「追い払うもの」 

2023年2月19日説教 
申命記 11章18~25節

        

主の御名を賛美します。昨日は3年振りでしょうか。餅つき大会が行われ、天気にも恵まれて皆さんと共に楽しく過ごせたことを感謝しています。餅つき大会にはとても良い天気だったのですが、花粉症の私としては症状が出て来ている感じです。

使徒パウロはⅡコリント12:7で、体に一つの棘が与えられていて、三度主に願いましたが取り去られませんでした。花粉症は私の体に与えられた棘なのかとも思います。以前は杉の植林を恨めしく思ったりもしましたが、それでは何も変わらないので、今は自分の体質改善に努めて花粉症の症状が軽くなるようにと願っています。

1、主の掟を書き記す

イスラエルはこれから、天の雨で潤っている乳と蜜の流れる地に入って行きます。しかし、そこに留まるには、「主の戒めによく聞き従う」(13節)必要があります。そこで、あなたがたはこれらの言葉をまず第1に身体の内側のこととして、心に留め、魂に刻みます。申命記の原語の題名は「言葉」です。

これらの言葉は具体的には、「あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕える」(13節)ことです。「言葉を心に留め、魂に刻む」というのはどういうことでしょうか。この原語の文章を直訳すると、「私のこれらの言葉を、あなたがたの心の上と、あなたがたの魂の上に置け」です。

自分の心や魂には色々な思いがあるかも知れません。しかしそれを第1の優先とするのではありません。自分の心と魂の上に主の御言葉を置くということは、何よりも主の御言葉を第1として生きることです。それは主の御言葉に自分の心と魂を置いて従わせることです。

それは御言葉信仰と言われるとおりです。それは先週の個所の、下の地にある人力で汲み上げる水に頼るのではなく、上にある天からの恵みの雨に信頼して生きることと同じです。

第2に身体の外側のこととして、しるしとして手に結び、記章として額に付けます。このことは6:8にもありましたが大切なことなので繰り返します。6章の時にもお話しましたが、ユダヤ教徒は今も朝の祈りの時に、ここの文字通りに革紐の付いたテフィリン(聖句箱)を左手と額に結んで祈ります。

テフィリンの中には申命記6:4~9を含めた4か所の聖句が入っています。ただこれらは聖書の書かれた時代に実際に行われていたという文章はありませんので、むしろ後の時代になって行われ始めたと思われます。その当時には文字の読み書きをできる人は少なかったと思われますので、現在のように文字通りには行われていなかったと思われます。

そうであるなら、しるしとして手に結び、記章として額に付けるのはどのような意味だったでしょうか。聖書で手は力を表します。私たちが何かをする時には手を使うことが多いものです。その時に主の言葉を心に留め、魂に刻む者のしるしとして、手に紐等が結ばれているのを見て主の掟を思い起こしていたと思われます。それは自分の思いより主の掟に従うためです。

キリスト教とは関係はありませんが、現代でも願掛けをする人が手首や足首に紐状の物を付けている人がいますが、それは自分の願いを思い起こすためです。また記章として付けるのは原語では、「額に」ではなく「両目の間に」と書かれています。

インドのヒンドゥー教では額に赤いしるしを付けます。ヒンドゥー教では眉間は特別な場所で、物事の真実を見極める第3の目と言われるそうです。この時もヒンドゥー教のように額に何かのしるしを付けて、それによって自分の目で見ることを第1とするのではなくて、主の掟を通して見るようにしたと思われます。

ヒンドゥー教の眉間のしるしは聖書のこの箇所の影響を受けたのかも知れません。家の入り口の柱と町の門にも書き記して主の掟を思い起こすようにしていました。

これらは自分たちだけが行うことではありません。長く生きるというのは、自分だけが長く生きることではなく、長い世代に渡って生きることです。そのために、子どもたちにも教え、唱えさせます。子ども礼拝でも暗唱聖句を毎週、行っています。

