「生きるものとする言葉」

2023年11月26日礼拝説教
ヨハネによる福音書4章43~54節                                        野田栄美

  • 危機

 誰でも人生において、危機に見舞われる時があります。先日、災害に遭われた方にお会いしました。大変だったと言うお話しになると思いましたが、そうではなく、災害に遭ったことで自分の価値観を見直すきっかけになったとおっしゃいました。人生の危機は、実は、私たちにとって心のあり方を変える時となることがあります。私も次男を生後2ヶ月半で亡くしましたが、その体験は、聖書を深く知るように導いてくれました。今日は、人生の危機に見舞われている一人の人の話です。

  • 自分の故郷

主イエスは、サマリアに2日間寄り道をされた後、目的地のガリラヤに着かれました。ガリラヤは、主イエスが育ったナザレがある地域です。この時、主イエスはユダヤ地方のエルサレムで過越祭を過ごされてから、ガリラヤへ帰って来ました。エルサレムに滞在していた時、主イエスは多くの奇跡を行われました(ヨハネ2:13~25)。多くの病人を癒やされたり、悪霊を追い出したりされたのでしょう。その奇跡は人々を圧倒するものでした。

そのイエスがガリラヤへやって来られたというので、人々は大歓迎しました。ガリラヤの人たちの中にもエルサレムで過越祭を過ごした人が大勢いたので、話を聞いていたからです。あの奇跡をこの目で見たい、病人は癒やしていただきたいと願いました。これは、主イエスの華々しい伝道の始まりのように見えました。

けれども、著者ヨハネは44節で突然こう語ります。「イエスご自身は、『預言者は、自分の故郷では敬われないものだ』と証言されたことがある。」この言葉の通り、彼らの歓迎ぶりの背後にあるのは、不思議な奇跡を見たいという興味本位の思いでした。目に見えることを期待している姿です。神から遣わされた霊的な救い主として、主イエスを敬う人はいませんでした。

  • 王の役人

 主イエスはこの時カナという町に行かれました。以前、主イエスが水をぶどう酒に変えられた場所です。ここに一人の王の役人が登場します。王の宮廷に仕える役人で、身分の高い異邦人です。この王の役人は危機に瀕していました。彼の息子が死にかかっていたからです。自分の子どもが死にかけているというのは、人生において非常に辛い状況の一つです。この状況の中で、彼は、病人を癒やしたというイエスの噂を聞いたのでしょう。その人になんとか息子を癒やしてもらおうと、彼は主イエスに会うためにカナまでやってきました。

彼の住むカファルナウムは、カナから直線で約32kmあり、標高差は約630mありました。最低でも8時間はかかる上りの道を、息子を癒やしていただくために登ってきました。道すがら、彼は祈るような気持ちだったでしょう。なんとか息子を救うために、あの人に会わなければと足を進めたに違いありません。

 そして、ようやくカナに着き、主イエスにお会いできた時、彼は息子を癒やしてくださるように頼みました。自分の高い身分も顧みず、必死の思いで頼んだでしょう。けれども、主イエスの返事は思いがけないものでした。48節「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。「あなたがた」と言われているので、これは役人だけでなく、その周りにいるたちにも語られた言葉です。

  • 心の姿

ヨハネによる福音書3:20では、主イエスが「光」に例えられています。その光に照らされる時、悪い行いが明るみに出されると書かれています。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」という言葉は、人々の心を照らしました。「あなたがたは、ただ、目に見える不思議な奇跡を見たいと思っている。それを願ってきたのだろう」と。ある者は見たことのないような不思議な業を期待して、ある者はカリスマ的な政治的指導者を期待して、ある者は病気の癒やしを期待していました。自分の思いを叶えるために、主イエスを用いようとする心がありました。正に、「預言者は、自分の故郷では敬われないものだ。」という言葉通りの状態であることを、主イエスは指摘されました。

この返答を受けた、王の役人の心はどのようなものだったでしょうか。彼の心は息子を救いたいという思いで一杯でした。ですから、主イエスに対しては、ただ病気を癒やす可能性のある、医者のような方としか考えていませんでした。その証拠に、彼はカファルナウムに一緒に下ってきて欲しいと願い出ています。医者が治療をする時のように、子どもを直に診察しなければ、癒やすことはできないと決めてしまっています。(47節) また、49節では「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」と、やはり医者に来てもらう時と同じように、子どもが死なないうちでなければ、この人は何もできないと思っています。

しかし、役人は、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた時に、憤慨して帰ることをしませんでした。それは、何よりも息子のためであったでしょう。けれども、それだけではなく、自分がただ自分の願いのために主イエスを用いようとしていたことを、認めたのだと思います。「私の身勝手さを認めます。けれども、子どものために来てください」と、悔い改めの心を持ちました。

