「聖霊と火の洗礼」

2023年12月17日礼拝説教   
ルカによる福音書 3章1~20節 

主の御名を賛美します。

1、悔い改めの洗礼

この書き出しは、これから語ることが世界史の中の出来事として実際に起こったことであることを示しています。皇帝ティベリウスの治世の第15年ということから、大体、西暦27~29年頃のことで、使徒信条に出て来るポンティオ・ピラトが総督で、ヘロデがガリラヤの領主です。

このヘロデは主イエスがお生まれになられたときのヘロデ大王ではなく、その息子のヘロデ・アンティパスです。そのときに、神の言葉が荒れ野にいた、ザカリアの子ヨハネに臨みました。ヨハネは主イエスより半年、先に生まれていますので30歳位です。

ヨハネは聖霊の導きに従って、ヨルダン川沿いの地方一体に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。この当時の洗礼は水によって清める儀式でした。ここで考えさせられることは、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」とはどのようなものであるのかということです。

ヨハネの悔い改めの洗礼を受けたら罪の赦しを得ることができるのでしょうか。新改訳では、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」と訳していて原語に近いニュアンスです。ヨハネの洗礼はあくまでも罪の赦しに導くためのものであって、罪の赦しを与えるものではありません。

罪の赦しに導くための第一段階として、まずは罪の悔い改めが必要です。悔い改めの無いところには罪の赦しもありません。ヨハネの働きはイザヤ40:3~5に預言されていたとおりです。この当時に王が荒れ野を旅するときには、王の僕たちが先立って行って、道を平らにする等のことをしました。そして王である救い主によって、人々は罪の赦しという神の救いを見ます。

ヨハネの洗礼はそのような救い主イエスの道を備えるものですので、受けた方が良いものです。そこでヨハネから洗礼を授けてもらおうとして群衆が出て来ました。この群衆は悔い改める気はないのですが、自分たちは救われる者と思っていたので儀式として洗礼を授けてもらおうとしました。

しかしヨハネは群衆に、「毒蛇の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。」と言いました。この箇所だけを読むとヨハネは何と乱暴な人だろうと驚いてしまうような言葉です。ヨハネがこのような言葉を言った群衆はどのような人たちだったのでしょうか。

アブラハムの子孫のユダヤ人たちです。彼らは神によって救われるのは神によって選ばれたアブラハムの子孫である自分たちユダヤ人だと思っていました。彼らは救われるための条件は悔い改めるということとは関係なく、ただユダヤ人であることだと思っていました。

しかし救いにはそのような家系は全く関係がありません。全能の神は石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになります。ヨハネは群衆に「毒蛇の子らよ」と言いましたが、毒蛇の子というのは神の子としての資格を失った悪霊に属する敵対者という意味です。自分たちが神の子として救われて、神の怒りを免れると思うなら、悔い改めにふさわしい実を結べとヨハネは言います。

救いには家系は関係なく、その人の結び実によって判断されます。斧はすでに木の根元に置かれています。良い実を結ばない木はみな、切り倒され、火に投げ込まれます。これは恐ろしい話です。

2、良い実

皆さんがヨハネにこのように言われたらどうされるでしょうか。取り敢えずは、切り倒されて火に投げ込まれないようにするには、どうすればよいのかと考えるでしょうか。群衆は、「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねました。原語の直訳では、「では、私たちは何をしたらよいか」です。

「何をしたらよいか」という質問はどういう行いをしたらよいかという、行いの内容を聞く質問です。それは良い実とは何かと問うものです。ヨハネには3種類の人々が質問をします。そこでヨハネは一つ目の群衆には、「下着を二枚持っている者は、持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」です。

二枚の下着の内の一枚を分け与えてしまったら、一枚の下着を洗濯するときはどうするのだろうかと考えてしまうかも知れません。しかし、そのような問題ではありません。これは有り余る物の中から分け与えるのではなくて、自分も大変でも自分より貧しい困っている人に分け与えなさいという意味です。

二つ目の徴税人には、「規定以上のものは取り立てるな」です。徴税はローマから徴税人に任されていて、誰からいくら徴税するかは徴税人の裁量によって決められていました。そこで徴税人はかなり上乗せした徴税をして差額を自分の懐に入れていましたが、そのようなことはするなということです。

三つ目の兵士には、「誰からも金をゆすったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」です。兵士たちは公権力を笠に着て、金をゆすったり、だまし取ったりしていました。これは現代でも権力を持っている者が賄賂を要求するのと同じですが、そのようなことはせず、与えられているもので満足せよということです。

3、聖霊と火の洗礼

ヨハネの言葉を聞いた民衆は驚きました。旧約聖書と新約聖書の間の約4百年間は中間時代と呼ばれて、神の言葉を語る預言者が現れませんでした。しかし民衆は救い主、メシアが来ることを待ち望んでいましたので、もしかしたらヨハネがメシアではないかと考えていました。

ここで民衆と言われている人々はメシアを待ち望む信仰的な人々で、7節で毒蛇の子らよと言われた群衆とは別です。そこで自分についての皆の誤解を解くためにヨハネは説明をします。ところで今日の聖書箇所が中心構造と平行法になっていることに気付かれた方もおられると思います。10~14節が中心で良い実の内容です。3~6節はヨハネの役割で、それに対応する内容が、16、17節のヨハネの役割と主イエスの役割、7~9節の裁きの内容に対応するのが17節です。

