「罪の赦し」

2023年10月1日礼拝説教  
申命記 21章1~9節

        

主の御名を賛美します。

1、イスラエルの罪の赦し

私たちの人生には思いも寄らない、まさかというようなことが起こるものです。神がイスラエルにこれから所有させる土地でも色々なことが起こることが考えられます。その場合にはどうしたら良いのかを、具体的に一つずつ指示して行きます。

今日は神が所有させる土地で、殺されて野に倒れている人が見つかり、誰が殺したのか分からない場合です。このようなことは現代でもあり得ることです。しかし犯人が誰であるのかが分からなければ、どうしようもないような気もします。現代であれば迷宮入りの事件です。

しかし19:13で、無実の者の血を流した過ちをイスラエルから取り除くことが命じられました。神が所有させる土地では犯人が誰であるのか分からないからといって、そのまま無実の者の血を流した過ちを放置することは出来ません。過ちを取り除くことによってイスラエルは幸せになりますし、過ちを取り除かなければ幸せにはなれません。

この場合には、長老たちと裁き人たちはそこへ赴き、殺された周りにある町までの距離を測ります。そして殺された者の最も近くにある町が過ちを取り除くことになります。これは最も近くにある町に殺人犯がいるからという意味ではありません。

殺人犯はどこの町の誰かは分からないけれど、最も近くにある町が過ちを取り除きます。その町の長老たちは、まだ働かされたことも軛につながれたこともない若い雌牛を選びます。そしていつも水の流れが尽きない川辺に引いて行き、その川で雌牛の首を折ります。

この世に塗れていないものを清い場所で犠牲にしますが残酷な感じがします。創世記9:5に、「あなたがたの命である血が流された場合、その血の償いを求める。」とあります。殺人犯が誰であるかが分からない以上、動物の血で償わざるを得ません。

それから、レビ人である祭司が進み出ます。レビ人は神がご自身に仕えさせ、主の名によって祝福するために選ばれました。祝福は祭司が主の名によって宣言を行うことによります。どのような訴訟等の争いごとも傷害事件も神が選ばれた祭司の判断に従うことによって祝福されます。

そのような判断を行う祭司の目の前で、死体の最も近くにある町の長老たちは皆、川で首を折られた雌牛の上で手を洗い、証言を行います。「私たちの手はこの血を流しておらず、目はそれを見ていません。」 これは勿論、殺されて野に倒れている人の血のことで、雌牛のことではありません。

そして、「主よ、あなたが贖い出されたあなたの民、イスラエルの罪を赦してください。あなたの民、イスラエルの中で無実の血が流された責任を負わせないでください。」と言います。こうして、流された血の罪は赦されます。

あなたが主の目に適う正しいことを行うなら、あなたの中から無実の者の血を流した罪を取り除くことができます。どのような時にも、自分が正しいと見なすことを行うのではなく、主が命じられるとおりに、主の目に適う正しいことを行う必要があります。

但し、ここで赦される罪は、無実の血が流された土地を所有するイスラエル全体としての責任だけです。長老たちが証言したように、確かに無実の者の血を流した殺人犯がその町におらず、目はそれを見た目撃者もその町にいないなら、その地で無実の者の血が流された責任の罪は赦されます。

しかし無実の者の血を流した殺人犯の罪や、その殺人を見たにも関わらず証言を行わないで黙っていて、主の目に適う正しいことをしない者の罪が赦される訳ではありません。

2、総督ピラト

この箇所を読んでいると、マタイ27:23、24で、「主イエスを十字架につけろ」と叫ぶ群衆に対して、総督ピラトが群衆の前で手を洗って、「この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ。」と言う場面が思い浮かびます。

ピラトはいくら手を洗って、自分には責任がないと言っても責任逃れをすることはできません。なぜならピラトは、主イエスは十字架に付けられるような悪いことを何もしていないということを知っています。そして総督としてそのことを正しく裁く責任のある立場にいます。

それにも関わらず、自分の立場を守る保身のために主イエスを十字架に付けることにしました。そのためにピラトは、現代でも使徒信条の中で、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ・・・」と不名誉な告白をクリスチャンにされ続けることになりました。

3、罪の赦し

今回のような事件が起きるときには、その背景には色々な事情がある場合もあるかも知れません。若しかすると、殺人犯もかっとなって事件を起こしてしまいましたが、後になって自分でも自分のしたことが恐ろしくなってしまい自分が犯人であると言い出せなくなってしまった可能性もあります。

