「主の御手が共に」 

2023年12月3日 礼拝説教 
ルカによる福音書 1章57~66節

主の御名を賛美します。今日の聖書箇所は少し中途半端な箇所からと思われるかも知れませんが、記憶の良い方は昨年のアドベントの続きの話であることに気付かれたかも知れません。今日の個所はストーリー的には25節からの続きになります。

1、ザカリア

祭司ザカリアの奥さんエリサベトは、24節では妊娠5カ月でしたが、36節で妊娠6カ月になりました。その頃に親類のマリアが訪ねて来て56節によると3か月ほど滞在しました。そして妊娠から約9カ月後位でエリサベトは男の子を産みました。

マリアのエリサベトの家での滞在の3か月というのは、いくら親類の家とはいえ随分と長い様に感じます。しかしこの当時は公共交通機関もありませんので、近い所ならともかく、長旅の所では長い滞在が一般的だった様です。マリアはガリラヤのナザレからエリサベトの住む山里のユダの町に行きました。

ユダの町は恐らくアロンの子孫である祭司たちが住んでいたヘブロンではないかと考えられています。ヘブロンですと直線距離でも120km以上離れています。マリアの3か月という長い滞在は遠い所に来たからというよりも別の理由が考えられます。

それは恐らく年を取って妊娠したエリサベトの家事を手伝っていたのでしょう。その間にもマリアは46節からのマリアの賛歌の内容等をエリサベトと語り合って、信仰的に励まし合っていたと思われます。その時にザカリアは、二人の姿を、どの様に見て、何を感じていたのでしょうか。

年老いた自分の妻エリサベトが身ごもって、若いマリアと信仰的に励まし合っていました。しかしザカリアはこのときは口が利けないと同時に耳も聞えませんでした。ザカリアがなぜそのようになってしまったのかと言いますと、ザカリアは自分たち夫妻の祈りを主が聞き入れられ、男の子を身ごもるという預言を天使ガブリエルから聞きました。

しかし、ザカリアは自分たち夫婦が既に年を取っていたので素直にその預言を受け入れなかったからです。ですから、マリアの賛歌自体は聞こえませんでしたが、内容は奥さんから知らされたことでしょう。

そして何よりも自分にも現れた天使ガブリエルがマリアにも現れていました。そして自分の奥さんの年を取っての妊娠どころか、結婚もしていないおとめマリアが身ごもったことも聞かされました。ザカリアは奥さんのエリサベトの妊娠期間中の9カ月間、口も利けず、耳も聞こえませんでした。

この9カ月の間のザカリアの様子は聖書には何も書かれていません。しかし、ザカリアにとってこの期間はとても大切な時であったと思います。決してマイナスの期間ではなかったと思います。人間はいつも何かをして前に進み続けるのではなくて、一度立止って神と向き合う時が必要です。

旧約聖書でモーセはエジプトの王宮で40年間育った後に、直ぐにイスラエルのリーダーになるのではなくて、ミデヤンの地で40年間羊飼いをしていました。使徒パウロもダマスコへ行く途中で主イエスに出会った後に直ぐに使徒になったのではなくて、アラビアに行きました。

私たち人間にとって、全ての歩みを一度止めて、立止まって神と向き合う時が必要です。それがザカリアの様に9カ月という期間になる場合もあります。神は十戒の4番目に「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」と命じられました。毎週1週間に1日は仕事を休んで、しっかりと神と向き合う時を持つことを命じられました。それが今日の主日礼拝です。

神と向き合って、自分は1週間どの様な歩みをして来たのかを振り返り、そして今、自分がどこにいるのか、そしてこれからどこへ行こうとしているか、神と向き合う時が必要です。ザカリア夫妻の神に対する従順な歩みを、神はザカリアの名前の通りに、「主は覚えて」おられました。

エリサベトは月が満ちて、男の子を産みました。月が満ちるというのは神の時が満ちるということです。58節は何気ない文章ですがとても美しい内容です。「近所の人々や親類は、主が彼女を大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。」

何かの出来事の中に「主が大いに慈しまれた」ことを覚えることが出来るのは信仰深い人です。信仰が無ければ、「高齢出産とは珍しいこともあるもんだ」の一言で終わってしまうかも知れません。更に「近所の人々や親類は聞いて喜び合いました」。ローマ12:15のように、「喜ぶ者と共に喜」ぶことが出来るのは慈しみ深い人です。こうして1:14の預言が成就しました。

2、命名

幼子は誕生から八日目に、創世記17:12の御言葉に基づいて、神の民のしるしとして割礼を受けます。神の民に仲間入りする大切な儀式ですので人々が集まりました。これは福音派の教会では行わないところが多いですが幼児洗礼式に相当するでしょうか。そしてその時に名前を付けるのが習慣になっていたようです。

人々はお父さんの名前を取ってザカリアと名付けようとしました。私たちの感覚としては他人が勝手に人の子どもに名前を付けるなんて余計なお節介だと思ってしまいます。しかしルツ記4:17も、「近所の女たちは『ナオミに男の子が生まれた』と言って、その子に名を付け、オベドと呼んだ」とありまして、近所の女たちが子どもの名前を付けています。

地域の繋がりがとても強いことが分かります。普通はお祖父さんの名前を付けることが多かった様です。しかしザカリアも年を取っていましたので、ザカリアの名前を残すためにザカリアと名付けようとしたようです。

