「悪を取り除く」

2023年12月31日礼拝説教  
申命記 22章13節~23章1節

        

主の御名を賛美します。大晦日になりました。今年も色々なことがありましたが、神に守られ、皆さまの祈りとご協力に支えられて今日を迎えられたことを感謝いたします。

1、処女の証拠

今日と次回の聖書箇所を今回、初めに読んだときには、正直なところ、飛ばそうという思いもありました。しかし神の言葉であることを覚えて繰り返し読んでいる内に、本当に大切な内容であることに気付かされました。

説教題の「悪を取り除く」は今年だけで4回目です。説教題の付け方は牧師によって色々な考え方があります。私は基本的にその聖書箇所の中心の言葉をそのまま取るようにしています。面白味が無いとも思われるかも知れませんが、神の言葉には力があり、私が何かを加える必要は無いと思うからです。

「悪を取り除く」が今日で4回目ということは、申命記は「悪を取り除く」ことを徹底して強調しています。神は聖なるお方ですから悪をそのままにして見過ごすことは出来ません。今日は6個の悪の例があります。

一つ目は、ある人が妻をめとり、彼女のところに入ってから、彼女を憎むようになる場合です。まず初めに、なぜそのようなことが起こり得るのだろうかと考えさせられます。思うに、その人はその妻を初めから純粋には愛していなかったのではないかと思われます。

サムエル記下13章でダビデの子アムノンは、腹違いの美しい妹タマルに恋をしますが、力ずくで関係を持つと憎しみを覚えるようになりました。アムノンは残念ながらタマルの人格を愛していたのではなく、何か他の興味を持っていたとしか思えません。

この人もこの妻をどのような目的でめとったのかは分かりません。しかし純粋に愛していたとは到底、思えません。単なる興味本位であったのかも知れません。そして自分の欲望を満たしてしまうと憎むようになったのでしょうか。

また当時は複数の妻を持つことが、特に裕福な人にはあったようですので、この妻は一人目の妻ではなかった可能性も考えられます。複数の妻を持つことは当時、戦争等で男の人数が女より少なかったことによる等の理由も考えられます。しかし神が制定された結婚のあり方とは違います。

憎むようになると、「私はこの女をめとって近づいたが、処女の証拠が見つからなかった」と、不当な言いがかりをつけて、彼女に汚名を着せることがあり得ます。ただ単に嫌になったというだけでは、離婚の正当な理由として認められないので、不当な言いがかりをつけるようです。

そのような場合には、その娘の両親は、娘の処女の証拠を町の門にいる長老たちのところに持って行きます。訴えるのは娘の父親で、「この男は娘を憎み、しかも、娘の処女の証拠がないと不当な言いがかりさえつけました。」と言います。

「憎む、不当な言いがかりをつける」という言葉が2回言われて強調されます。これは現代でも起こることで、人を憎むようになると不当な言いがかりをつける人はいます。不当な言いがかりをつけるとは簡単に言うと嘘をつくことです。いくら憎んでも大抵の人は流石に嘘まではつきません。

一度、嘘をつくと、嘘を隠すために嘘を重ねて行くことになり、嘘は必ず明らかになります。しかし嘘をつく人は自分の嘘が明らかになっても余り気にはしないようで、自分を正当化するために取り敢えず嘘をつくことに慣れてしまうようです。

「隣人について偽りの証言をしてはならない。」は十戒の第9の戒めで、私たちは来年から毎月の第3主日に十戒を告白することにしました。私たちもしっかりと覚えて皆で悪を取り除きたいと思います。

父親は娘の処女の証拠として長老たちに娘の衣を広げて見せます。証拠によって嘘は一目瞭然です。長老たちは不当な言いがかりをつけて嘘をついたその男を罰します。この「罰する」という言葉は、むち打ちなどの体罰を伴っていたようです。

また罰金として銀百シェケルを娘の父親に渡します。1シェケルは11.4gですので約1キロです。歴代誌下1:17で馬1頭が150シェケルです。29節で花嫁の結納金が50シェケルですのでその倍の罰金です。男が妻に不当な言いがかりをつけたのは、離婚を正当化する目的と結納金の50シェケルを取り戻そうとする魂胆があったのかも知れません。