または19:4にあったような、以前から憎んでいたわけではなく、過って打ち殺してしまった可能性もあります。自分でも悪いことをしてしまったと思いつつも、自分が犯人であるということを自白するタイミングを失ってしまうと、言い出せなくなってしまうということもあるかも知れません。勿論、そのようなこととは全然関係なく、殺人犯はただ隠れて逃げているだけかも知れません。

目撃者についても同じです。殺されて野に倒れている人が見つかった場所の方面に行く人や、その方面から帰って来るような人も見た人もいるかも知れません。しかし正確なことが分からないのに、余計なことを自分がもしも言って、その人が関係なければその人に迷惑が掛かるかも知れませんので、そのようなことを言うのは止めようという気持ちが働くかも知れません。

しかしそのような思いというのはいつまでもすっきりとしないまま残ってしまうものです。人が殺されたという事実がある以上、そこには何かがあるはずです。イスラエル全体の責任の罪は赦されても、その殺人事件に関わった人の罪が、何も自白をして責任を取らずに赦されることは、この当時はありません。血の責任は付いて回ります。

では現代においてはどうなのでしょうか。例えどんな罪を犯したとしても、神の前に心から悔い改めるなら赦されない罪は何一つありません。なぜならこの時に犠牲にされた、まだ働かされたことも軛につながれたこともない若い雌牛とは比較にならない、神のお独り子であるイエス・キリストがすべての人のすべての罪のために十字架につけられたからです。

神の前に心から悔い改めて赦されない罪というものはありません。もしもある罪は赦されないということは、そのために十字架に付かれた主イエスの十字架の死は不十分であるということを意味しますが、そのようなことは有り得ません。ただ罪を犯した者は、その罪を心から悔い改める必要はあります。

理屈では、すべての人のすべての罪のために主イエスが十字架に付かれたのだと頭では分かっていても、感覚的に追い付いて行かない部分もあるかも知れません。そのようなことのためにもこの後に行われる聖餐式が制定されたのかも知れません。聖餐式は食べる御言葉とも言われます。

言葉だけで理解するのではなく、五感を通して御言葉を身に付けることは大切です。勿論、聖餐式はただ五感を使うだけではなく、そこに親しく臨んでおられるキリストを覚える時です。キリストのからだと血とにあずかる前に私たちは、神の前にて真実な悔い改めを行います。

人によっては、クリスチャンは罪を犯しても神の前でだけ悔い改めれば良いと考える自分勝手な宗教であると思われるかも知れません。第一に、まずは神の前に悔い改めることが大切です。しかし今日の中心聖句でも、「あなたが主の目に適う正しいことを行うなら」とあります。

まず神の前に悔い改めて祈る中で、「主の目に適う正しいこと」として、誰か他の人に謝罪すること等が示されるなら、それを行う必要があります。主の目に適う正しいことをすべて行うことによって、罪の赦しは確かなものになって行きます。

またある人は、他の人に罪を犯されて、その罪を犯した人を赦す必要があると分かっていても、感情的に赦せないと感じることもあるかも知れません。人間は感情を持って生きていますので、それは簡単なことではありません。罪を犯した人が悔い改めているならまだともかく、悔い改めていないのなら尚更です。

しかし罪を犯した人が本当に心から悔い改めているかどうかは他の人には分からないことです。神のみご存じのことです。間違っていることをしている人がいるなら正しい方向に導く必要はあります。しかし悔い改めるかどうかは本人と神の間の問題です。

ただすべての人のすべての罪のために、既に主イエスは十字架に付かれていて、罪の赦しは用意されています。悔い改めて主イエスの十字架による罪の赦しの恵みを受け取るかは本人次第です。

聖霊は明らかに、すべての人が主イエスを信じて悔い改めて、すべての罪の赦しを得るようにと導かれます。主イエスを信じて、悔い改め、幸せな歩みをさせていただきましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。イスラエルの人たちは、無実の者の血が流される罪が犯されるときには、動物の犠牲を必要としました。この原則は現代でも変わりません。しかし私たちの罪の身代わりとして主イエスが十字架についてくださいました。このことの意味を深く味わわせてください。

そしてその恵みに感謝して、聖霊の導きの中で、自分が犯した罪を素直に悔い改めさせてください。それにより幸せな歩みをさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。