しかし、母親のエリサベトは反対して「いいえ、ヨハネとしなければなりません」と言います。エリサベトは天使ガブリエルが自分の親類のマリアと夫のザカリアに現れたことや、その結果、自分もマリアも身ごもったことを知っています。

その天使が自分の夫に「ヨハネと名付けなさい」と命じました。しかもその名前の意味は「主は恵み深い」と、名前の意味通りに与えられた男の子ですから、他の名前は考えられません。しかし親族の結び付きが強い社会ですから、普通は親族の名前の中から選ばれていました。

そこで人々は「あなたの親族には、そのような名の人は誰もいない」と言って反対しました。揉めてしまったので、父親のザカリアに、何と名を付けたいか、と手振りで尋ねました。手振りで尋ねたということによって、ザカリアは口が利けないだけではなくて、耳も聞こえなかったことが、はっきりと分かります。

ザカリアは書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書きました。ザカリアはヨハネが良いとか、ヨハネにしたいではなくて、その名はヨハネである、既に決まっている事実として述べました。人々としては、幼子の名前を何と名付けようかと話し合おうとしていました。

しかしザカリア夫婦は話し合うという感じではなくて、既に決められている事実として、ヨハネとしなければなりませんとか、その名はヨハネ、と断言します。しかし人々からすると、ヨハネというのは、よそ者の変な名前であるのに、夫婦の意見が完全に一致しているので不思議に思いました。

3、このことの起こる日

すると、たちまちザカリアの口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになりました。ザカリアは20節で、「このことの起こる日まで話すことができなくなる」と預言されていました。「このことの起こる日」とは何の日だったのでしょうか。

それはザカリアが天使の言ったことが完全に分かって自分で信仰告白を行う日のことです。ザカリアはこの日に天使が言ったことが完全に分かって、信じて、「その名はヨハネ」と信仰告白とも言える告白をしました。それによって20節の「このことの起こる」ことが成就したので、話すことができるようになりました。

神に前に正しいザカリア夫妻が、「整えられた民を主のために備える」ヨハネの両親として、さらに相応しくなるように神は恵みを持って夫妻を導かれました。ものが言えるようになったザカリアの第一声はどんなことだったでしょうか。神をほめたたえる賛美でした。

普通だったら「いやー、この9カ月間は口がきけなくて大変だったよーとか、あの時、何言っているのか分からなかったけど、どういうことだったんだよとか、言いそうですが、そんな話ではありません」。

ただ神をほめたたえました。神の前に正しく歩んでいた祭司ザカリアでしたが、いつのまにか人間的な常識に捕らわれて不信仰になっていました。天使の言葉にも「どうして、それが分かるでしょう」と、私が中心になっていました。預言者ヨハネの父親としては相応しくない姿勢です。

しかし信仰を回復したザカリアの口にあるのは神をほめたたる賛美です。信仰者の口にあるのは賛美です。詩編33:1は、「正しき人よ、主によって喜び歌え。賛美はまっすぐな人にふさわしい。」と言います。賛美は特に歌う必要はありません。神をほめたたえることが賛美です。

ザカリアの賛美には、自分は不信仰であったけれど、神はヨハネを与えてくださった、そして神は自分の不信仰を赦してくださったという、恵みに対する感謝であったことでしょう。私たちが不信仰に陥らないためには賛美が大切です。聖霊に導きに従って心からの感謝と賛美を献げることが信仰を守ります。

4、主の御手が共に

近所の人々は皆恐れを抱きました。その理由は3つ考えられます。1つ目は、ヨハネが年を取った夫婦から生まれたこと。2つ目は、「主は恵み深い」という不思議な名前が夫婦の合意で付けられたこと。3つ目は、口が利けなくなっていたザカリアが話し始めたと思ったら、神をほめたたえた、ことです。これらは明らかに主の御業です。

皆の恐れは神の御業に対する恐れですから、健全な恐れです。ユダヤの山里中で話題になりました。聞いた人々は余りに驚く内容だったので、皆これを心に留めました。そして「そんな不思議な産まれ方をして来たこの子は一体、どんな人になるのだろうか」という大きな期待を寄せました。

主の御手がこの子、ヨハネと共にありました。「主の御手が共にある」というのは、1つは主の御手によって守られていたということです。また手というのは力という意味です。「手を借りたい」というのは「力を借りたい」という意味です。

ヨハネには主の力が共にあるというのが、誰が見ても分かるかたちで働いていたのでしょう。主の御手は、初めに神の前に正しいザカリア夫妻と共にありました。そしてその夫妻の子が整えられた民を救い主のために備えるのに相応しい者として選ばれて、主の御手が共にありました。

主の御手は主イエスを信じる者と共にあります。それはここにお集まりの私たちと共にあるということです。そして主イエスの体である教会と共にあります。そのために主イエスはクリスマスにこの世にお生まれになり、私たちの救いのために十字架に付かれました。

主の御手は何のために私たちと共にあるのでしょうか。神をほめたたえて、神の御心を行うためです。主の御手は現代では聖霊として私たちと共にいてくださいます。ヨハネに与えられた役割は整えられた民を主のために備えることです。

これは私たちに与えられている役割でもあります。それ以外にも一人一人に役割が与えられています。私たちと共にある主の御手によって私たち一人一人に与えられている役割を果たさせていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。整えられた民を主イエスのために備えるために、先立ってヨハネがこの世に生まれました。そして主の御手がヨハネと共にありました。私たちも主イエスに救われる者として、ヨハネのように主の御手の導きによって歩ませてください。そして整えられた民を主イエスのために備えるためにヨハネのようにお用いください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。