「神に栄光」

2023年12月24日 礼拝説教  
ルカによる福音書 1章1~21節

        

メリークリスマス。今日はクリスマス礼拝で、全ての人の救い主であるイエス・キリストのご降誕を祝う日です。

1、ヨセフとマリア

皇帝アウグストゥスから住民登録の勅令が出ました。住民登録は普通は兵隊を徴兵する目的もありますが、今回の住民登録は税金を集めるためだけです。人々は登録をするためにそれぞれ自分の町へ旅立ちました。他の人に頼んで代理で登録をすることは無かったようです。

ヨセフは約千年前のダビデ王の家系なのでガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行きました。身重になっていた、いいなずけのマリアも一緒です。マリアは身重で臨月に近い状態です。そして、ナザレからベツレヘムは112キロあります。

二人の状況から考えて恐らく歩いて行ったと思われますが、とても大変だったと思います。この時に皆さんがヨセフとマリアの立場だったらいかがでしょうか。身重でのベツレヘム行きは大変だったとは思いますが、これは神の御計画でした。

マリアはまだヨセフとの結婚の前ですが身重になっていましたので、そのことが公になれば当時は石打ちによる死刑になりました。これまでマリアの妊娠は周りの人に気付かれなかったかも知れませんが、臨月になればさすがに目立つでしょうし、更に出産を迎えれば誰の目にも明らかになります。

ただでさえ初めての出産で大変なときに、そのような余計なことを気にしなければならないのは負担です。1:54でマリア自身が言ったように主は、「慈しみを忘れず その僕イスラエルを助けてくださいました。」 

ところが、二人がベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせました。ミカ5:1の、救い主はベツレヘムで生まれるという預言の成就です。飼い葉桶は動物のえさを入れるもので、イスラエルの飼い葉桶は石を掘った物です。ということは、出産場所は家畜小屋でした。

そのようなことになってしまったのは、宿屋には彼らの泊まる所がなかったからです。どうして泊まる所がなかったのかと思うのですが、物理的にはマリアが身重のために、早く歩くことが出来ずに到着が遅れて宿屋は既に満室になっていたと考えられます。

宿屋には泊まる所がなくても、ヨセフは自分の町に帰るのですから、親戚等に頼めば家畜小屋よりはましな所に泊めてもらえたと思われます。しかしそうするとマリアは奥さんなのか等の話をされるかも知れませんので、そのようなことは避けて家畜小屋を選んだのかも知れません。

家畜小屋は恐らく洞穴であったと考えられていて、衛生的には問題はありますが、気温的には夏は涼しく冬は暖かいと言われますので悪くはなかったかも知れません。主は慈しみを忘れずその僕を助けてくださいます。

2、羊飼いたち

さて、羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。このことからもキリストがお生まれになったクリスマスは今の季節ではないように考えられます。クリスマスの12月25日はあくまでも、キリストのご降誕を“記念”する日であって、キリストのご降誕した日という訳ではありません。

すると主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、羊飼いたちは非常に恐れました。当時は電気の光もありませんから、主の栄光が照らしたら驚いて恐れるのは自然でしょう。天使は「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。」と言います。

「恐れるな」の後には新改訳では訳しているように、原語には「見なさい」という言葉が入っています。それは恐れることなくきちんと見れば大きな喜びであることが分かるということです。その喜びとは何でしょうか。それは旧約聖書に預言されて、ユダヤ人が長い間待っていた救い主メシアが今日ダビデの町に、お生まれになったことです。

この当時の宗教権威者は祭司であり律法学者たちです。しかし救い主の誕生はまず初めに羊飼いたちに知らされました。神は羊飼いのように、この世で低くさせられている者を顧みて目を留めてくださるお方です。

3、クリスマス

さてここでクリスマス・クイズです。キリストがお生まれになった日にちは分かっていませんが時間帯は分かっています。どの時間帯でしょうか。クリスマスですのでサンタクロースに因んで三択にしたいと思います。選択枝は大まかに朝、昼、夜です。手を挙げなくて結構ですので、心の中で決めてください。