その心は、この後の彼の行動に表れています。主イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きている」と言われた時に、その人は、その言葉を信じました。50節には「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰っていた」とあります。彼は、一緒に来てもらうことも、死ぬ前に見ていただくことも、そして、目の前で奇跡の業を見ることも、全て、叶えられないのに帰って行きました。ただ、主イエスのお言葉を信じる者になっていました。

  • 心のあり方を変える時

この役人の変化が、今日の聖書の中で、一番不思議なことです。なぜ、彼は自分の思いを全て手放して、ただ主イエスのお言葉を信じることができたのでしょうか。これは、主イエスにお会いする時に、人の内に起こる変化です。

ヨハネによる福音書3章1~15節に、主イエスとニコデモの会話が書かれています。そこで、「人が霊によって新しく生まれる」ことが語られています。主イエスを信じる信仰は、聖霊によって与えられます。その生まれる様子については「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(3:8)と書かれています。

主イエスの御言葉に触れる時に、目には見えませんが霊の風が吹きます。この時の役人も、「不思議な業を見なければ決して信じない」という思いを持っていることを指摘されて、聖霊によって悔い改めの思いが起こされました。彼はそれを拒否することなく受け入れました。だからこそ、自分の思いは何一つ叶えられなくても、主イエスのお言葉のみをいただいて、信じて、命じられた通りに帰ることができました。

  •  信じるものへ

 主イエスの言葉を信じた王の役人に、この後何が起こったでしょうか。彼が険しい下り坂を降りていると、家から来た僕たちに合流しました。その時、息子が生きていると聞きました。心からの安堵と、喜び、その気持ちは彼自身にしか分からないものですが、彼の心も息を吹き返したことでしょう。息子が良くなった時間を尋ねると、僕たちは「昨日の午後1時に熱が下がりました」と言いました。それは、主イエスが「あなたの息子は生きている」と言われたのと同じ時間でした。

 この後、「王の役人」は、53節で「父親」と呼ばれています。「王の役人」(46節)とその職業で呼ばれていた人がなぜここで「父親」と呼ばれたのでしょうか。これは、彼の心の変化を表わしています。主イエスのお言葉に触れる前には、自分の肩書きを着て、「私は身分の高い人間だ」と人々の前に立っていた人でした。けれども主イエスの言葉が、心のありのままの姿を明らかにされた時、彼は肩書きを脱ぎ捨て、ただの「父親」、愛する息子の父親として立っていました。

 その父親の姿は家族にも影響を与えました。父親に起こった変化と、息子に起こった癒やしを見て、彼もその家族もこぞって主イエスを信じました。ここでは「言葉を信じた」、「しるしを信じた」のように、何々を信じたという書き方はされていません。ただ、「信じた」と書かれています。これは、表面的な目に見えるできごとを信じたこととは違う言葉です。使徒言行録において、人々がキリスト教の信仰を持った時も同じように「信じた」と書かれています。これは、主イエスを神の子であり、救い主であると信じ、永遠の命をいただいたことを表わします。

  • 生きるものとなる時

今日の話は、病気の癒やしの話のように見えますが、ヨハネが語りたいと思っているのは、ある父親とその家族が主イエスを信じたできごとです。一つの家族が全員、聖霊によって新しく生まれ、一緒に天国で生きることができる永遠の命をいただいた話です。

それは、どの時点で始まったのでしょうか。父親が主イエスの御言葉をいただいた時にです。主イエスのお言葉をいただく時、それは、その人の心のあり方を変える時となります。

それだけでなく、この時点で、家族全員が信じるという道が開けました。大切な人と共に永遠の命をいただいて、天国で共に生きることができるようになる。そのような未来も主イエスの言葉によって開かれました。その言葉は私たちと大切な人たちを新しい命へ導き、永遠に生きるものとする言葉です。これは、主イエスの御言葉と聖霊が行われる業です。

  • 礼拝

7月に安井聖先生が東京聖書学院の出張講座で、茂原教会へ来てくださいました。その中で、礼拝とは、「悔い改め」と「献身」だと教えてくださいました。この悔い改めと献身は、正にこの王の役人の心に起こったできごとです。私は「しるしや不思議な業を見なければ決して信じない心を持っています」と悔い改めて、「あなたのお言葉を信じて従います」と、彼は心の向きを変えました。

今、この礼拝において、主イエスの言葉である聖書の御言葉を聞き、あなたは何を示されたでしょうか。自分の心の姿が明らかにされたでしょうか。この礼拝こそ、あなたの心のあり方を変える時です。悔い改めることを選び、霊の語りかけを受け入れて、神にあって生きるものとしていただきましょう。それは、あなただけでなく、あなたの大切な家族や友人も共に、天国で生きるものとして新しく生まれることにつながります。