「長子の権利」

2023年10月8日礼拝説教  
申命記 21章10~17節

        

主の御名を賛美します。祈祷会でもお話をさせていただきましたが、申命記の講解説教をさせていただいている中で、この聖書箇所から果たして礼拝説教をどのように出来るのだろうかと考えさせられる時があります。今日の個所もそうでした。

キリスト教では聖書はどの箇所も同じ価値ですが、ユダヤ教では創世記から始まるこの申命記までをモーセ5書の律法として重要視しているのも分かる気がする大切な内容です。大切な神の御言葉を味わいつつ、現代における意味を聴かせていただきましょう。

1、捕虜の女との結婚

イスラエルはこれから神から与えられる土地で生活をすることになりますが、色々なことが起こりますので具体的にどのようにときには、どうしたら良いかということについての指示が続きます。イスラエルは神の指示に従って敵に向かって出陣し、神は敵をイスラエルの手に渡されますので、イスラエルは捕虜を捕らえます。

捕虜を捕らえるということは20:14の場合ですから、これはイスラエルに相続地として与えられる町でのことではありません。相続地ではすべて息のあるものを聖絶しなければなりませんでした。ですからこれは相続地からは遠く離れた町でのことです。

その捕虜の中に美しい女がいて、心引かれ、妻に迎えようとするならば、彼女を自分の家に連れて行ってもよい、と言います。色々と考えさせられる文章です。「美しい」という言葉から何が美しいという意味なのかと考えますが、原語には「美しい」の前にはっきりと「容姿の」という言葉が入っています。

それで新改訳は、「姿の美しい女を見て」と訳しています。それはそうだろうとは思います。捕虜として捕らえたときに心の美しさ等は直ぐに分かるものではないでしょう。そうしますと、姿の美しい女を見ると、心引かれ、妻に迎えようとする男が必ず出てくるということです。いわゆる面食いです。

面食いというのは多かれ少なかれ誰にでもあるものです。人によってそれは一般的な美しさというよりも、自分好みの外見かも知れません。それは現代でもあって、また男に限ったことではなく、女にもあります。人は見えないものではなく、見えるものに心を引かれ易いものです。

しかしそうであればその女を自分の家に連れて行ってもよいということです。しかしこれは決して積極的に勧められていることではありません。異邦人との結婚は、原則的には他の神々に仕えるような結果を招くという理由で禁止されていました。ではなぜ捕虜の女との結婚が認められたのでしょうか。

一つは、イスラエルが頑なであるので、相続地から遠く離れた町の女との結婚は許可をせざるを得なかったと思われます。またもう一つの現実的な問題としては、その町の男はイスラエルが殺していますので、女たちには同胞に結婚相手の男がいないことが考えられます。しかし、だからと言ってイスラエルの男が結婚をする必要も無いとは思いますが。

結婚の手続きとして捕虜の女は、髪を切り、爪を切り、捕虜の衣服を脱いで、イスラエルの男の家に住みます。髪と爪を切ることの意味は、悲しみを表して喪に服す姿という考えもありますが、他の聖書箇所からはきよめの儀式として考えられています。捕虜の衣服は荒布だと考えられていて、それは良い衣服は奪われて、荒布を着せられていたためと思われます。

その女は自分の父と母のために一か月の間嘆きます。父は男ですから殺されていて、母は女ですからやはり捕虜となっているのでしょう。一か月の間は喪に服すのが当時の習慣であったようで、アロンとモーセが亡くなった時にも、それぞれ30日間喪に服しています。自分は妻として迎えられたからそれで良いとするのではなく、自分の家族のために喪に服すことを大切にします。

その後、イスラエルの男は彼女のところに入って夫となり、彼女は妻となります。しかしもしイスラエルの男が彼女を気に入らなくなるなら、彼女を自由に去らせなければなりません。全能の神は、イスラエルの男が異邦人の捕虜の女を妻に迎えようとすることも、その後に気に入らなくなることがあることもすべてご存じです。

そこで予め、その場合には彼女を自由に去らせなければならないと命令されます。なぜなら売って銀を得ようとする者が出ますので、決して銀で売ってはならないと命じます。この当時は捕虜の女の人権等は全く考えられてもおらず、正に戦利品(20:14)だったのでしょう。

申命記が書かれたのは、今から3千4百年前位と考えられ、日本の古典の古事記や日本書紀の2倍以上に古いものです。時代背景が現代とは違うものもありますが、そこから現代にも通じる不変の神の言を聴けるのは楽しいものです。

イスラエルの男は彼女を辱めたのだから、彼女を奴隷のように扱ってはならず、その人としての権利を尊重する必要があります。妻としたことは、男と妻は一度は一心同体となったのですから、自分と同じように扱う必要があります。

2、長子の権利

一度は妻となった女の権利に続いて、長子の権利こついてです。ある人に二人の妻があり、一人は愛され、もう一人は疎まれていました。これも色々と考えさせられる文章です。まず初めに、なぜある人に二人の妻があるのでしょうか。そうは言っても、旧約聖書では複数の妻のある人は沢山います。

しかし創世記2:24は、「男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。」と言い、本来は結婚は二人の男女が一心同体となるものです。そこには時代背景の違いがあるとは思いますが、まず二人の妻がある時点でおかしいことです。それはそれとしまして、妻の一人は愛され、もう一人は疎まれていました。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