ヨハネは自分の役割と主イエスの役割の違いを説明します。ヨハネは3節で、自分の授ける洗礼は、罪の赦しに導くための悔い改めの洗礼であることを説明しました。ヨハネの洗礼は水で授けますが、それは悔い改めの象徴です。

水で授けるヨハネの洗礼によって悔い改めた、準備の出来た者に対して、主イエスは聖霊と火で洗礼をお授けになられます。火は神がそこにおられる臨在を現すものですので、聖霊と火は同じ意味で、強調するものです。

主イエスの洗礼は罪の赦し、そのものを与えるものです。また聖霊と火の洗礼によって聖霊が与えられて、神の御心を行う力が与えられます。現代に行われる洗礼は、水によって行われますが、父と子と聖霊の三位一体の神の御名による洗礼ですので、ヨハネの洗礼と主イエスの洗礼の両方を含みます。

先程、10~14節で、良い実の内容が語られましたが、これらは聞くだけでは決して実行の出来ないことです。なぜかと言いますと良い実を結ぶためには、その前にあることが必要です。何もない所から突然に良い実を結ぶことは出来ません。

6:43、44は、「悪い実のなる良い木はなく、また、良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実で分かる。茨からいちじくは採れず、野ばらからぶどうを摘むこともない。」と言います。良い実を結ぶためには、まず初めに良い木になる必要があります。どうしたら良い木になれるのでしょうか。

主イエスはヨハネ15:1、2で、「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」と言われます。

主イエスにつながっていると、木の養分のように聖霊が送られて自然に良い実を結び良い木になります。鈴なりの木の実のように良い実を結びます。しかし主イエスにつながっていなければ聖霊が送られませんので良い実を結ぶことは出来ません。

他の人の良い実を見ると自分も同じように良い実を結びたいと願うものです。そのように願うなら、「急がば回れ」で、主イエスにしっかりとつながることです。そうするならば必ず良い実を結びます。しかし主イエスに一度はつながっても、送られてくる聖霊の働きを拒むなら良い実を結ぶことは出来ません。

聖霊の働きを拒むなら例え実を結んだとしても、見てくれの体裁は整えて良い実のように見えたとしても、聖霊の働きがありませんので、苦かったり、酸っぱかったりして、全くキリストの香りの無い実になってしまいます。そのようにならないためには、聖霊と火の洗礼で聖霊をいただいて、その聖霊の導きに従い続ける必要があります。

4、悪事を行う者

聖霊と火で洗礼をお授けになる主イエスの手には箕があります。日本語で箕と訳すと籠のような物をイメージしますが、ここで箕と訳されているのは熊手のような物で、小麦を軽く空中に放って麦と殻を分けます。麦は直ぐに落ちますが、殻は風(聖霊)によって吹き飛ばされます。

そして大切な麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされます。この火は聖霊の火と言えます。聖霊の火によって焼き尽くしていただくのは自分自身ではなく、自分の中にある良くない思いでありたいものです。

このような厳しい審判が行われますので、注意するように9節に続いて繰り返し語られます。これは決して脅迫をしているのではなく、そのようにならないための警告です。ヨハネが民衆に告げ知らせたのは、旧約の時代から預言されていた救い主、メシアが来られて神の救いを見るという良い知らせ、福音です。

しかし領主ヘロデ・アンティパスは自分の異母兄弟であるヘロデ・フィリポの妻へロディアを奪って自分の妻にしてしまいました。これは聖書の教えに反する不法行為であり、預言者であるヨハネは公に責めました。

そこでヘロデ・アンティパスはヨハネを死海近くのヨルダン渓谷にある要塞マケルスの牢に閉じ込めました。悪事を行う者は、自分の悪事を隠すために次々に悪事を重ねることとなり罪を重ねて行きます。そのような者がどのような最後を迎えるかは火を見るよりも明らかです。

ヘロデ・アンティパスが主イエスにどのように対応したのかが23:11、12に書かれています。悪事を行うヘロデとピラトはそれまでは互いに敵対していましたが、救い主イエスを嘲り、侮辱するという共通点において仲がよくなりました。最近は「類友」と言うそうですが、「類は友を呼ぶ」というものです。このような極悪同盟のようなものには関わりたくないものです。

神は私たち全ての人が良い木となり良い実を結ぶ者となるために、救い主イエス・キリストをクリスマスにこの世に遣わしてくださいました。主イエスを信じる者には聖霊と火の洗礼が授けられ、聖霊の導きに従う者は主イエスという木につながり続けます。そして聖霊が注ぎ続けられ良い実を結び続けます。クリスマスを感謝し、聖霊の導きに従って主イエスを信じ、良い実を結ばせていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この当時はまだヨハネによる、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」だけが行われていて、メシアによる洗礼がどのようなものかは知られていませんでした。しかし現代を生きる私たちには、主イエスによる聖霊と火の洗礼がどのようなものであるかが知らされており大きな恵みです。

このような恵みの時代に生きている私たちが神の最大のプレゼントであるクリスマスを素直に受け入れ、聖霊の力によって良い実を結び、幸いな人生を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。