最後の結論は少し疑問を感じるような内容です。彼女は彼の妻であり、彼は生涯、彼女を離縁することはできません。皆さんがもしこの妻の立場であったらどのように思われるでしょうか。もしも私が妻の立場でしたら、このような嘘までつくような下らない嫌な男とはとっとと離縁をしたい感じです。

しかし神はなぜもっと多額の罰金をこの男に科して離縁をさせないのでしょうか。妻という立場であることによって、特にこの時代には色々な意味で生活が守られて良いことであったとは思います。しかしそれ以上に、現代の私たちの考えを遥かに上回って、神は例えどんなことがあったとしても、一度は夫婦になったものを大切にされるように感じます。

「処女の証拠」という言葉が5回使われて強調されていて、それは両親が保管しておかなければならない大切なものです。聖書で姦淫は真の神から離れて異教と関わることを象徴しますので、処女というのは真の神のみを知る純粋性の大切さを象徴していると言えます。そしてそれは両親が管理するものです。

しかしもし男の言葉が本当である場合には、町の人たちは彼女を石打刑にします。そして死によって悪を取り除くことになります。これまでにありました悪を取り除く場合もすべて死刑です。現代において、聖書の言葉の通りに死刑を行っとしたら何件の死刑が行われることになるのでしょうか。

しかしこれは時代の感覚が違うという問題で済まされることではありません。性というのは神が造られたものであり、新しい命を生み出すものでもあり、神が制定された結婚の中では祝福と喜びとなります。しかし、結婚の外では死をもって取り除く必要のある悪であるということです。

2、姦淫

二つ目は、ある人が夫のいる女と寝ているのを見つけられた場合で、不倫が発覚したケースです。現代でも有名人のスキャンダルとしては一番多いもののように感じます。聖書に書かれている多くの罪も性的不品行が多いものです。ローマ1:18からのところに人間が罪を犯す順番が書かれています。

神を否定する者は、1番初めに偶像礼拝を行い、2番目に性的不品行を行います。偶像礼拝は十戒の第1、2の戒めで禁じられ、姦淫は第7の戒めで、「姦淫してはならない。」と禁じられていることです。性的不品行を行う者は3番目に、あらゆる不正、邪悪、争い、悪意に満ち、陰口を叩き、悪口を言い、悪事をたくらみます。これは一つ目の例のある人が行うことそのものです。

三つ目は、ある男と婚約した処女の娘に別の男が目をつけ関係を持った場合です。この男はなぜわざわざ婚約している娘に目をつけるのでしょうか。二つ目のケースでもなぜわざわざ夫のいる女と関係を持つのでしょうか。夫もおらず婚約もしていない女性と結婚をすれば何も問題はありません。

そこには敢えて隣人のものを欲しがり貪るという邪悪な思いがあります。これが町の中で行われる場合には、助けを求めて叫ばなかった合意の上と見なされて、二人とも死をもって、悪を取り除くことになります。

四つ目は、ある男が野において、婚約している娘を力ずくで捕まえて関係を持った場合です。この場合には娘は叫んだが救う者がいなかったと見なされて、娘は無罪であり男だけが死刑となります。このような犯罪は女性にトラウマとなるものですので、重罪が妥当と思われます。

五つ目は、ある男が婚約していない処女の娘を捕まえて関係を持ち発覚した場合です。「捕まえて」という言葉から女性の合意はありません。その男は、娘の父親に銀50シェケルの結納金を支払い娘を自分の妻として、生涯、彼女を去らせることはできません。この場合も素直に腑に落ちないものです。

結婚外で関係を持つことは姦淫であり十戒の第7の戒めの、「姦淫してはならない。」を破ると共に、女性を「捕まえて」強制的に関係を持つことは、女性の人権を殺すことであり、第6の戒めの、「殺してはならない。」を破ります。また女性の将来の人生を盗むことであり、第7の戒めの、「盗んではならない。」を破ることと言えます。

しかし神は例えどのような経緯があったにせよ、関係を持った者は夫婦となるものとのお考えのようです。先程のサムエル記下13章で義理の兄のアムノンに力ずくで関係を持たされたタマルは、その後に自分を憎んで追い出そうとするアムノンに対して、自分を追い出すことは力ずくで行ったことよりも卑劣であると訴えたことはとても印象的です。