この文章を読んで思い浮かぶ聖書箇所は、創世記29章にあるヤコブの結婚のことです。ヤコブはラケルを愛してラケルとの結婚を望んでいましたが、叔父のラバンに騙されてラケルの姉のレアと初めに結婚をしました。ヤコブの場合には結婚の前から一人の妻は愛され、もう一人は疎まれていてそれが続きました。

他の場合もあります。ダビデの場合に初めの結婚は、サムエル記上18章でサウル王の策略によって、サウル王の次女ミカルが妻として与えられました。しかしダビデは後に妻にしたバト・シェバを愛しました。色々なケースが考えられて、場合によっては初めは愛して妻にしたのだけれど、後になって他の妻を愛するようになったということもあるでしょう。

さて、愛されている妻も疎んじられている妻もその人の子を産み、疎んじられている妻の子が長子である場合、その人が息子たちに財産を継がせる日に、長子である、疎んじられている妻の息子を差し置いて、愛されている妻の息子を長子とすることはできません。

ここで「長子」という言葉が5回出て来ます。長子の日本語の定義では最初に生まれた子のことで、長男と長女の両方に仕えますが、普通は男である長男を指すとのことです。ここでも長子は男性形で書かれています。また長子と並行して「息子」と訳されている言葉と息子を指す言葉が合わせて同じ5回を使われていますので、ここの長子は息子である長男を意味します。

ヤコブの息子たちの場合はどうだったでしょうか。ヤコブは亡くなる前に息子たちを呼び寄せて、創世記49章で12人の息子たちの一人一人について預言をしました。その中で初めに長男のルベンについて、「ルベンよ、お前は私の長子。私の力、強さの初め。堂々とした威厳、卓越した力量がある。」と語っています。

ルベンは父の寝台に上って汚すという過ちを犯しましたが長子であることに変わりはありません。現代でも英語圏の国ではルベンという名前の人がいますので長子として評価されているようです。ただ神が選ばれて祝福されたのは、ヤコブが愛したラケルの長男であるヨセフでした。

ヤコブ自身も双子ではありますが、長子はエサウですが神が選ばれて用いられたのはヤコブでした。ダビデも男では7人兄弟の一番下ですが、長子であることと神が選ばれて用いられることは別のことのようです。ただ長子が長子であることに変わりはありません。

そして、疎んじられている妻の息子を長子と認め、自分の全財産を分けるときに、二倍の分け前を与えます。この文章はどのように受け止めたら良いのかと考えてしまいます。といいますのは、これは現代の日本の相続についての法律の内容とは違うからです。

日本でも相続というのは、揉め事になり易いものです。現代の日本の法律では長子も他の兄弟姉妹も分け前は一緒で全く同じです。しかし長子も他の兄弟姉妹も相続の分け前が同じになったのは第二次世界大戦後の1947年です。それまでは長男相続制でした。

それまでは相続をするのは個人の財産ではなく、家、家督でしたので、家を存続させるためには長男が多くを引き継ぐのが合理的と考えられていたためです。これは特に日本に限ったことではなく、聖書にも書かれていることですのでキリスト教の国々にもありましたが、兄弟姉妹は皆平等という観点から廃止されて行ったようです。

ところで長子はなぜ二倍の分け前なのでしょうか。聖書は、この息子が父の力の初めであり、長子の権利は彼のものだからと言います。「父の力の初め」を新改訳は「父の力の初穂」と訳していまして面白い訳だと思います。聖書で作物の初穂は聖なるものとして神に献げる特別なものです。

特別な者に対しては特別な権利が与えられます。また、より現実的な意味としましては、権利のあるところには、責任と義務が伴なうものです。その家が何か家業を行っているのでしたら引き継ぐのは普通は長子でした。職業選択の自由等はなかったでしょう。また親の世話をするのも長子であり、下の兄弟姉妹に対しても責任を負います。

そのような意味を考えますと責任と義務を負う長子は二倍の分け前というのも分かる気がします。現代の相続において兄弟姉妹は原則的には平等になっていますが、親の世話に関わっているとその分が考慮されたりするようですが、その按配が難しいようです。

クリスチャンには2種類の意味の家族がいます。一つは肉親の家族で、私は長子であるという人もおられるでしょうし、私は兄弟姉妹の2番目以降という人もおられるでしょう。クリスチャンには肉親以外にも霊の家族がいます。それは1人の神を父とする、神の子としての兄弟姉妹です。

神の子としての兄弟姉妹の長子はどなたでしょうか。それは今日の中心聖句のローマ8:29にありますように御子イエス・キリストです。御子イエス・キリストは長子であるにも関わらず、二倍の分け前を取られるどころか、すべてを私たちに与えるために、すべての権利を放棄されて十字架に付かれました。

それは長子として自分の下の兄弟姉妹たちを救うためにご自分の命を捨てられました。本当に素晴らしい長子です。そしてそれは先週の内容である、罪を赦し救うためだけではありません。父なる神は、私たちを御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定めておられました。

御子のかたちとは、外見という意味ではなく、神の霊である聖霊によって生きることです。それは今年度の標語のとおりに、聖霊に導かれ、聖霊と共に生きることです。それは主イエスが放棄された権利を戻し、長子である主イエスの栄光を褒めたたえることです。それが私たちが幸せに生きる道です。

3、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。申命記の時代には長子は二倍の分け前を与えられましたが、多くの義務と責任を負うものでした。教会の頭であり長子である主イエス・キリストは私たちの救いのために十字架に付かれました。

そして聖霊によって私たちを御子のかたちに似たものにしてくださいますから有難うございます。聖霊に導きによって主イエスの栄光を褒めたたえ歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。