「神の憐れみにより」

2023年12月10日 礼拝説教 
ルカによる福音書 1章67~80節 

 

主の御名を賛美します。

1、ベネディクトゥス

先週の話で、ザカリアは奥さんのエリサベトの妊娠期間中の9か月間は、口も利けず、耳も聞こえませんでした。終わりの3か月間は親類のマリアも来て二人で楽しそうに信仰的な話をしていました。男性の皆さんはもしも自分が苦しんでいる時に、自分の目の前で奥さんが友達と楽しんでいたらどの様に感じられるでしょうか。

ザカリアは「何だよ俺だけ仲間外れかよ」と言って、不貞腐れたり、いじけたりしなかったと感心します。この時のマリアは35節で「聖霊が降り、いと高き方の力が覆」っていました。エリサベトも41節で聖霊に満たされていました。恐らく聖霊に満たされた天使の様な二人に囲まれて、ザカリアは霊的に良い影響を受けたのでしょう。

聖霊に満たされた奥さんが近くにいると夫も聖霊に満たされるのでしょうか。自分が霊的に良い状態にあることを願うのでしたら霊的に良い状態の人と関わり、そうでない人との関りは避けるのが賢明です。聖書の教えは「君子危うきに近寄らず」です。ザカリアも子どもの名前を「その名はヨハネ」と書いて天使の指示に従うと、口が開けて神をほめたたえました。

そして今日の聖書箇所の初めでザカリアも聖霊に満たされて預言しました。ザカリアの預言は神への賛美ですのでザカリアの賛歌といわれます。原語では「ほめたたえられますように」から始まりますので、「ほめたたえられますように」のラテン語訳の「ベネディクトゥス」と言われます。ローマ教皇にはベネディクトゥス1世から16世までいます。

46節からのマリアの賛歌は「崇める」(マグニフィカト)と言われます。ザカリアの賛歌は2つの内容に分けられて、68~75節は民の救い、76~79節はヨハネと救い主の預言です。

2、救い

ザカリアはマリアと同じように初めに主をほめたたえます。この賛歌の1つ目のキーワードは「救い」です。69、71、74、77節と4回出て来ます。ザカリアが主をほめたたえるのは主の救いのためです。

主はどのようにして民を救われるのでしょうか。68節は「主はその民を訪れて」と言います。主が民を救われるのは、民が何かをしたからではなく、主が訪れられてですので、これは主の一方的な主導権によるものです。この救いは主の恵み以外の何物でもありません。

出エジプト記でも、主がイスラエルの民をエジプトから救う理由を出エジプト記3:16で「私はあなたがたを顧み、エジプトであなたがたがになされたことを確かに見た」と言います。主は、私たちがエジプトが象徴する罪の中で、苦しんだり、悲しんだりしているのを顧みて、訪れてくださるお方です。そして救ってくださいますので、一方的な恵みです。ザカリアは救いについて主がこれからなされる3つのことを、一つ一つ丸で既に起こったことのように過去形で確信を持って語ります。民を訪れた、民を贖なった、救いの角を起こされた、です。それは昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりにです。

角は動物の武器であり力を象徴します。救いの角は救いの力を象徴しますので、救い主を表します。聖霊に満たされると、理屈抜きに主の言葉が確実なことであるという、霊的な確信が与えられます。これはマリアもエリサベトもザカリアも同じです。この聖霊の働きによって確信が与えられることは、皆さんの中でも経験されている方が多くおられると思います。

3、敵からの救い

救いは何からの救いなのでしょうか。71、74節で敵からの救いと言います。この敵とは誰のことでしょうか。この敵は過去の歴史的には政治的な意味で使われていました。奴隷とされていたエジプトからの救いや、捕囚で連れて行かれたバビロンからの救いなどです。

そのような意味でこの当時の多くの人々が救いと言った時に、この時のユダヤの支配者であるヘロデ王の圧政からの救いとか、ローマの支配からの救いを考えて、期待したことは自然なことです。しかしザカリアはこの救いは、77節で「罪の赦しによる救い」と言います。

ザカリアが預言する救いの敵は人に罪を犯させる者です。それはサタンです。ザカリアのいう敵とは罪を犯させるサタンで、救いはサタンの支配からの救いです。そして主が民を訪れて、敵であるサタンから救ってくださる理由は何でしょうか。

それは人に対する神の憐れみです。憐れみと同じ言葉(ギ/エレオス)を72節では「慈しみ」と訳し、78節は「憐れみ」と訳しています。このザカリアの預言でも、中心のキーワードは「憐れみ」です。「憐れみ」とは何でしょうか。「憐れみ」(ギ/エレオス)は、他の言葉では、恵み、愛、真実、慈しみ、とも訳されます。

憐れみは恵みによる無償の愛です。神が人を救われる理由はただ憐れみだけです。神の憐れみは聖書全体を貫く中心の思想です。憐れみは恵み深いことですから、生まれて来た幼子ヨハネの名前の意味でもあります。

マリアの賛歌でもキーワードは原語では同じ言葉である「慈しみ」で50、54節で使われていて、58節にも出て来ます。神の慈しみ、憐れみは過去にも注がれて、現在の私たちにも注がれています。

4、救いの目的

神が憐れみによって人を救われる目的はどのようなことでしょうか。ここにおられる方々も救われる目的は何でしょうか。何のために救われるのでしょうか。74、75節で「恐れなく主に仕える 生涯、主の御前に清く正しく」です。主に仕える期間は3年とか5年終えたら卒業ではありません。

