「主に委ねられた子」
2023年11月19日礼拝説教
サムエル記上 1章9~28節
主の御名を賛美します。子育てについては簡単だったという話は余り聞くことはなく、多くの人は思い悩んだりして苦労するものではないかと思います。自分自身が育てられた経験からこうすれば良いのではと思ってはいても、いざ自分が行うと中々思いどおりには行かないものです。どのようにしたら良いのか御言葉を聴かせていただきましょう。
1、ハンナの誓い
今日の舞台はエフライムのシロ(地図3)です。シロには十戒の納められた契約の箱が置かれた会見の幕屋がありました。ハンナの住んでいるラマはシロの南のベニヤミンとの境の近くです。ハンナは夫のエルカナとエルカナのもう一人の妻のペニナとペニナの息子と娘と一緒に毎年、主を礼拝するために収穫祭の巡礼のためにラマからシロに来ていました。
ハンナの夫のエルカナはとても真面目な人で、エルカナの名前の意味は、「神が所有された」という良い名前です。しかしそれなのになぜエルカナは二人の妻を持つようなことをしたのだろうかと思います。これは恐らくは、ハンナが一人目の妻ですが子がなかったので、家系を継いで土地等を相続するために当時の習慣に従って二人目の妻のペニナを迎えたと考えられます。
主がハンナの胎を閉ざしていた上に、ペニナがハンナを悩ませましたのでハンナは苦しんでいました。ハンナは何も食べなかったようですが、シロで食事が終わって、ハンナは立ち上がった時、祭司エリは主の宮の門柱近くの席に座していました。
9節はただその時の情景を描いた何気ない文章のようにも思えます。しかし聖書で「立ち上がる」というのは、ただ単に肉体的な意味で立ち上がることではなく、霊的な意味で立ち上がることを意味します。立ち上がったハンナとは対照的に門柱近くの席に座した祭司エリというのは象徴的です。
ハンナは悲しみに沈んで主に祈り、激しく泣きました。しかし霊的に立ち上がったハンナは誓いを立てて言いました。「万軍の主よ、どうかあなたの仕え女の苦しみを御覧ください。この仕え女を心に留めてお忘れにならないでください。」 とても自分の気持ちに正直でありながら謙虚な言葉でありハンナの人柄が分かります。
そして、「男の子を賜りますならば、その子を一生主にお献げし、その頭にはかみそりを当てません。」 男の子を賜るならば、その子は自分の子とはしないで主に献げるという誓いです。ハンナの苦しみは、この誓いに導かれるためのものだったのかも知れません。
頭にかみそりを当てないというのは、主に献身するナジル人となることです(士師記16:17)。ナジル人であるサムソンは髪の毛をそられると力が抜けてしまったとある通りです(士師記16:19)。そのためかユダヤ教の超正統派と呼ばれる人たちは髪を長く伸ばしています。
2、ハンナの祈り
ハンナが主の前で、この誓いを込めた祈りを長く祈っているので、エリはハンナの口元を注意深く見ていました。しかしハンナは心の中で語っていたので、唇は動いていましたが、声は聞こえませんでした。そこでエリはハンナが酔っているのだと思いましたが、エリがそのように考えたそれなりの理由が考えられます。
一つ目は、この当時は声には出さないで心の中で祈ることが珍しかったようです。そして二つ目は、このときは収穫祭でお祭りですので酔っている人が多くいたようです。そして三つ目はエリの問題です。エリは立派な祭司であり、この後にはサムエルを正しく導きます。
しかしエリは二人の息子のホフニとピネハスが悪事を働いているにも関わらず、それを戒めることが出来ませんでした。それが門柱近くの席に座していたエリが象徴することなのかも知れません。エリはハンナに、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」と言いました。
皆さんがもしハンナの立場だったらエリに何と答えられるでしょうか。少し立腹して、「酔ってなんかいません。」と言ってしまうでしょうか。ハンナは「いいえ、そうではありません、祭司様。」と神と人とを執り成す祭司に対してきちんと敬意を表します。
そして「仕え女を慎みのない女だと誤解なさらないでください。積もる憂いと苦しみのため、今まで神と語らっていたのです。」とハンナは丁重に事実をそのまま答えます。自分にとって事実とは異なる不本意なことを言われると誰でも多かれ少なかれ気分を害して不機嫌になってしまい易いものです。
しかしハンナはそのような素振りは一切、見せずに祭司エリに敬意を表して丁寧に答えました。エリはハンナについて酔っていると勘違いをしてしまいましたが、それでも丁寧に答えるハンナの人格に感心したことでしょう。「安心して行きなさい。イスラエルの神があなたの願いをかなえてくださるように。」と答えました。
ハンナは、「あなたの仕え女が恵みにあずかれますように。」と言いました。恐らくエリはハンナのために祈りを捧げたことでしょう。祝福を受ける人というのは、人の勘違い等に腹を立てたりせずに、人にきちんと敬意を表しながら事実は事実として丁寧に伝えて、好意を得る人であることを教えられます。
「恵み」はヘブル語で「ヘン」で、ハンナ(慈しみ)と同じ語根の言葉です。「ハンナが恵みにあずかれますように。」というのはダジャレのような表現です。それまでは悲しみのあまり何も食べようとしなかったハンナですが、食事をして表情ももはやこれまでのようではなかったと言いますので、晴れやかになったようです。
それは祭司エリから祝福の言葉も受けて、誓いの祈りに主が答えてくださる確信が与えられたのでしょう。主はハンナを顧みられて身ごもり男の子を産みました。ハンナは、「主に願って得た子だから」と言って、サムエルと名付けました。サムエルの名前の意味は色々な説がありますが、「神の名」というのが有力です。
3、子を献げる
ハンナの夫のエルカナが家族の皆と共に、毎年恒例の年ごとのいけにえと自分の誓願の献げ物とを主に献げるためにシロに上って行こうとしました。「年ごとの」という言葉と出エジプト記34:22の御言葉を合わせて考えますと、この収穫祭は七週祭と考えられ現在のペンテコステになります。
