「神の恵み」
2023年11月12日礼拝説教
ルカによる福音書 2章22~24、39、40節
主の御名を賛美します。今日の聖書箇所に思いを巡らしているときに、学校等で行っていたお決まりの儀式的なことを思い出しました。小学校の朝礼に始まって、入学式、卒業式、運動会の開会式、閉会式の練習等を思い出して、学校の先生には申し訳無いのですが好きではありませんでした。
しかし以前は好きではなかった儀式ですが、最近は自分で聖餐式や洗礼式等の儀式を行わせていただくようになり、儀式の意味が分かって来ると良いものであると思うようになりました。
1、儀式
今日の聖書箇所の前半は主イエスがお生まれになられたときに行われた儀式的な内容です。この当時に男の子が生まれるときに行う儀式の内容はレビ記12章に書かれています。儀式の一つ目はルカ2:21で、レビ12:3の定め通りに八日目に割礼が行われ、イエスと名付けられました。
今日はその後のことで、モーセの律法に定められた清めの期間が満ちるときです。清めの期間はレビ12:1、4を合わせて考えますと出産後の40日間です。清めの期間が満ちるまでは家にとどまり、聖所に赴いてはなりません。40日間は清めの期間として定められたものです。
しかし、その期間は家にとどまることは、出産という体に大きな負担が掛かった後の状態を考えますと、体を休めるために大切なことです。律法は決して人を縛る窮屈なものではなく、人間の幸せを考えて神が定められたものです。
清めの期間が満ちると、儀式の二つ目として両親はその子を主に献げるために、エルサレムに連れて行きました。それは主の律法に、「母の胎を開く初子の男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからですが、これは出エジプト記13:2の御言葉です。
日本では子どもは良く、「授かりもの」と言われます。そこから来るのは、自分たちに授かったのだから子どもは自分たちのものであり、どうしようと自分たちの勝手だという考えです。しかし出エジプト記13:2で主は、「すべての初子は私のものである」、主のものであると言われます。
主のものであるということは、決して人間の親への授かりものではなく、神から預かっている「預かりもの」です。神からの預かりものは自分の都合で自由勝手にして良いのではなく、神の御心に従って育てる必要があります。
儀式の三つ目は、山鳩一つがいか若い家鳩二羽を、いけにえとして献げます。これは一般的にはレビ12:6~8に書かれている母親であるマリアの清めのためのいけにえと考えられています。しかしこのいけにえを民数記6:10の主に献身するナジル人の誓願のいけにえであるとする考えもあります。
22節の、「その子を主に献げる」とはナジル人としての献身ということです。ヘブル語では母音を表記しませんので子音が同じ言葉は関連のある言葉として、主イエスの出身地のナザレはナジルの意味であると考えます。それはいずれにしても、この後に主イエスの家族はシメオンとアンナからの言葉を聞きました。
そして主イエスの親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰りました。聖書を良くご存じの方は、あれ、主イエスの家族はこの後にマタイ2:14に書かれているように、エジプトに二年間位の避難生活をしていたのではないかと思います。確かにそうなのですが、聖書は全ての個所で全てのことを時系列的に書いているのではありません。それぞれの個所で強調することを書いています。
2、神の恵み
幼子である主イエスは成長し、強くなり、知恵に満ち、神の恵みがその上にありました。主イエスはなぜ成長し、強くなり、知恵に満ち、神の恵みがその上にあったのでしょうか。それは神の子ですから当然でしょうと言われればそうかも知れません。
私たちは幼子を見るときに、その幼子が自分の家族であってもなくても、健やかに成長し、強くなり、知恵に満ち、神の恵みがその上にあるようにと願うものです。今日も後で幼児祝福式を行いますがそのように願いつつ行います。そのような神の恵みを得るためにはどのようなことが必要なのでしょうか。
今日の聖書箇所に繰り返し使われて強調されている言葉があります。それは「律法」で4回使われています。そして21~24、39節は律法に定められた通りに儀式等が行われました。そしてその後に、「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ち、神の恵みがその上にあった。」と書かれています。
それはそのようになるためには、律法で定められたことをみな行う必要があるということです。それは決して律法でがんじがらめの律法主義になるという意味ではありません。世の中には色々な決まりによる儀式等がありますが、皆さんはそのような決まりやその儀式についてどのようなイメージを持っておられるでしょうか。
私は初めにお話ししましたように以前は儀式全般に対してとても否定的なイメージを持っていました。儀式と言いますと何か形式的なことに多くの時間、労力、お金等を掛けて、儀式を行うことに何の意味があるのだろうと思っていました。
しかし以前はそれ程に嫌いだった儀式ですが、最近は子どもの入学式や卒業式に出席すると感動したりして良いなと思うようになりました。子どもの儀式というのは若しかすると本人のためというよりも親や周りに人のためのものなのかとも思ったりします。しかし本人にも少しでもその意味を分かってもらうことも大切なことです。
以前は儀式というのはただ決まり通りに形式的に行うもののように思っていたのでつまらなく感じていましたが、儀式の一つ一つの意味を知るようになると味わい深いものであるように思います。そして儀式の意味を知るためには儀式の基になる決まり、律法を知る必要があります。
聖書で律法は広い意味では、モーセの書いたモーセ5書である創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の内容を指します。その意味でも今、講解説教で聴いています申命記もとても大切な内容です。律法の中心的な内容は十戒になります。
ただ律法や決まりもただ表面的なことや物質的な意味だけを読んでいると誤解をしたり、つまらないと感じてしまうことがあります。しかし主イエスがマタイ5:18で、「天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。」と言われているのですから、律法の霊的な意味を知って理解することは大切なことです。
律法の霊的な意味を理解し実践して行くことによって、幼子は健全に成長し、強くなり、知恵に満ち、神の恵みがその上にあるようになります。子ども礼拝では御言葉を聴くだけではなく、御言葉を覚える暗唱聖句を行い、証しや、分かち合い、祈りを行っています。
ただ律法の実践は人間の努力だけでは出来ませんので、神を信じ、聖霊をいただいて、聖霊に導いていただく必要があります。聖霊に満たされる者は自然と律法の内容を行う者へと変えられて行きます。それは子どもだけではなく、大人であっても全く一緒です。聖霊の力によって律法を行う者とさせていただき、神の恵みをいただきましょう。
3、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するために来られたと言われました。どうぞ私たちが主イエスを信じ、聖霊をいただき律法を行う者となり、いつも神の恵みが上にある者とさせてください。そしてその神の恵みを幼子に伝える者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。