そして機会としては、座っているときも、道を歩いているときも、寝ているときも、起きているときも、いつも唱えます。そのように一日中、御言葉を唱えるためにはどうしたら良いのでしょうか。1つは牧師になることです。牧師になると1日中、聖書の御言葉に思いを巡らす環境に置かれますので大きな恵みです。

牧師でなくても、教会学校の教師等をすることも大きな恵みです。またそのような奉仕をしなくても、1日のどこかでデボーションのときを持って、御言葉に思いを巡らしながら1日を過ごすことは大きな恵みです。

ただそれは壊れたテープレコーダーの様に、1日24時間の間、いつもずっと機械的に繰り返して唱え続けるということではないと思います。1日の間には色々な話をすることもあるでしょう。そのときに、自分の思いを優先した自己中心的な話に逸れてしまい易いこともあるでしょう。

そのようなときに、主の御言葉を人の心の思いの上に置くことをいつも教えるということです。そうすることによって、主があなたがたの先祖に与えると誓われた土地で、あなたがたとあなたがたの子どもたちの生涯は、天が地を覆う日数のように長くなります。

「天が地を覆う日数」というのは少し分かり難い言葉です。新改訳の、「天が地の上にある日数のように多くなる」の方が少し分かり易いでしょうか。天は神におられるところですから永遠です。その天が人の住む地を、天の雨で潤して覆ってくださるので、日数が長くなるというニュアンスのようです。

旧約の時代は、人間があらゆる努力をして、しるしや記章を付けたり、書き記す等を行い、主の御言葉を唱える必要がありました。これは人間の努力の限界を知って、主により頼むことを知るためでしょう。しかしエレミヤ31:33は、「私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す」と預言しました。

新約の時代は、その預言の通りに、主ご自身が私たちの心に書き記してくださいますから感謝なことです。私たちは主が私たちの心に書き記してくださる律法に聖霊の導きによって素直に従う必要があります。

2、追い払うもの

イスラエルはモーセが今日、行うように命じるこのすべての戒めを必ず守り、あなたがたの神、主を愛し、どこにいてもその道を歩み、主に付き従う必要があります。それに伴う約束はどのようなものでしょうか。

「主はこれらの国民をすべて、あなたの前から追い払うであろう。」これは大切な約束なのでもう一度繰り返して、「こうして、あなたがたは自分よりも大きく、強い国民を追い払うことができる。」のです。

ここでイスラエルが追い払う直接のものは、自分よりも大きく、強い、カナンの地に住む巨人の先住民です。

さらに、「誰もあなたがたに逆らう者はいない。あなたがたの神、主は、あなたがたに言われるとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の至るところで、あなたがたへの恐れとおののきを抱かせる。」と約束します。

イスラエルは38年前に1:23で、カデシュ・バルネアから12人の偵察隊を送りました。しかし、その時はイスラエルが巨人の先住民を見て、イスラエルが恐れ、おののいたために、主の命令に背いて38年間、荒れ野を彷徨うことになりました。イスラエルは38年前に失敗した、その大きく強い諸国民を、今回は追い払うことができます。

この箇所を文字通りに読むと、「そうか、クリスチャンになると、自分が足を踏み入れる地の至るところで、皆が自分への恐れとおののきを抱いて、誰も自分に逆らう者はおらず、自分に敵対する大きく、強い者を追い払うことができる。」と勘違いをして、これはしめしめと思ってしまうかも知れません。

そして自分に敵対する者を追い払おうとします。確かにそのような場合も全く無い訳でもないかも知れません。今日は「追い払うもの」という説教題ですが、追い払うということについて、この聖書箇所はどのように語っているでしょうか。

まず第1に、追い払う主体は誰でしょうか。ここで諸国民を追い払われる主体は主で、主が追い払われます。イスラエル自身ではありません。第2に、主が諸国民を追い払われる理由、目的は何でしょうか。それは9:4にありましたように、「この諸国民が悪かったから」です。