六つ目は、「誰も父の妻をめとって、父を辱めてはならない。」です。父の妻ということは、その人の義理の母です。女性はこの世に沢山いますので、わざわざ義理の母をめとる必要はありません。それは神の忌み嫌われることです。

3、悪を取り除く

姦淫や性的不品行は申命記よりも遥か昔の創世記の時代、今から4千年位前にもありまして、そのためにソドムとゴモラの町は滅ぼされました。そしてこの申命記でも死をもって悪を取り除きなさいと命じられています。しかし姦淫や性的不品行は取り除かれて行っているどころか、もしかすると時代と共に増々、蔓延して行っているようにも感じます。

姦淫に限らずローマ1章の神を否定する者が3番目に至る悪も増々、蔓延しているようです。最近、増えている戦争等もその現れの一つです。そのような悪は一体、どのようにしたら取り除くことが出来るのでしょうか。クリスチャンの間で悪を取り除くことは、若しかすると、クリスチャン以外の人の間で取り除くよりも難しさがあるかも知れません。

それはクリスチャン以外の人の間で悪がある場合には、情け容赦なく許されないからです。簡単に人間関係は断ち切られます。しかしクリスチャンの間では、ある意味での甘さのようなものがあります。それは聖書で「悪を取り除きなさい」と命じられている一方で、主イエスの、「罪を犯す者を七の七十倍まで赦しなさい。」(マタイ18:22)や、「毒麦は刈り入れまで育つままにしておきなさい。」(マタイ13:29、30)という御言葉があり、そこに付け入る者がいるからです。

その結果、悪が蔓延ることとなり、場合によってはクリスチャン以外の人の間よりも酷い悪となることがあります。人というのは中々、他の人の言うことを聞くのが誰でも難しいものです。ましてや悪を行っている者はなおさらです。それは最終的にはどこに行き着くことになるのでしょうか。

ローマ1:32は、神を否定する者の最終の4番目として、このようなことを行う者は死に値するのが神の定めと言います。これは自ら死を招くことであり、死という裁きをもって悪を取り除くことになります。クリスチャンは神の恵みの中を生きる人であり、主イエスの十字架の贖いによってどのような罪を赦されて、今年度の標語のとおりに、「聖霊に導かれ、聖霊と共に生きる」ものです。

しかし正しい方向に導いてくださる聖霊の導きを否定してしまったら赦されようがありません。「聖霊に言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることはない。」(マタイ12:32)とあるとおりです。聖霊は全ての人を導かれるために働いてくださいます。

そして間違った方向に行ってしまいそうなときには、何度もブレーキを掛けてくださいます。私自身もそのような聖霊によるブレーキや赤信号のようなことは経験していて良い方向へ導いていただいたと感謝しています。

聖霊のブレーキと赤信号を無視した運転は慣れてしまうこともありますが、それは決していつまでも続けられるものではありません。赤信号を無視し続ける運転は時間の問題で必ず事故に遭います。時には取り返しの付かない致命傷に至ります。これまでも残念ながらそのような人を見て来て、例え無駄であったとしても、もっと注意をした方が良かったのではないかという後悔もあります。

これはある特定の人だけの問題ではありません。私たち全ての人は罪人であり、悪というのは誰でも多かれ少なかれあるものです。ただそのような私たちの悪のために、主イエスが身代わりとして既に十字架に付かれていますので、悔い改めるなら赦されます。

安井聖先生が来られ、礼拝とは悔い改めと献身あると教えてくださいました。私たちは毎週日曜日に教会に来て礼拝をしています。礼拝は悔い改めと献身を新たに行う場です。悔い改めと献身を新たに行われないならそれは礼拝ではなくなってしまいます。

神は、わたしたちの中から悪を取り除くために主イエスを十字架に付けられ、聖霊を遣わして導いてくださいます。神の恵みを感謝し、主イエスを信じ、聖霊の導きに従って、祝福の道を歩ませていただきましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。今年も色々なことがありましたが、ここまでお守りくださり有難うございます。私たち人間は昔も今も変わらず罪深く頑ななものです。しかし神はそのような私たちを憐れみ、救いの道を与えてくださり有難うございます。どうぞ私たちがあなたの恵みを感謝し、素直にあなたの救いを受け入れ、聖霊の導きに従い、新しい年も幸いな歩みをさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。