天使は11節で羊飼いたちに「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言っていますが、これだけでは時間帯は特定出来ません。しかし天使は羊飼いたちが夜に野宿をしているところに現れました。これによって答えは導かれます。

私たちの日付ですと真夜中の12時で日付が変わります。しかしユダヤの日付は日没で変わります。天使が夜に「今日救い主がお生まれになった」ということは救い主は日没の後に生まれたということです。日本の日付ですと、今日の12月24日の日没の後にお生まれになったということですので、答えは夜です。

それでキャンドルサービスは主イエスの降誕をお祝いして12月24日の夜に行われます。12月24日の日没の後はユダヤ的には日付が変わりますので、クリスマスは12月25日ということになります。

クリスマス・イブのイブはイブニング、夜の意味で、クリスマスの夜というのは12月24日の日没の後の夜を指します。それでクリスマスは12月24日の夜にお祝いをします。そういうことですので、キリストのご降誕の時間にお祝いをする今夜のキャンドルサービスに宜しければご参加ください。

4、しるし

救い主は産着にくるんで飼い葉桶の中に寝かされています。それが羊飼いたちに与えられたしるしです。このしるしは羊飼いたちが救い主を探すためのしるしではありません。救い主がこの世に来られたことのしるしです。それは他に泊まる所が無い、惨めなしるしです。宿屋には泊まる所が無かったように、人々には救い主キリストを迎え入れる所が無かったことを象徴しています。

この場面はキリストご自身がマタイ13章で語られた、天の国をからし種に譬えた譬えのようです。からし種は小さな粒で人には見過ごされてしまうような取るに足らない存在です。しかし、からし種は成長すると大きな枝を張って空の鳥が巣を作るほどになります。

同じようにキリストは飼い葉桶の中に寝かされて最も小さい姿でこの世に来られました。人々には見下げられて、見過ごされてしまうような存在です。人々が期待していたような強いダビデ王とは違った姿です。しかしこれは神の御心であり、神の知恵、天国の奥義です。それは1:51~53のためです。

そのために人目に付かないような姿でこの世に来られました。それは羊飼いのように謙る者だけを救うためです。しかし思い上がる者等、天国に相応しくない状態の者を天国に入れないためです。救い主キリストの支配は初めは小さな目立たないものですが、後には拡大して全世界を支配されることになります。

5、神に栄光

すると、突然、天の大軍と天使の賛美が始まりました。キリスト教国の映画やドラマを見ていると、突然に歌い始めるミュージカルのようなものがありますが聖書の影響なのでしょうか。私たちの生活も突然に賛美を歌い始める、賛美に溢れた生活で良いのかも知れません。その影響か分かりませんが、インドの映画でも何かと良く歌って踊っていますが。

天の大軍と天使の賛美は、「いと高き所には栄光、神にあれ」です。クリスマス・クイズ第二問です。これはラテン語では何と言うでしょうか。

「グローリヤ イン  エクセルシス  デオ」 この後に賛美する78「荒野の果てに」の歌詞です。                  (栄光)  (には)(いと高き所)(神) 

私たちも天の大軍と天使と一緒に救い主のご降誕を祝って賛美します。それは、救い主をこの世に遣わされた、いと高き所である天におられる父なる神に栄光を帰して褒めたたえる賛美です。神の栄光は地においても表されます。「地には平和、御心に適う人にあれ。」それは御心に適う人に与えられる平和によってです。

御心に適う人とは救い主キリストを受け入れる人です。神との平和、シャロームを受け入れる人は聖霊の導きに従って隣り人との平和を実現し、神に栄光を帰します。

6、救い主を見る

8~21節の文章の構造を眺めていると面白く色々と考えさせられます。ここにも中心構造と平行法が使われているようです。8~14節は徐々に盛り上がって行って14節の賛美がピークで、その後は折り返して行きます。