主が追い払われるものは、諸国民そのものというよりも、諸国民の中にある悪です。追い払うものは悪です。第3に、悪を追い払う順番はどのようなものでしょうか。まず主が諸国民を追い払われる前提条件は22節です。

ですからイスラエルは諸国民を追い払う前に、まず初めに主の戒めを守って、自分の心の中にある悪を追い払う必要があります。あなたがたが足を踏み入れ、足の裏が踏む所はすべて、あなたがたのものになります。しかしそれは、まずあなたがたのものになるというより、主の良い地になるということです。

そのためには、自分の心の中の悪に足を踏み入れ、足の裏が踏む必要があります。それは悔い改めることです。そうすれば、自分よりも大きく、強い罪を追い払うことができます。まず自分の中の罪を追い払うことなしに、自分の外にある悪を追い払うことはできません。それは22、23節に書かれているとおりです。

主イエスもマタイ7:5で、「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。」と言われます。

第4に、自分自身が悔い改めて自分の目から梁を取り除いた後に追い払うものは何でしょうか。それは、きょうだいの目にある、おが屑です。おが屑が目にあるきょうだいではありません。これはとても間違い易いことです。それは、「罪を憎んで人を憎まず」ということです。

9:27でも同じことが言われていました。モーセは主に、「この民のかたくなさと悪と罪に御顔を向けないでください。」と言いました。「かたくなで悪で罪深いこの民に御顔を向けないでください。」とは言っていません。私たちが追い払うものは、あくまでも罪自体で、罪を犯す人ではありません。

人はなぜ罪を追い払うのではなく、罪を犯す人を追い払おうとしてしまい易いのでしょうか。2つの理由が考えられますが、その第1は、自分の目に梁があるので真実がはっきりと見えないからです。そして第2の理由は、主に従わない者には主が共におられないので心に平安がなく、いつも人に対して恐れとおののきを抱いているからです。

主に従う者には主が共におられるので、今年度の御言葉のように恐れるということをしません。しかし主に従わない者は、真実が見えず、恐れとおののきを抱いているので、的外れに人を追い払うということをしてしまいます。

罪を犯す人を追い払っていたら、全ての人は罪人ですので全ての人を追い払うことになります。それは再来週の聖書箇所の内容になりますが、ヨハネ4:18のサマリアの女のようです。サマリアの女は以前に5人の夫がいて、今は夫ではない人と連れ添っています。

自分自身に命の水を持っていない人は、ある人の、ここがだめだ、あそこがだめだと言って追い払ってしまいます。それでは周りの全ての人を不幸にし自分自身をも不幸にして、祝福を失ってしまいます。追い払うべきは他人ではなく、自分自身の中にある悪です。

自分自身の中の悪を追い払うときに、主は共におられ、主にある心の平安を与えてくださいます。自分自身の悪を追い払うと言っても、特別に何か、難しいことをする必要はありません。私たちの全ての悪を背負われて主イエスが既に十字架に掛かって贖っておられるからです。

私たちはただ主イエスを信じ感謝するだけです。22節の条件は全て一度だけすれば良いことではなくて、ずっと続ける必要のあることです。「すべての戒めを必ず守り続け、主を愛し続け、その道を歩み続け、主の付き従い続けるなら」です。ただそれらを続ける力も自分の力ではなく、聖霊が与えてくださいますから安心です。

そして主が悪を追い払ってくださいます。また荒れ野からレバノン山、あの大河ユーフラテスから西の海まで、広大な地域があなたがたの領土となります。恐れとおののきから解放され、逆に悪があなたがたへの恐れとおののきを抱くようになります。

3、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたはあなたの戒めを守り、愛するなら、私たちの前から悪を追い払うと約束してくださいますから有難うございます。そしてそのために御子イエス・キリストを十字架に付けられ私たちを贖ってくださり感謝します。

あなたに贖われる者が乳と蜜の流れる地に住む者に相応しく、自分の中にある悪を主が追い払い、共同体にある悪を主が追い払ってください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。