「信仰によって生きる」 

2023年10月29日礼拝説教 
ローマの信徒への手紙1章16、17節

        

主の御名を賛美します。

1、福音

今日の箇所はこのローマの信徒への手紙の全体のテーマでもある大切な内容です。使徒パウロは1節から福音について語っていますが、突然、「私は福音を恥としません」と言い出します。パウロは一体、どうしたんだろうという感じがします。

誰もそのようなことを言っていないのに、自分から「私は福音を恥としません」と言うのは、今は思わないけれど、クリスチャンになる前は福音はおかしいと思っていたからでしょう。そして多くの人たちが福音はおかしいと思っていることを知っているからです。

福音とは何でしょうか。福音は上の2、3節で御子イエス・キリストに関するものです。そして福音の中心は4節の主イエスの十字架の死とその死からの復活であり、イエス・キリストが主、救い主であることです。

少し分かり難い感じがしますが、主イエスの十字架の死は私たちの罪の身代わりであり、十字架の死からの復活は私たちに永遠の命を約束するものです。福音という言葉自体は良き知らせという意味ですが、何の良き知らせですかと問うなら救いをもたらす良き知らせです。

そして福音の中心は十字架につけられたイエス・キリストですので、クリスチャンは牧師も含めて十字架についた救い主イエス・キリストを一生懸命に語ります。しかしこれは日本等では少し考える必要があるように思います。

私は自分がクリスチャンになる前は、クリスチャンというのはイエス・キリストの十字架という訳の分からないことばかりを言っている変な人たちだと思っていました。日本を含めて因果応報の考え方の方が馴染みやすいもので、お百度参りやお布施をすると願いが叶うという方が受け入れられ易いものです。

恵みによってただ信仰によって救われるというと、日本では、「ただより高いものはない」と考えて、何か胡散臭いと思われ易いものです。イエス・キリストが人間の罪の贖いとして十字架につけられたという予備知識のあるキリスト教の国の人たちを相手に十字架を語るなら分かります。

しかしイエス・キリストも十字架も何だか良く分からない異教の日本人に、十字架につけられたイエス・キリストを初めから語るのは、意味不明な、騒がしいどら、やかましいシンバルのように思われてしまう可能性があるのではないかと思います。

最終的には福音の中心である十字架に至る必要はあります。しかし聖書でも初めの全体の約四分の三の旧約聖書では、神と人間の罪深さがずっと語られます。そしてその後に、救いをもたらす福音であるイエス・キリストの十字架は出て来ます。人に何かを伝える時には、相手に理解してもらえる内容を理解の出来る言葉で語る必要があるように思います。

ところでⅠコリント1:23は、キリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、ギリシャ人を含む異邦人には愚かなもの、つまり恥であると言いますが、なぜでしょうか。しるしを求めるユダヤ人にとって、十字架という木に掛けられた者は呪われた者のしるし(申命記21:23)ですので、救い主では有り得ないとなって、つまずきとなります。

知恵を探すギリシャ人は、十字架につけられて死刑にされたナザレ出身の大工の息子が生き返ったという話に知恵を感じません。しかし福音の中心である十字架は、神の民として初めに選ばれたユダヤ人をはじめとして、ギリシャ人でも誰でも信じる者すべてに救いをもたらす唯一の神の力です。

2、義

17節で神の義と言われますが、義という言葉には色々な意味があります。正義、公平、正しい等の意味で、その意味で義とは神のご性質です。義そのものである神のその義、神の正しさは、その福音の内に啓示されています。

福音とは罪の赦しを含めての救いです。どういう意味で神の義は福音の中に啓示されているのでしょうか。全ての人間は罪人であって自分の力で救いを得ることが出来ません。自分で救いを得ることが出来ない人間を救わずに放って置くことは正しいこと、義ではありません。

自分で救いを得ることが出来ない人間に、救いの道を開くことが、神の義、神の正しさです。神の義は、人間を救うという神の真実によって始まり、人間の信じる信仰へと進んで行きます。ところで聖書がいう信仰は、一般に考えられている様に人間が何かを信じることではありません。

信仰はローマ10:17にある様に、キリストの言葉から来ることだけです。それは福音である主イエスの十字架による罪の赦しと救いを信じることです。キリストの言葉から来ないことは、いくら信じていても、それは聖書のいう信仰ではありません。「鰯の頭も信心から」と言いますが、それは飽くまで信心であって信仰ではありません。

3、信仰によって生きる

パウロは最後にハバクク2:4を引用して「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりですと言います。「正しい人」とはどのような人のことでしょうか。とても真面目そうな人のような気がします。

しかし義の所でお話ししましたが、完全な義、正義、公平であるお方は神お一人だけです。実際、3:10は「正しい者はいない。一人もいない」と言います。自分の力で正しい者になれる人は一人もいません。では正しい者はどんな人のことでしょうか。それは福音を信じる信仰によって生きる者だけです。

この世にはクリスチャンではなくても人の目には正しそうに見える人はいます。しかし神の目には正しい者は信仰によって生きる者だけです。「生きる」という言葉は未来形で書かれています。それは今を生きているだけではなくて、将来に渡って永遠の命に生き続けるということです。