10節で天使が羊飼いたちに知らせて、「見なさい」と言ったその言葉の通りに、15節で羊飼いたちは、「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合いました。そして幼子を見た羊飼いたちは天使から告げられたことを人々に知らせました。クリスマスのことを知らされたら探し当てて見る、そして見たら知らせるということです。

クリスマスのことは今や世界中の多くの国に知られています。しかし救い主を探し当てて見ている人は多くはないかも知れません。どうしたら救い主を見れるのでしょうか。一つは教会に行くことです。何らかの理由で教会に行くのが難しい場合には、聖書の中で救い主を探し当てることも出来ます。

ただ救い主は、思い上がる者を追い散らすために、飼い葉桶の中の幼子のように小さい者の姿としておられます。教会はどのようなところなのでしょうか。教会は主イエスを頭とする身体ですから天国のようなところを目指しているところです。

しかしその実態は、ある意味で家畜小屋のような部分があるのかも知れません。教会をいつも綺麗にお掃除をしてくださっている方々がいて、とても感謝なことです。これは衛生的な意味で言っているのではありません。教会は正しい人の集まりではなくて、罪を赦された、またこれから罪を赦される罪人の集まりです。

人間の罪があるという意味で家畜小屋のような部分があります。これは教会に限らず、家庭で、職場で、人間関係で家畜小屋のような汚れた部分があります。動物のような声も聞こえて、私たちは時にうんざりしてしまうことがあります。しかし大切なことは、そのような所におられる救い主を探し当てることです。

どうしたら救い主を探し当てることが出来るのでしょうか。救い主を見るために、行くことです。自分の立場、考え方を変えないで、自分の考え方だけで見ていたら、救い主を探し当てることは出来ません。救い主を見るためには行く必要があります。

行くというのは例え場所は同じ所にいても、自分の考え方を離れて神の御言葉を受け入れて従うことです。羊飼いたちのように自分を低くして、神の言葉に素直に従うことです。羊飼いたちは救い主を探し当てました。羊飼いたちは特別に賢かったから探し当てた訳ではありません。ただ素直に従っただけです。

羊飼いたちは直ぐに救い主のことを人々に知らせて証し人となりました。羊飼いたちは、神を崇め、賛美しながら帰って行きました。どのような賛美をしたのでしょうか。恐らく14節の賛美をしたのではないかと思います。

14節では羊飼いたちはただ聞いていただけでしたが、何もかもが真実であって、14節の御心に適う人とは救い主を受け入れる人のことであり、自分たちのことだと分かった時には賛美の気持ちに溢れたことでしょう。

ルカによる福音書は賛美に溢れています。1:46からのマリアの賛歌、1:68からのザカリアの預言(賛歌)、2:14の天の大軍と天使の賛美、2:20の羊飼いたちの賛美、2:29からのシメオンの賛美です。

救い主を受け入れて、賛美し、神に栄光を帰する、それが本当のクリスマスです。クリスマスはユダヤの民が何世紀間も待ち望んでいた真の救い、真の平和の君の誕生です。そしてその平和の源である救い主は羊飼いやユダヤ人だけでなく、私たちすべての救い主です。

クリスマスは救い主を喜んで迎え入れるすべての人のためのものです。真の救い主キリストを心に迎え、そのご降誕を祝い、神に栄光を帰し、神による平和を与えていただきましょう。クリスマスはマリアやヨセフ、羊飼いのように心を低くして、神の声を素直に聞く者のところに訪れるものです。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この世はある意味で本当に家畜小屋のような所であり、私たちは時に気が滅入ってしまうようなこともあります。しかしそのような中でも私たちの救い主キリストはクリスマスにお生まれになられ飼い葉桶に寝かせられました。

私たちも聖霊の導きの中で、羊飼いたちのように自分を低くし謙って、あなたがこの世に遣わしてくださったキリストを探し当て、賛美させてください。神に栄光を帰し、御心に適う者として、あなたによって与えられる平和を実現させる者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。