しかしハンナは行こうとしませんでしたが、それはなぜなのでしょうか。背景の理由として考えられますのは、ハンナは1年前の巡礼後に身ごもっていますので、この時は恐らく出産後の間もない頃だったと思われ、乳飲み子を抱えて丸一日の距離を歩くのは過酷だったと思われます。
そのような中でハンナは、「この子が乳離れしたら、この子を連れて行きます。この子は主の前に出て、そこにいつまでもとどまります。」とエルカナに言いました。ハンナは男の子が与えられるという自分の願いが叶えられても、子を主に献げるという誓いは変えません。
民数記30:7~9の誓願の規定によると、女性が誓願を立てても夫がその誓願を聞いた日に反対するなら、夫はその誓願を取り消すことができます。そのことを意識してか妻と夫という言葉が強調されています。
しかし夫エルカナは妻ハンナの誓願を受け入れて、「あなたが良いと思うようにし、この子が乳離れするまでとどまっていなさい。」と言います。更に、「主のお言葉どおりになるように。」と言います。これは引っ掛かりを覚える言葉です。ここで言う主のお言葉とはどの言葉なのでしょうか。
結論を言いますとはっきりとしたことは分かりません。主は直接的には何も言われていないからです。これまでに出て来た言葉はハンナの言葉とエリの言葉だけです。そうしますと主によって導かれたハンナとエリの言葉が主のお言葉ということのようです。
ハンナはとどまり、乳離れするまで子に乳を与えました。乳離れするまでというのはどの位の期間なのでしょうか。外典ですがマカバイ記二7:27には授乳期間は3年間とあります。その子はまだ幼かったと言いますので恐らく3歳位なのでしょう。
やがて彼女は、その子を乳離れさせると、献げ物を携えてシロにある主の家にその子と共に上って行きました。ここでハンナとサムエルという固有名詞で言わずに、彼女とその子と言っているのは、これはハンナとサムエルだけに限ったことではなく、すべての人が行う必要のあることという意味が込められています。
日本でも七五三で宮参りに行きますが、これはその原型なのかも知れません。献げ物の一つ目は三歳の雄牛一頭ですが、ここを新改訳は子牛三頭と訳していてどちらとも考えられる文章です。それと麦粉一エファ(約23ℓ)とぶどう酒の入った革袋一つです。
人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行き、ハンナはエリに、「祭司様。あなたは生きておられます。」と言いました。原語では、「あなたの魂は生きておられます。」と言っています。それは17節でエリが、「安心して行きなさい。イスラエルの神があなたの願いをかなえてくださるように。」と言った言葉のとおりに、ハンナは安心して行き、イスラエルの神が願いをかなえてくれたからです。
ハンナは続けて、「私はこの子を授かるようにと祈り、主は私が願ったことをかなえてくださいました。」と言います。そしてハンナも誓いのとおりに、「私はこの子をその生涯にわたって主にお委ねします。この子は主に委ねられた者です。」と言い、彼らはそこで主を礼拝しました。
4、主に委ねられた子
先週の説教でもお話しましたが、子どもは主からの預かりものとして、主にお返ししお委ねすることが必要です。そのことを覚えるために、今日の礼拝の終わりに行われます献児式を行うことは大切なことです。今日の聖書箇所ではハンナはサムエルを主の宮に置いて帰ります。
ただ同じように今日、献児式を行う人が子どもを教会に置いていかれることはありません。大切なのは子どもをどこに置くということではありません。子どもを主にお委ねすることです。それは子どもを自分の好き勝手に支配するのではなく、常に主の御心を求めて行って行くことです。
ハンナはサムエルを主に委ねたからといって何もしないのではありません。2:19に、「母ハンナは、彼サムエルのために小さな上着を作り、毎年、夫と共に年ごとのいけにえを献げるために上って行くとき、それを持参し」ました。私はこの箇所を読むと、童謡の「かあさんの歌」を思い浮かべます。
ハンナは名前の意味のとおりに慈しみ深い人です。子どもの健全な成長に必要なものは、主に委ねられることとたっぷりの愛情を注がれることです。そのような状況で育ったサムエルは、2:26で、「少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者とな」りました。
私たちは自分の子どもでも他の人の子どもでも、健やかに育ち、主にも人々にも喜ばれる者となることを願うものです。そのようになるために今日の聖書箇所が教えることは、子どもを主に委ねることです。主に委ねるというのは、その子に必要なことを主に求めて、聖霊の導きに従って行うことです。
これが分かっていても実行するのは中々難しいことです。どうしても親というのは自分の考えを子どもに押し付けてしまいがちです。本当に祈りつつ御心を求める必要があります。そしてハンナがサムエルに行ったように、聖霊の力によって愛情を十分に注ぐことです。
子どもを主に委ねて愛情を注ぐことは親の健全な成長にも大切なことです。ハンナはこの後の2:21で息子三人と娘二人が与えられました。子を主に委ねることは、子どもにとっても親にとっても祝福の道です。聖霊の導きに従って子どもを主にお委ねしましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ハンナは悲しみの中で主に誓い、主から預けられたサムエルを主に委ね愛情を注ぎました。それはサムエルにとってもハンナにとっても祝福の道でした。私たちの身近にいる子どもたちも主にお委ねしますので、子どもたちが健やかに育ち、主にも人々にも喜ばれる者となるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。