生涯、生きている限りずっとです。それは義務ではなくて神の恵みに与る者の感謝の応答です。そして主に仕える方法は「清く正しく」です。日本語でも良く「清く、正しく、美しく」と言います。これは聖書からの言葉でしょうか。宝塚歌劇団のモットーも「清く、正しく、美しく」です。

主の御前に「清く正しく」とは具体的にはどういうことでしょうか。律法の中で、どの戒めが最も重要かと尋ねられた主イエスはマタイ22:37で「あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。これは十戒を短く纏めたものです。「清く正しく」とは十戒に従って生きることです。

出エジプト記で罪を象徴するエジプトから救われたイスラエルの民に、神の民として生きるために十戒が与えられました。そして十戒に従って生きる様に命じられました。そうしますと私たちは十戒を守れなかったイスラエルの民と同じことをするのでしょうか。似ているようで少し違います。

同じ十戒に従いますが新約と旧約では十戒の意味合いが違います。旧約で十戒は人間が自分の力で守るものでしたが、新約では主イエスを信じる者に与えられる聖霊の力によって十戒を成就する者へと変えられて行きます。また十戒の一つ一つの戒めの本当の御心を主イエスは詳しく説明されました。

マタイ5章にありますように、「殺すな」の戒めは、人の肉体を殺さなければ良いのではありません。きょうだいに対して腹を立てたり、馬鹿と言う者は、きょうだいの名誉を殺しているので、戒めを破ることになります。

安息日の戒めは、主イエスご自身が安息日の主(マタイ12:8)と言われ、安息日の御心は1週間に1日、安息の日を持って神と交わることです。「恐れなく主に仕える」とは敵であるサタンや人を恐れるのではなく、神だけを畏れ敬い、神と隣人を愛して仕えることです。

5、ヨハネの預言

ザカリアは自分の息子ヨハネが、いと高き者の預言者と呼ばれ、主に先立って行き、その道を備えると預言します。町等の雑踏の中を身分の高い人が通る時には、人々を道の脇に行かせて道を備えるということが、どこの国でも行われていたようです。

聖書学院の講師に牧師子弟である千代崎備道先生がいます。道を備えるという、この聖書箇所から取られた名前です。とても優秀な先生で、現在、池ノ上教会の牧師ですが、良く名前のプレッシャーに負けないで、立派な先生になられたと思います。

ヨハネが備えた道は何の道なのでしょうか。次に「救い」をとありますから、道というのは救いの道です。ヨハネの役割は救いを民に知らせることです。ところで救いとはどういうことでしょうか。救いは罪のゆるしによるものです。ヨハネは罪のゆるしによる救いを民に知らせます。

ここにヨハネと主イエスの役割の違いがあります。ヨハネは道を備える者として、罪のゆるしによる救いを民に知らせる役割で、罪のゆるしによる救いを与えることはではありません。ヨハネはあくまでも救い主のために道を備える者です。

ヨハネはなぜその様な罪の赦しによる救いを民に知らせる必要があったのでしょうか。それは人々は救いはローマの支配からの解放のような政治的な意味での救いだと思っていたからです。そこでヨハネは誤解が起きないように、前もって、この後に来られる救い主がもたらされる救いは政治的なものではなくて、霊的な意味での罪の赦しであることを民に知らせる必要がありました。しかし残念ながらヨハネの説明も理解してもらえませんでした。

6、神の憐れみにより

神の救いは、ただただ神の憐れみによります。ですから救われる人に何か良い徳などがある訳では全くありません。そのことを本当に謙虚に受け止める必要があります。それで憐れみによって救われる人は他の人に対しても憐れみを持つことが求められます。神の憐れみの極みが救い主をこの世に送ってくださったクリスマスです。

当時のイスラエルは暗闇と死の陰に覆われていました。旧約聖書と新約聖書の間の時代は中間時代と言われますが、預言者も現われなくなりました。ユダヤ教も膠着化して生命力の無い形式主義になっていました。暗闇と死の陰に覆われているのは現代も余り変わりません。

その様な所に、高い所から曙の光が我らを訪れます。それがクリスマスにお生まれになった主イエスです。主イエスがクリスマスにこの世に来られたのは、ただ神の憐れみによります。そして我らの足を平和の道へ導きます。

聖書には体の部分の名前が多く出て来て、色々な意味を表して面白いものです。先ほどは角がありました。70節の「口を通して」は無くても良い表現です。口には「親しい」という意味がありますので、口によって語るというのは、親しく語るということです。

71、74節の「手」は力を表します。敵の手から救い出すということは、敵の力から救い出すということで、敵の力よりもっと強い力で救われることです。79節の「足」は行動全体を表します。ヨシュア記でもヨシュアが自分の足で踏んだ土地は自分のものとなります。

ここで我らの足を導くとは、私たちの全体(心と身体)を力強く導かれるという意味です。そして私たちを導く「平和の道」とは、神との平和、神にある平和です。私たち人間にとって最高の状態、幸いは神との平和があることです。

私たちを神との平和の道に導くために、神はクリスマスに主イエスキリストをこの世に送ってくださいました。それはただ神の憐れみによります。聖霊導きにの従って感謝して主イエスを受入れ、私たちの足を力強く平和の道へ導いていただきましょう。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスに道を備えるために、先立ってヨハネがこの世に生まれ、罪の赦しによる救いを知らせました。それは神の憐れみによりクリスマスにお生まれになられた救い主イエス・キリストによって平和の道に導かれるためです。

しかし暗闇と死の陰に覆われているのは当時も現代も変わりがありません。それぞれが正義と称して、争いが続いています。聖霊の力によって全ての人々が主の前に清く正しく歩み、主にある平和へとお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。