存在だと知ることが始まりです。

聖書は、人間はみな神によって造られたと言っています。そして、今いる所に、あなたを置いてくださったのは神だと語ります。「自分の人生は自分のものだから、自分の好きなように生きよう」そのように自分を中心に考えているかぎり、霊の食べ物を見いだすことはできません。出エジプト記20章にあるモーセの十戒の一番初めに「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」(出エジプト記20:3)と書かれています。自分が支配者ではない、この世は神が支配されている。自分は神に造られた被造物であると、神への畏れをもって認める。ここが始まりです。

この神が、聖書の始めから終わりまで願っておられることは、罪に汚れてしまったこの世界にいる人々を罪から救い出すことです。そして、全ての人を神の国へ招き入れることです。これが神の御心であり、これを行うことが霊の食べ物です。

  • 不遇の時代

けれども、この御心を罪のある人は行うことはできません。聖書は「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3;10)と言います。人は誰一人、御心を行うことができない存在です。

主イエスが来られる前は、人の罪が歴史の中で語られてきました。預言者エレミヤは、涙の預言者と言われる不遇な預言者です。エレミヤ7:27では、「あなたが彼らにこれらすべての言葉を語っても、彼らはあなたに聞き従わず、あなたが呼びかけても答えないだろう」と、神は言われました。神の霊によって預言者が神の言葉を伝えても、誰も聞くこともなく、答えもしない時代でした。預言者は相手にされず、馬鹿にされ、それどころか、命の危険にさらされ、人々が神から離れていくのを見なければなりませんでした。そこには喜びはなく、涙のみの人生でした。

その世界をミカ書6:15はこう言っています。「あなたが種を蒔いても、刈り入れることはなく オリーブの実を踏んでも その油を身に塗ることはない。 新しいぶどう酒を搾っても その酒を飲むことはない。」

けれども、その真っ暗な歴史の中で、唯一の希望がありました。それは、いつか救い主が来るということです。その時には、「耕す者は刈り入れる者に続き ぶどうを踏む者は種を蒔く者に続く」(アモス9:13)と預言されていました。救い主が来られると、種蒔きと刈り入れの両方を味わう時代が訪れる。エレミヤも他の預言者も、どんなにその時を待ち望んでいたでしょう。

その救い主こそ、主イエスでした。一点の罪もない主イエスのみが、神の御心を完全に成し遂げることができる方でした。

  • 罪からの解放

主イエスは、神の御心を行うために、最初に成し遂げなければならないことをしてくださいました。罪への贖いを成し遂げることです。それが、主イエスの十字架による罪の贖いです。これが、先ず始めの「種蒔き」です。

この十字架によって新しい時代が始まりました。すべての人が罪に支配されなくなり、神の御心によって生きるようになる時代です。主イエスを神の子だと信じた人々には、聖霊が与えられました。その聖霊が人を通して神の御心を行ってくださる時代です。

  • 御心の実現

私は、食べることが好きです。皆さんそうだと思います。食べることは、ただ単に体を維持するために栄養を取るという行為ではありません。もしそうだとしたら、食べることは、物を口に入れ、噛み砕き、飲み込むという労働になってしまいます。けれども、神はそこに楽しみを与えてくださいました。美味しそうな食べ物を目で見る楽しみ、味わう楽しみ、体が元気を取り戻す楽しみなどです。

では、霊の食べ物が与えてくれる楽しみとは何でしょうか。35~37節「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四ヶ月ある』と言っているではないか。しかし、私は言っておく。目を上げて畑を見るがよい。すでに色づいて刈り入れを待っている。刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、蒔く人も刈る人も共に喜ぶのである。『一人が蒔き、一人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。」

「種蒔き」とは、主イエスが十字架によって罪の贖いを成し遂げてくださったことを、人に伝えることです。これは言葉で伝えることだけではありません。礼拝すること、祈ること、様々な奉仕をすることなど、聖霊と共に生きて行うことは全て種蒔きです。この種蒔きはなぜ楽しいのでしょうか。それは、蒔いたものを刈り入れるができる時代だからです。農家の人は種を蒔いても、必ず刈り取りができるとは限りません。台風で倒れてしまうかもしれないし、洪水にあって収穫ができないかもしれないからです。けれども、主イエスのことを人に伝えるところでは、もう既に畑は色づいています。種を蒔くと同時に、刈り入れが行われている。そのような畑で働くことはとても楽しいことです。

それでは、刈り入れをする実とは何でしょうか。それは「永遠の命に至る実」(36節)です。この世を去った後も、天国で生きることができる永遠の命をいただいた人たちのことです。この永遠の命とは神の霊である聖霊です。私たちは、必ず死ななければならない世界に生きています。けれども、死んだ後も一緒に生き続けることができる。そのような人が生まれるのを見ることができることは、他では味わうことができない喜びです。その人とまた天国で会うことができるということは、何にも代えがたい慰めです。

  • 蒔く人と刈る人

更に、36、37節に「こうして、蒔く人も刈る人も共に喜ぶのである。その収穫は、「一人が蒔き、一人が刈り入れる」ということわざのとおりになる。」とあるように、蒔く人と刈る人は別の人です。自分で蒔き、その収穫を自分でするのではありません。38節では「私は、あなたがたを遣わして、あなた方が自分で労苦しなかったものを刈り取らせた。ほかの人々が労苦し。あなた方はその労苦の実りにあずかっている。」とあります。これは、聖霊をいただいた神の家族と共にさせていただくことです。

神の御心を行うとは、自分がやったのだ、自分が成し遂げたのだというような、自分で達成するものではありません。それは、聖霊が人を通して行っておられることです。労苦して種を蒔いた最初の人は、主イエスです。更に、主イエスによって聖霊をいただいた弟子たちが、また現代に至るまでの主イエスを信じ、聖霊をいただいた人々が種を蒔き続けています。また、その刈り取りも主イエスが、そして弟子たちや続く人たちを通して、聖霊が成し遂げてくださっています。これは、2000年も続けられた聖霊のみ業です。この聖霊の働きに加わることができることは、楽しく、喜びの溢れることです。

この時、39~42節に書かれているように、主イエスの最初の刈り入れが弟子たちの目の前で始まっていました。その町のサマリア人たちが主イエスを神の子救い主だと信じました。その刈り入れは今でも続いています。

  

  • 霊の成長

私は、今まで神の御心を行うことは、辛いことを耐えることだと思っていました。主イエスの生涯は、人として考えると余りに不毛なものです。人々を救うことだけに人生を献げ、最後は、すべての人々に裏切られ犯罪者として死刑になりました。クリスチャンとして生きることは、ある意味同じように苦しみを受け入れることです。ですから、人に勧める時に、一瞬の躊躇が心に浮かぶことがありました。

けれども、今日の聖書は、はっきりとそれは違うことを教えてくれました。私たちは、食べ物を楽しむことに招かれています。主イエスが、聖霊によって種蒔きをさせてくださる。その種蒔きは、必ず他の人によって刈り取って貰えるという約束がある。同時に、ほかの人々が蒔いた種の刈り取りもさせていただける。天国に共にいくことができる人が増えていくのを見ることができる。これは、楽しく喜びのある生き方です。そして、その霊の食べ物を楽しむことで、霊の命を保たれ、霊は成長していきます。

  • へりくだり

 この楽しさを味わうことができる人生を皆さんに体験していただきたい。先ず、私は神に遣わされたものですと告白させていただきましょう。自分のために人生を生きる人ではなく、神の御心のために自分を献げる人にさせていただきましょう。そして聖霊をいただいて、霊の食べ物を味わわせていただきましょう。