そして生きるとは、ただ単に肉体的に生きていることだけではなくて、霊的に生き生きと生きることです。実はこの「正しい者は信仰によって生きる」という文章は新約で3回使われています。

1回目がこのローマ1:17で、これは16節で「救い」についての内容ですから、四重の福音の新生のことです。

救いは信仰だけによるということです。この聖書個所は宗教改革者のマルチン・ルターに大きな影響を与えました。信仰によってのみ義とされることを信仰義認と言いますが、信仰義認は、聖書信仰、万人祭司と並ぶ宗教改革の3本柱の一つとなりました。

4、宗教改革

約5百年前の1517年10月31日に宗教改革が始まり、10月31日が宗教改革記念日で、多くのプロテスタント教会では、10月31日の直前の日曜日である今日に、宗教改革記念礼拝が行われます。宗教改革と言いますと、皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

宗教改革は聖書にも書かれています。列王記下23章には「ヨシヤの改革」の小見出しが付けられ、ヨシヤ王の行った宗教改革が書かれています。ヨシヤ王の行った宗教改革は何か新しいことを始めたのではありません。

主の戒めと定めとを掟を守り、神との契約の言葉を実行することを民と共に誓いました。それは、今、講解説教で聴いている古い申命記の言葉を守ることです。ただそれだけのことです。その大切な基本的なことが見失われていましたので、原点に帰りました。

主イエス・キリストも宗教改革者と言えます。主イエスには福音の完成という新しい御業がありました。しかしその教えは旧約聖書の内容をただ形式的に守るのではなく、心を尽くして御心を行うことを教えられる基本的なことでした。

5百年前に行われたマルチン・ルターの宗教改革も特に何か新しいことをしたのではありません。宗教改革よりも1100年位前に書かれたハバクク書の「正しい者は信仰によって生きる」という御言に立ち帰って、救いはただ信仰のみによることを主張しただけでした。

先週の日曜日の午後に連合壮年会の秋の大会が行われ、安井巌先生が次世代育成について話してくださいました。私も次世代育成にはどのようなことが必要なのだろうかと考えていたので楽しみにしていました。とても良い内容で、それは宗教改革の内容にとても似ていました。

私たちは次世代育成等の何かの課題に直面する時に、何か新しいことをすることに飛びついてしまいがちです。それは新しいものは未知であるので、丸で万能のように淡い期待を抱くからです。しかし聖書に書かれている宗教改革の歴史やキリスト教の宗教改革の歴史が私たちに教える課題の解決方法は、ただ聖書の御言に帰ることです。

次世代育成において大切なこととして挙げられたことは、一人一人とのコミュニケーションを大切にすること、また世代間の交流を大切にすること等です。それは聖書に書かれているように教会が主イエスを頭とする一つの体として生きることです。

また伝道として大切なことは礼拝を大切にすることでした。そして伝道したい人を礼拝にお誘いすることです。礼拝については、安井巌先生のお兄さんである安井聖先生が春に教えてくださいました。礼拝とは悔改めと献身であり、礼拝者が悔改めと献身を行う礼拝が伝道になるということです。

次世代育成においても、これらの聖書に書かれている基本的なことが大切なことで、これらのこと無しに何か目新しいものに手を出しても実を結ぶことはないでしょう。新しいことをしてはいけないということではありません。今、行っていることの基本をまず大切にすることはあらゆることに通じることです。

5、四重の福音

ところで信仰は救われるためだけのものではありません。信仰によって正しい者とされる人も惑わされ易いものです。「正しい者は信仰によって生きる」の2回目はガラテヤ3:11で、ここは四重の福音の聖化の内容です。聖化というのは聖霊の満たしによって信仰が成長することです。ですから聖化も信仰によってということです。

そして3回目はヘブライ10:38で、ここは四重の福音の再臨の時に起きる栄化の内容です。栄化によって聖化が完全に完成します。その栄化の恵みに与る者は信仰によって生き続ける人です。栄化も信仰によってです。

また同じ御言による引用はありませんが、四重の福音のもう一つである神癒も信仰によります。神癒には奇跡的な癒しもあります。しかし神を信じて神と正しい関係になることは、霊的に健全な状態になることです。霊的に健全になった人が、身体も健全な健康を回復する神癒の恵みに与かるのは極めて自然なことです。

神の真実であるイエスキリストの十字架による罪の赦しと救いを信じる信仰によって生きることが、人間が正しい者とされる唯一の生き方です。そして信仰によって生きることはホーリネス教団の信仰の特色である四重の福音の信仰生活を生きる上でも全てに関わる中心的なことです。

信仰は神が与えてくださる最大の恵みです。聖霊の導きによって信仰の恵みを受け取ることによって生き生きと幸せに生きることができます。ロンドン日本人教会の盛永進牧師が良く言っていたことですが、幸せはどこか遠くにあるものではなく、今ここで神に与えられている恵みを信じて受け取ることです。信仰によって正しく幸せに生きる者とさせていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは誰でも正しく、幸せに生きたいと願うものです。そのための道は神の真実によって、主イエスが2千年前に十字架に付かれて備えられました。すべての人が聖霊の働きによってその恵みを感謝して信じて受け取り、正しく幸せに生きる者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。